1つの国家、国民が、これほど一人の日本人を尊敬することの凄さを痛感しました。
昨日、嘉南農田水利会の全面的なご協力をいただいて、烏山頭ダムを視察させていただきました。
八田與一氏と外与樹(とよき)夫人の墓前、その彫像にお参りし、水利会が用意してくださった花束を西村ご住職がお供えさせていただきました。松本御導師によって一座のお看経。ご回向の言上。一つの夢が叶った想い。胸が熱くなりました。
殉工碑でも同様にご回向していただきました。小さな蝶々がヒラヒラと舞い、その穏やかで優しい姿に感動しました。
台湾の李登輝総統が八田與一氏の業績を称え、馬英九総統は選挙公約として八田技師記念講演を建設。様々な感情や思想が渦巻く台湾にあって、それらを超越した平和や繁栄、協調のシンボルとなっていること。
八田與一氏は10年の歳月をかけて東洋屈指のダムを建設し、洪水と干ばつ、塩害に苦しんでいた嘉南平原15万ヘクタールの荒野に住んでいた60万人の農民に対して、烏山頭と濁水渓の水を16000キロ(地球半周分)の給排水路に水を引き、3年で荒れ地が沃地に変わり、この広大な土地を穀倉地帯に変貌させて地域住民の生活を一変させました。
この日本統治時代の功績、土木技術の普遍的価値、しかも八田氏は「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という考えから、作業員の家族を一緒に住まわせ、宿舎のまわりには学校や病院、テニスコート、プールなどの福利厚生施設も建設したという。
いわゆる徴用工訴訟などがあり、戦時中の労務について悪い印象ばかり持っておられる方がいるかもしれません。しかし、日本統治時代の、八田與一氏が行ったことなどをもっと知っていただかなければなりません。
殉工碑は、建設作業中に事故や病気などで亡くなられた方々のための慰霊碑です。これは八田氏により碑文が刻まれています。その当時のまま、現在に遺されています。日本人も台湾人の別もなく、全く同じ列の中に、一緒に名前が刻まれています。本当に、尊いです。
これらは八田氏の人間性であったと思いますし、八田氏だけではなく当時の日本人の精神性の表れであったと思います。本当に尊いことです。
台南市の小・中学校の教科書に八田技師の業績を教えることが義務づけられていて、「郷土を助けてくれた人 八田與一」の出だしには「現在私たちが蛇口をひねったらすぐに水が使えるのも、豊富な米を食べられるのも、すべて烏山頭ダムの設計者・八田與一のおかげなのです」と書かれています。まさに「飲水思源」の心を教えています。私たちも学ばなければならないと思いました。
その大きな業績、功績を目の当たりにして、実地に見学、視察をさせていただき、八田與一ご夫妻や建設工事中に亡くなられた方々のご回向もさせていただくことが出来て、本当にありがたかったです。
八田與一氏は次なる任務の地・フィリピンへ向かう途中、米軍の潜水艦から放たれた魚雷によって乗船していた船が被弾・沈没し、帰らぬ人となりました。
與一氏がこの世を去った3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなりました。この烏山頭にいた外与樹夫人は烏山頭ダムの放水口に身を投げて後を追ったのでした。
昨日、その放水口にも行かせていただきました。
水利会の方々が、私たちのために水門を開けて特別に放水をしてくださいました。その勢いに圧倒されました。怖いくらいの勢いです。
この水が、ここから流れてゆく水が、台湾の荒野を肥沃な大地に変貌させたのだと、実感することが出来ました。
そして、ここで亡くなられた外与樹さまを思って、ただただ御題目をお唱えいたしました。現在ではこの放水口の上部には「八田技師記念室」が設置されており、様々な遺影や遺品が展示されています。
台湾で約半世紀ご回向を続けてきた本門佛立宗と、八田家の皆さまが御縁をいただいたことは、凡夫の考えでは想像もつかないことで、人智や自力の及ばぬことでもあります。
ただただ、めぐり会わせ、ご回向の功徳、見えない世界、見えない力の為すものと思います。
昨日、嘉南農田水利会の全面的なご協力をいただいて、烏山頭ダムを視察させていただきました。
八田與一氏と外与樹(とよき)夫人の墓前、その彫像にお参りし、水利会が用意してくださった花束を西村ご住職がお供えさせていただきました。松本御導師によって一座のお看経。ご回向の言上。一つの夢が叶った想い。胸が熱くなりました。
殉工碑でも同様にご回向していただきました。小さな蝶々がヒラヒラと舞い、その穏やかで優しい姿に感動しました。
台湾の李登輝総統が八田與一氏の業績を称え、馬英九総統は選挙公約として八田技師記念講演を建設。様々な感情や思想が渦巻く台湾にあって、それらを超越した平和や繁栄、協調のシンボルとなっていること。
八田與一氏は10年の歳月をかけて東洋屈指のダムを建設し、洪水と干ばつ、塩害に苦しんでいた嘉南平原15万ヘクタールの荒野に住んでいた60万人の農民に対して、烏山頭と濁水渓の水を16000キロ(地球半周分)の給排水路に水を引き、3年で荒れ地が沃地に変わり、この広大な土地を穀倉地帯に変貌させて地域住民の生活を一変させました。
この日本統治時代の功績、土木技術の普遍的価値、しかも八田氏は「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という考えから、作業員の家族を一緒に住まわせ、宿舎のまわりには学校や病院、テニスコート、プールなどの福利厚生施設も建設したという。
いわゆる徴用工訴訟などがあり、戦時中の労務について悪い印象ばかり持っておられる方がいるかもしれません。しかし、日本統治時代の、八田與一氏が行ったことなどをもっと知っていただかなければなりません。
殉工碑は、建設作業中に事故や病気などで亡くなられた方々のための慰霊碑です。これは八田氏により碑文が刻まれています。その当時のまま、現在に遺されています。日本人も台湾人の別もなく、全く同じ列の中に、一緒に名前が刻まれています。本当に、尊いです。
これらは八田氏の人間性であったと思いますし、八田氏だけではなく当時の日本人の精神性の表れであったと思います。本当に尊いことです。
台南市の小・中学校の教科書に八田技師の業績を教えることが義務づけられていて、「郷土を助けてくれた人 八田與一」の出だしには「現在私たちが蛇口をひねったらすぐに水が使えるのも、豊富な米を食べられるのも、すべて烏山頭ダムの設計者・八田與一のおかげなのです」と書かれています。まさに「飲水思源」の心を教えています。私たちも学ばなければならないと思いました。
その大きな業績、功績を目の当たりにして、実地に見学、視察をさせていただき、八田與一ご夫妻や建設工事中に亡くなられた方々のご回向もさせていただくことが出来て、本当にありがたかったです。
八田與一氏は次なる任務の地・フィリピンへ向かう途中、米軍の潜水艦から放たれた魚雷によって乗船していた船が被弾・沈没し、帰らぬ人となりました。
與一氏がこの世を去った3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなりました。この烏山頭にいた外与樹夫人は烏山頭ダムの放水口に身を投げて後を追ったのでした。
昨日、その放水口にも行かせていただきました。
水利会の方々が、私たちのために水門を開けて特別に放水をしてくださいました。その勢いに圧倒されました。怖いくらいの勢いです。
この水が、ここから流れてゆく水が、台湾の荒野を肥沃な大地に変貌させたのだと、実感することが出来ました。
そして、ここで亡くなられた外与樹さまを思って、ただただ御題目をお唱えいたしました。現在ではこの放水口の上部には「八田技師記念室」が設置されており、様々な遺影や遺品が展示されています。
台湾で約半世紀ご回向を続けてきた本門佛立宗と、八田家の皆さまが御縁をいただいたことは、凡夫の考えでは想像もつかないことで、人智や自力の及ばぬことでもあります。
ただただ、めぐり会わせ、ご回向の功徳、見えない世界、見えない力の為すものと思います。
そのことを精一杯に受け止めて、ご奉公させていただくべきだと思います。
今日は嘉南農田水利会の楊会長にご挨拶に伺います。
「飲水思源」。今の時代にこそ必要な思想、教えです。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
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