2007年12月7日金曜日

心の中の大掃除

 昨夜、京都から横浜へ移動。

 今日から12月の教区御講がスタートした。平成19年の締めくくり。ここから全教区の席主のお宅にお伺いし、御講を奉修する。お看経と御法門。今日は天気も良かったが、お参詣者の顔が明るい。有難いことだ。

 実は、妙深寺は寺内だけの変更を行った。通常、宗門の弘通年度は11月で締められ、12月に新弘通年度がスタートする。しかし、これもレベルの高いご信者や役中陣が揃っていれば頭の切り替えも出来るのだろうが、今の妙深寺でそれを理解できる人は少ない。12月が「新弘通年度」、1月が「新年」、4月が「新年度」と。指導がままならず、非常に複雑に受け取られてしまった。そう考えに考えて、12月で締め、1月の元旦をスタートとした。

 だから、正真正銘の締めくくりが12月。大いに1年を振り返り、ご信心・ご奉公の面、家庭や社会生活の面に於いても振り返ってお懺悔をさせていただく。「心の中の大掃除」をして、越年迎春を期していただきたい。

 写真は12月2日の朝の横浜。本当に朝焼けが綺麗だ。

2007年12月3日月曜日

堀田さんのご信心

 妙深寺の堀田さんは、長年東京都庁に勤務され、重要な職務を歴任されてこられた。この度、その功績が認められるところとなり、《瑞宝小授章》を受賞された。奥さまは戸塚教区四部で部長のご奉公をされており、長女の薫さんは青年会の会長のご奉公をしてくださったこともある。堀田さんご自身も評議員として妙深寺の中核を支えてくださっている。
 その堀田さんが、皇居から妙深寺へお参詣くださり、御宝前に御礼の言上をされた。ちょうど私も本堂に行かせていただいて、堀田さんにお会いすることが出来た。本堂の御宝前に向かって正座をされ、深々とご挨拶される堀田さんと奥さま。その姿勢、ご信心を、ぜひ学ばせていただきたいと思った。
 今月の妙深寺報には詳しくご本人が感得されていることが掲載されている。このような受賞を通して、それを御宝前のご加護、お導きと受け取っておられるところに随喜させていただく。生い立ちからお母さまのご信心、そして奥さま、ご家族への感謝。
 加えて、その心境を御教歌をいただきながら説明してくださっていた。
 第一には、
「うたがひて見んと思へど疑へぬ 信じて利益かうむりし身は」
との御教歌であり、現在の堀田さんの心境であるという。御利益を実感した、体感された方だけが分かるご信心の心境。いつでも、どこでも御法さまに見守られているということ。
第二には、勲章の伝達を受ける前にお参詣された折、正教師が御法門された御教歌。
「世の中の苦楽は夢のしばしなり 御法にあいし大事忘るな」
 この御教歌をいただき、ご本人は『堀田さん、勲章をもらったといって浮かれちゃだめですよ、夢のようなものかもしれませんよ、もっと大事なことがたくさんありますから、しっかりご信心に励んでください』と言われたような気がしたという。これもまた感服。ありがたいではないか。
 私たちは、社会人として生きている。その責任を、それぞれの職場の中で果たさなければならない。それは大切なことだ。しかし、その上で、さらに人生の先輩である堀田さんのように、もう一つ上の心境、ご信心に向かう姿勢ができれば有難いと思う。

2007年12月2日日曜日

トルンに感激! 小栗久美子さんの演奏会

 12月2日14時から壮年会の住職御講が奉修された。
 壮年会というのは、妙深寺の男子信徒の方々で構成される会のこと。今年から新しい会長に野崎さんが就任していただいて、また新たに屈強な方々が役員になってくださり、ご奉公が進められている。その新会長の下、最初の住職御講が今回。忙しい野崎会長をサポートして、みんなでご奉公を分担されていて、内容はとても充実していた。
 その住職御講の第一部は、お看経と住職からの御法門。それはともかく、、、、精一杯させていただいた(汗)。ちなみに、壮年会さんは固い、いや真面目と言うべきか。昨日の月始総講のお参詣者は、良い意味で非常に柔らかくて、反応が大きかったが、壮年会さんは「ここだ」と思う部分でも、「シーン」って。とっても緊張した(汗)。だって、子どもの頃からお世話になってきたおじさんやお兄さんばっかりだから。野崎さんだって、私がボーイスカウトに入った頃は横浜35団のボス猿のような存在だったのだから、やりにくい(笑)。
 それはともかく。いや~、今回は素敵な企画があった。奥山さんからのご紹介をいただき、そのご尽力が実って、トルン演奏家の小栗久美子さんをお迎えしてミニ・コンサートを行っていただいた。もう、それはそれは素敵な演奏、音色で、本当に大感激。
 トルンというのは、ベトナムの楽器。歴史を紐解くと数千年前にまで遡るという。最初は農作業をする人たちが作物を鳥などから守るために自然に発生したらしい。竹を切って筒状にし、音によって鳥たちを追い払っていたのだろうか。それが、少数民族に受け継がれてきて、今世紀に入ってベトナムの都会に出てきた。そこで音楽家たちの目にとまって発展を遂げてきたのだという。
 演奏家の小栗久美子先生は、東京外国語大学のベトナム語学科、その後は大学院まで卒業された。元々はマリンバをされていて、その師範として教室もされている。2000年にこのトルンと出会い、ベトナムに1年間留学までして研鑽を重ね、今では日本第一人者となったとのこと。今回、男性信徒に女性まで加わって、興味津々の観客を前に演奏してくださった。
 その音色は本当に不思議なもので、なにか「懐かしさ」を感じる。「トルン、トルン、ポロン、ポロン、、、、」と、スーッと心に音が入ってくる。
 眼を閉じながら、ゆっくり、ほっこり、まったりとなれる。それでいて、眼を閉じて聞いていると、何とも不思議なことに、目の前に草原を渡る風が感じられたり、木々や枝が風に揺れている風景が見えてきた。え~、なんで!と思った。すると、小栗さんからの説明で、鳥のさえずりや水の音を感じられるはずです、と。確かに、鳥のさえずりや水の流れる音まで聞こえた。すごい、おそるべし、トルン。
 それにしても、この小栗久美子先生は、すごい美人でございまして、、、、、。最後に締めくくりの挨拶をしなさいと言われて立ち上がり、演奏についての感想を真面目に述べていたのだが、途中から暴走。「いや~、それにしても先生が素敵すぎて、参りました(笑)。演奏もいいけど、思わず先生の素敵さを見てしまいましたよねー(笑)。なんか、仲間由紀恵さんをもっと綺麗にしたようなんですもん(笑)」って、それが私の締めのご挨拶。御法門よりも盛り上がりました。拍手喝采。きっと、壮年会の方々も同じことを思ってくださっていたのだと思います。
 しかし、それにしても、このケルンは一度聞いてみてください。どうしたら聞けるのかな?先生のホームページがあるので、ぜひ訪ねてみてください。「Bamboo Note ♪」っていうタイトルのホームページです。って、ゲゲ、先生のブログを拝見していたら、すでに妙深寺の記事が!しかも、僕の写真まで!やばい、すいません。何だか分からないけれど、謝っとこ。
 とにかく、トルンの演奏は一度聴いてみていただきたい。本当に素晴らしいから。つい先週も、ベトナムのグエン・ミン・チェット国家主席の来日レセプションで演奏されたと書いてあった。秋篠宮さまや小泉元首相の前で演奏されたというのだから、すごい。そんな方が妙深寺に来て演奏していただけたなんて、大変に光栄。ありがたい。私は、一気に小栗先生の大ファンになりました。
 やはり、音楽はいいなぁ。音、旋律、バイブレーション、ユニゾン、シンフォニー、、、、。その全てが大切なブッダの教え。だから、音楽が大好き。今日は、本当に良い経験をさせていただいた。トルン、心が包み込まれるような音、太古からきっと聞いていた音。ありがたい。

『本当の宝物』 高祖会の御法門

『信心の 起こるばかりの 御利益は 世にたとへなき たから也けり』
(妙深寺住職 高祖会第一座御法門)
 私たちにとって、最たる現証の御利益は、迷い多き我が身、我が心に、「ご信心をいただけた」ということ。その尊さ、ありがたさ、喜びを感じなさい。そして、だからこそこの御題目ご信心という万病に効く「お薬」を、今苦しみ悩む人に伝えなさい、手渡しなさいとお教えいただく御教歌です。
 ご信心をさせていただく。御宝前に向かい御題目をお唱えして必死にお願いをすると、必ず、現証の御利益をいただきます。ダメなものがダメではなくなる、真っ暗な中に光が見えてくる。「もう、ここはお看経しかない、おすがりするしかない」と思って、御題目をお唱えしたその瞬間から、必ず「サイン」…身の回りで不思議なことが起こってくる。何も起こらないことは断固としてない。それが妙不可思議の、私たちのご信心。御仏が、大慈大悲の全て、御力の全てを込めてくださった、尊い言葉「ナムミョウホウレンゲキョウ」こそ、万法具足のお薬ですから、服用すれば必ず変化、効果が出てきます。
 このお薬を私たちに届けるために、お祖師さまはご苦労くださいました。大難四ヶ度小難数を知らずのご奉公は、ただ一点、このお薬を世界中の人々の口の中に入れさせてもらって、その人が抱えている背負っているあらゆる苦しみや悩み、痛みを取り除こう、というご覚悟のご奉公です。
「信心のおこるばかりの御利益は 世にたとへなきたから也けり」
 御利益をいただいた人の、その瞬間の顔を思い浮かべていただきたい。それは本当に素晴らしいものです。悩みを抱え、誰にも相談できず、一人で苦しんできた。しかし、御宝前に座ってお看経し、泣きながら、おすがりしながら、ご祈願させていただく。そして、御題目というお薬の御力で、ダメなものがダメではなくなった。その、どうしようもなかったことが解決される瞬間に立ち会う。それは何ものにも代え難いありがたい体験です。
 「現証の御利益」の「現証」とは「御題目の尊さを現前に証明していただく」ということです。「やっぱり、お祖師さまの仰っていたことは本当だった」とそれは、自分で体験しなければ分かりません。「現証」とは「実体験・事実」のことです。御題目をお唱えして、確かに目の前に現れる。家庭内の問題、仕事上の切羽詰まった問題、心と身体の病気、ガンとか、深刻な怪我、世間でいう心霊現象や超常現象といわれる分野でも、本当にたくさんの現証の御利益を見せていただきました。
 しかし私は、この「現証の御利益」をいただいた人の、その瞬間の顔を見させていただく度に、その奥にある「本当の現証の御利益」を感じます。御利益をいただいた人の、その後の生き方、その人の心に生まれたものが何なのか。病気がよくなる、ダメだと思っていたことがダメじゃなくなるという出来事そのものも大変な御利益ですけれども、その出来事を通じて芽生えた「喜び」「笑顔」「感動」そして「ご信心」。「信の一字」さえ生まれれば、厳しい世の中にあっても、その人がブレずに、悩まず、迷わずに、本当の人生を歩める。「何てありがたいことだろう、また御法さまが御力を顕されたのだ」と感動するのです。
 もともと、私はアホな息子だったわけで、先住のお怪我がなければ間違いなく今ここにおりません。本堂の玄関先で先住が六メートル近くの崖から転落して、頭蓋骨骨折、頭蓋邸骨折、脳挫傷、脳内浮腫と、とんでもない状況になりまして、お医者さんも何もできませんと。そこで御題目をお唱えするしかなくなって、「現証」を見せていただいて、あの危機的な状況から一〇〇%の回復をされた。四十九日間、意識不明で間違いなく後遺症が残ると言われていたのに、回復して、歩く、走る、喋る、車も運転する、ご奉公も完全復帰された。あのとき「御題目のお力はこんなに凄いんだ」ということを分からせていただいた。「信心」を芽生えさせていただいた。どうしようもなかった人間が、今、こうして苦しんでいる人のためになんとか力にならせていただきたいと思える人生を選べたということ、それが何物にも代え難い「現証の御利益」でした。
 「佛立の現証」とは、単なる「奇跡」ではありません。お金を借りるんだって、サラ金、ヤミ金、銀行までいろいろあります。へたなところから借りたら後で大変な目に遭う。変な占いや超能力者に命を助けられたり、お金がもうかった、仕事が上手くいったと喜んでも、そこが「不幸のはじまり」になるでしょう。そうであるなら、それは「薬」などではなく「猛毒」「麻薬」です。
 佛立の「現証」というのは、最大の不幸を最高の幸せに転じます。そこをきっかけにして「幸せの始まり」。信心で御利益をいただいて、さらに信心が生まれるということです。
 妙深寺の兼子清顕師。大学の在学中に、ご信者さんの家庭から得度を決意してくれました。今ではスリランカにも一人でご奉公に行くほど一生懸命にご弘通に気張ってくれています。その清顕師が得度する前、隆二君だった頃にいただいた「現証の御利益」は、今でも鮮明に記憶に残っています。
 深夜〇時を過ぎた頃、受持の信仰師から連絡があり、兼子家の九十歳になるおじいちゃんが夕方から行方不明だというのです。探し回ったが近所にもいない、警察にも連絡した、神奈川県下の病院に運ばれていないかも確認した。もう六時間近くたち、寒くなってどこかで倒れていたら命が危ない。どうしたらいいかわからない。
 そこですぐに行って泣きながらみんなでお看経しました。何とぞ、お助けいただきたい。おじいさまは大変にご奉公された方です。もし万が一のことがあっても、これではおじいさまのご生涯と一致しない、お願いします、と。
 それで一座のお看経が終わり、外に出ますと、外を探していたお父さんが帰ってこられた。その時、隆二君が、フラフラ~っと歩き始めた。それで、私たちが話をしていると、遠くから「いた!」という声が聞こえまして、「え~!」と言って声のする方に走っていきますと、道から離れた田んぼの際に、おじいちゃんが倒れていた。こんなところに! と、もう感激で胸がいっぱいになった。
 何度も探した場所だったのに、しかもお看経の終わったあのタイミングで、隆二君に何でそっちに歩いて行ったんだと聞いても分からない、おじいちゃんに後で聞くと、なぜかあの時だけ隆二君の呼びかけに応えることができた、と。
 その時、隆二の頭を思いっきり叩きまして、「これが現証の御利益だ」と。あれ以来、隆二君は、おじいちゃんが教えてくれた「現証の御利益」で、ご信心をつかみ、得度して、いま一生懸命ご奉公してくれている。
 本当に私たちの頂く現証の御利益というのは、妙不可思議です。これは御題目のお力しかないということがたくさんあります。
 この前スリランカから来たご信者さんも言われていました。私たちの病気は、病院では本当には治りません。もちろん、一般的に考えると「病気」は抗生物質や手術や何かでおさまるかもしれません。しかし、あなたが今辛く、苦しんでいるのは、あなたの業や罪障、生活の積み重ねから出てきた一つの「サイン」(現れ)でしかない。だから、私たちが抱える苦しみの根本的な原因は、「ご信心を素直正直にさせていただく」ことでしか治らない。上行所伝の御題目のご信心をさせていただいたら治る。ブレない。回復に向かうということです。だから、根本的な「現証の御利益」は、病気治しじゃない。その問題解決の奥にある、そこからみんなの心に生まれる「信心」であると教えていただくんです。
 つくづく、このご信心をいただけて有難いと思いませんか。仏教は「癒し」じゃないんです。仏教は「安心」なんです。キリスト教的には、疲れて傷ついた者が、神の前で「癒やされる」と言います。仏教は「安心」です。心にご信心が起こる、ご信心をいただくということができれば、それは「安心」をいただいたということです。もう迷わない。挫けない。一喜一憂しない、ブレることがない。良いことがあっても、悪いことがあっても、若くとも老いていようとも、「安心」をいただいて、ブレずに生きていける。人生でこんなにありがたいことがありますか?
 人生には、様々な出来事があります。良いことも悪いことも起こる。ご信心をいただいても、人間としての業である「生・老・病・死」は訪れますし、愛する人との別れもあります。憎しみや妬みに出会うこともある。ましてや、我が身の罪障を思えば、都合の良いことばかりが起こるはずはありません。しかし、ご信心さえいただいていれば、そんな不安定で厳しい人生であっても、確かに生きていけるんです。もう迷わない、慌てない、嘆かない、ブレない。これが本物の佛立信心なんです。
 開導聖人の御指南をいただきますと、
「信心の起こるばかりの御利益は 世にたとへなきたから也けり また、信心の起こらぬばかりの不幸せはなき也。所願成就、みな此の信の一字より涌出するもの也。故に智慧をえらまず、信の起こるは如来、仏の金言を疑わず、信ぜらるる也。されば、疑いは諸々の罪障の根元也。柔和質直なる人ばかり尊く、めでたく、うるわしきはなき也云々」
かようにお示しでございます。
 もう、信心を起こすということが何ものにも代え難い。信心が起きないことほどの不幸はない。信心が所願成就の根本。疑いは罪障の根源。だから、素直正直にご信心する人ほど尊く、喜ばしく、美しい人はいない。「うるわしい」とは「精神的に豊かで気高く、人に感銘を与えるさま。心あたたまり、うつくしい」という意味です。本当にご信心されている人は素敵じゃないですか。
 さて、いかがでしょうか。本門佛立宗の現証の尊さ、すごさ、その奥にある根っこの「現証の御利益」、私たちの心に信心が起こる、信心が生まれる、ここに気付かせていただけるでしょうか。誰でも、人は弱いものです。孤独です。愚かです。だからこそ、ご信心がなかったら根っこの病気は治らない。 
 最近のお教化では、みんな「とにかくお寺にお連れしよう」って言ってくれているんです。そして、いろんなことで悩んでいる人のお話を親身になって聞いて、ご信心のお話をお伝えする。だけど、その方の抱えている問題が、家庭内のことであれ、人間関係であれ、病気であれ、話で解決することは何もないんです。お寺に来て考え方をちょっと変えて、その程度で解決したと思っても、それは自己満足でしかない。本当の仏教、本門佛立宗の教えは実践なんです。
 だから、最終的にはいつも「本堂へ行って御題目を唱えましょう」と言って、本堂に上がって、「ナムミョウホウレンゲキョウと唱えるんです。これを六ビートで唱えるんです。できれば膝を叩いて、隣の人とタイミングを合わせせ声を重ねてください」って言ってお看経をさせていただくと、ほとんどの方がこの御題目口唱で何かを感じてくださる。そして、「これから一週間お参りしてごらんなさい」とお話ししたり、忙しい方でも、三ヶ月間、週に一度お参詣するように勧める。そうしてみんなお計らいを頂いています。 
 ご信心をいただくということは、断固たる安心の境地の中で、今度は人のため、御仏のために生きていこうと命を輝かせることなんです。次々にサインが現れるということなんです。
 どうか、現証の御利益は、信心から生まれ、信心は現証の御利益によって育つということを忘れずに、そのためにもまず自分が実践して御題目を唱え、苦しみ悩む人のためにも、一心にお唱えさせていただくことが大切。例えようのない宝物がいただけるように、ご奉公させていただくことがありがたいと、感得させていただく御教歌でございます。

百本祈願のススメ

 悪い出来事、不慮の災難や事故、自分や家族に降りかかる突然の病。そうした最悪の事態も仏教的には本人や家族が背負っている大きな『流れ』から出た一つの『サイン』に過ぎないと見て取る。対処療法に終始しているだけでは、根本的な問題は解決しないと考える。

 この『流れ』は『カルマ』『業』と呼ばれるものである。それは、『動き』の積み重ねから生まれる。『動き』は降り続ける雨の一滴のようなものだ。人間は一日だけで八億四千万回以上もの『動き』を為すと考えられるが、それが降り続いて、上流で小さな川となり、河口では大河となって流れ出る。

 過去世からこの一生に至るまで、連綿と積み重ねてきた『動き』が自分の『カルマ』『流れ』となる。いま悪いことが続くのもサインの一つ。病気もサインの一つ。その奥に根本的な何かがあると考える。そこが最も大切な部分なのである。

 好ましくないサインが出たら、『流れ』を変える努力をすべきだ。簡単な工事で川の流れは変えられない。より上流に立ち返ったり、もっと大規模に、もっと本格的に取り組んだりしなければ『流れ』は変わらない。

 大きな動き、尊い動きによって、『流れ』はより良く変わる。その『動き』が『御題目を唱える』ということであり、それは私たちの『動き』に『御題目を添える』ということであろう。無為に過ごす一瞬一瞬の動きを、最も尊い動き、『カルマ』の因である『御題目』にしてしまうことによって、悪い流れは大きく変わってゆく。

 十一月の冒頭、妙深寺の本堂で百本祈願が始まった。「百本祈願」とは、一本四〇分~一時間も点るお線香を百本あげさせていただき、その間、御題目をお唱えし続けること。その百本祈願は、小泉氏が始めたのだった。

 小泉氏は、ご信心をするようになって今年で七年目。といっても、本当にご信心の有難さを実感したのは二年ほど前。以来、開門参詣を通じて御利益を実感し、多くの方々にご信心の素晴らしさを伝え、お教化は二十戸以上にもなった。

 その彼が十一月初頭、仕事上のトラブルにぶつかった。ここでは内容を記せないが、会社の経営が頓挫するような事態だった。当然、出来得る手を全て打ち尽くして、その上で彼は私に言った。
「今回、これまで引きずっていた自分の悪い面を教えていただいた。だから、これで会社が倒産しても仕方ないと思っています。ただ、自分の失敗で御法さまやご信心に傷が付いたら申し訳が立たない。それだけが苦しい。仕事の上では出来ることを全てしたので、後は御法さまにお任せする。ついては、今まで聞いていた『百本祈願』をさせていただきたい」

 深夜の電話。翌日の朝六時過ぎ、小泉氏は妙深寺にお参詣していた。私は、百本と御礼の一本のお線香、合計百一本のお線香を彼に渡した。彼はその朝から百本祈願を始めた。究極の『百本祈願』は三日四晩でするという。私も百本祈願は一度しかしたことがない。

 今回の百本祈願は、十四日間を期限として始められた。その日は朝参詣に引き続いて高祖会の会議があった。小泉の様子を見ようと会議の途中で本堂に行ってみると、彼が私の顔を見つけて小躍りして来てくれた。何とアメリカ側からメールが入り、問題が解決したという。わずか四本目にして現証の御利益をいただいたというのだ。

 私の方が驚いていたのだが、
「こんなに早く現証をいただいて申し訳ない。御法さまとのお約束ですから、百本祈願を続けさせていただきます」
と申し出て、そのまま終日お看経を続けた。以来、出勤前にお寺で三本、会社からお寺にお参詣して七本、仕事が立て込んでいる日は三本しかできないこともあったが、最大で一日二十二本ものお看経をあげさせていただいてカバーをし、十二日間で百本祈願を成就した。これには本当に頭の下がる思いがした。並大抵の覚悟ではない。

 小泉氏の百本祈願中、私も少しお助行させていただいた。深夜の三時過ぎ、本堂内は壮絶だった。眠気と戦い、身体を叩きながらのお看経。ここまで御題目をお唱えした者にしか分からない妙味を、じっくりと味わっていた。この間、彼は三戸のお教化を成就していた。

 開導聖人の御教歌に、

『だいもくは千遍よりは万遍と 唱へかさねて妙をしる也』

とある。御題目は唱え重ねてこそその妙不可思議な味わいを知る。ご信者といえども名前ばかりで、御宝前にはご挨拶しかしていない、御題目をお唱えしても数分だけ、ということでは「妙を知らない」ということになる。勿体ない。

 御指南に、

『口唱の秘訣。百遍は百遍の信心、千遍は千遍の信心也。口唱怠れば罪滅の道ふさがりなん。高祖曰く、声も惜しまず南無妙法蓮華経』

とあることを思えば、ご信心とは結局どれだけ御題目を唱え重ねているかということであると分かる。

 信心を『急』にすれば、大きな願いも『急』に成就する。下記の御指南を吟味していただきたい。

『此の御経に云く、法師品、須臾聞之(しゅゆもんし)即得究竟(そくとくくきょう)とあれば、須臾(しばらく)もこれを聞けば、即ち菩提を成ずる、此れ御経の力なれば、一遍、二遍、乃至五遍、十遍と唱ふるに従ひ、もし病者を祈らば、祈りはじむるより其の病者の罪障消滅して、一遍二遍と漸々(ぜんぜん)に唱ふるに従い、苦悩をやすめて安楽に趣(おもむ)く道理顕然也。
もし唱ふるに、よくもならず、悪しくもならぬならば、御経むなしきに似たり。さることわり(理)あることなし。玉をみがくにいまだ光見えずとも漸々(ぜんぜん)とすれば終に光を発するに至る。井を掘るに、はじめ水なけれども、泥土(でいど)にいたりて水の近きを知るがごとし。水迄の土の厚さには、高原あれば平地あり。罪障の厚薄なり。
されば、祈りてしるしなきは、受くる者の疑心の隔(へだ)つるなり。沓(くつ)をへだてて、かゆきを掻くが如し。病者かくの如し。我が身の罪障を祈らんにも一遍の題目もむなしからぬは、須臾聞之(しゅゆもんし)即得究竟(そくとくくきょう)の御文にて知られたり。
かくのごとく思い定めて、行住坐臥に自他をえらまず口唱すべし。大いなる願はおそくなるべし。されど、信行もし急なれば急に成就すべし。
ただし、弘通を忘れたる願ひは経の御意(みこころ)にあらず。されば、弘通の志(こころざし)だにあらば、口唱するに利益を受けむこと決定(けつじょう)なり。顕に利益を見んと思はん人も、罪障の滅するいとまを待つべし。中途にして怠ることなかれ』

(以下、ブログにのみ口語訳を掲載する。『法師功徳品には、須臾もこれを聞かば、即ち究竟を得ると説かれている。これはほんの少しの間でも法華経を聞くならば、その功徳は成仏に当たるほどのものだと経力の偉大なることを言われた御文である。して見れば、聞くだけでなく信じて唱える功徳はどれほどのものだろう。一遍、二遍、、、、五遍十遍と唱え重ねるところに、病者を祈れば、唱える数に従って漸々に苦しみや辛さを鎮め、安楽に赴く道理である。
唱え重ねて少しの変化もないということは断じてない。たとえば、玉を磨くに、はじめは光沢は見えずとも、度重ねるに従って終に燦然と輝くに到る。井戸を掘るのでも、始めは水は出なくても、泥土を見るに到って、水は近いと知るようなものである。高原と低地では大地の厚みが違うが、地下水は必ず流れているのである。罪障の厚薄はあっても、いつか必ず御利益に達するのである。
この故に、いくら祈っても験(しるし)のない時は、靴の上から掻くように受ける者の疑心が障壁を為していると断ずる他はない。これは病気の方の例を挙げたまでである。
すべて我が身の罪障消滅を祈って諸願を成ずる場合、一遍の御題目口唱の功徳も、虚しくないということは、先ほどの須臾聞之の経文で明らかであろう。
このように思い定めて、如何なる時でも口唱するのが良いのである。大きな御祈願であれば遅くなるけれども、信行がもし急ならば、この常識を破って大きな願も速やかに成就するだろう。
ただし、ご弘通の思いを忘れた人の願いというのは御経の御意に適わない。だから、ご弘通の思いがある人の、ご弘通のための願いであれば、口唱するに願いが叶い、御利益を受けることは決まり切ったこととなる。
しかし、いずれにしても、めざましい御利益を見ようとする者は、見えざる罪障消滅の暇(時間)を待つが良い。途中で止めてはならぬ、中絶して怠ってはならない』)

 いま、妙深寺は百本祈願ブーム。

『妙深寺報』 12月号

 12月号の妙深寺報が完成。実は昨日の月始総講には間に合わなかった。月始総講の後には「役中協議会」といって妙深寺でご奉公くださっている方々が各教区毎に打合せをする。協議会の前後にご信者の皆さまにお配りするものなどを分けたりするから、1日に寺報が間に合わないというのは大変なことなのだが、今月はギブアップ。すいません。

 しかし、今月の寺報の出来には満足。表紙には毎年の越年迎春の模様を捉えた写真を使い、裏表紙は七五三で見られた子どもたちの顔、顔、顔。笑顔が溢れている。内容も高祖会の特集記事で、冒頭に小林御導師の御法門を掲載させていただいた。また、光薫寺の方々からいただいた信行体験談も掲載し、その高祖会の感動を教区御講で語ってくださった方々の声も掲載させていただいた。

 毎月、産みの苦しみはあるが、50年後の人たちにまで届ける、届けたいと思って寺報の編集作業に当たっている。というのは、はるか60年近く前に、この横浜妙深寺から日博上人が発刊していた『一実』誌は、今でも私たちの重要なテキストになっているからだ。発刊から50年以上経っても、若い私たちが読み返し、ご弘通の息吹を感じられる誌面。すごいなぁ、と思う。だから、難しい読み物よりも、生きた、生の、ドキュメントの、息吹、息づかいが伝わるように、何とか編集したいと思っている。そう、50年後に、妙深寺や本門佛立宗を背負う若者たちが見てくれているかもしれないのだから。

 顔写真もたくさん掲載しているので、この七五三の写真に載っている人も楽しんでみてくれないだろうか。50年後は7歳の子も57歳かぁ。「あら、あたしが写ってる」と楽しんでみてくれないだろうか。そうしたら、自分の写真を見ながら掲載されている御法門や巻頭言、体験談も読んでくれるかもしれない。とにかく、今の時代に生きている人だけではなく、50年後の方々のご信心が、少しでも前に進むのであれば嬉しい。そういう意識は、「モノづくり」をする人にとって大切だと思う。

 12月は師匠も走る「師走」。今日は14時から年に一度の壮年会の御講が奉修された。いま、久しぶりに教務室のPCの前にゆっくり座ることができた。

 これから、寺報に掲載された文章などを整理して、更新できなかった分をブログに載せようと思う。

2007年12月1日土曜日

ついに12月に突入

 ついに12月に突入。怒濤の11月末は、徹夜徹夜での寺報編集や住職会、来年度の青少年の一座のご奉公等々、つまりに詰まってブログの更新ままならず。はぁ~、これではいけない。

 12月1日の今日は、月始総講あり、協議会あり、教務会あり、局長室会ありで、まったく怒濤の一日。19時からの局長室会議が少し遅れている。

 それにしても教務会はスゴイ盛り上がり。さすが、仏教界のレアル・マドリッドを目指しているだけある(笑)。若い教務さんは特に気合いが入ってる。「地球防衛軍の会議」とか言って(笑)盛り上がって。
 来年度の弘通方針、ご弘通の方策、誓願、率先して改良に挑まなければならない事項など、アグレッシブに議論が続く。本当に楽しみだ。

時代の兆し@横浜ラグーン

  9月16日は「オゾン層保護のための国際デー」、横浜ラグーンを放送させていただき、ネパールでの大災害を含めて気候危機、環境問題についてお話させていただきました。 天変地異が相次ぐ世界、国際政治も危機的な状況を迎えています。きっと、もう平和な時代は終わりを告げていて、戦国時代のよ...