2007年8月18日土曜日

いざという時こそ

 昨日は、鈴江御導師の特別御講第一日目。相模原・妙現寺まで御導師をお迎えに上がり、13時から奉修。先住亡き後、鈴江御導師には私の師匠となっていただき、毎年一度の御講奉修をお願いしている。一年間、妙深寺のご奉公がどのようであったか。改良点や成長した点など、親しくご覧いただき、ご教導をいただく。

 ちょうど6年前。その日も特別御講だった。相模原まで車を運転し、お迎えに上がっていた。その途中で、以前より入院治療されていた鈴江御導師の奥さま、富士子さまが亡くなったという連絡があった。何ということだろう。余りのことに一瞬思考が停止したが、とにかく妙現寺、そして御導師も駆けつけておられる病院へと向かわせていただいた。夏の日の病院の裏口、今でも忘れられない。

 富士子奥さまは、随分前にステージ3という癌を患われており、その後は大変な御利益をいただかれて、全く病気であることが分からないほどご奉公に復帰されていた。御導師は3年もの増益寿命だったのだと仰る。俄に入院治療することになった時には驚いたのだが、奥さまはちょうど6年前の8月9日に帰寂されたのだった。

 生涯を共にご奉公された奥さまの帰寂。鈴江御導師が御住職に就任された当時、わずか60軒のご信者さんしか相模原・妙現寺にはおられなかった。そこを、まさに御導師と奥さまのご弘通で切り開かれ、次々と御利益を感得される方が増え、ご弘通が進展し、飛び級のように寺院等級も現在のようになった。有名なのは次の日の朝まで続く御導師のお助行で、病気の方や苦しんでおられる方がおられると、役中さんには「休みなさい」と言われるがたった一人でその方の御宝前で朝までお看経を上げられた。そして、見事に御利益を頂戴し、ご弘通が進む。ある時、お助行を終えて日博上人とバスの中で会われた。日博上人は大変に喜ばれたという。

 その生涯連れ添った奥さま、戦友を失った日。私は御導師に奥さまの側についておられることは当たり前だと思い、「御導師、御講は先に延ばします。どうか奥さまの側で」と申し上げた。すると、御導師は、

「いや、御講に行くよ。大丈夫だ。富士子もそうした方が喜ぶだろう」

と仰って、鈴江御導師は横浜・妙深寺に向かってくださり、何事もなく御講を奉修してくださった。しかし、御法門の途中で言葉に詰まられたことを、私は忘れられない。御導師は御法門台で富士子奥さまの帰寂のご披露をし、御導師は奥さまへの感謝を述べられた。そして、言葉に詰まられた。参詣者一同は涙、涙だった。

 鈴江御導師が私に強く教えてくださるのは、「覚悟」だ。先住のお怪我の時、父を失うかもしれないという恐怖と苦しみの中にいる私に、ご信心の筋を立てて励ましてくださったのは鈴江御導師だった。「なんでこんなことが起こるんだ!」と迷う私を、「佛立宗のご信心は、最大の不幸を最高の幸せにしてくださるご信心だ。必ず御利益をいただく。ここが勝負」と教えてくださった。それから毎日、鈴江御導師は相模原から妙深寺までお助行に通ってくださったのだった。

 私たちは苦難や困難に直面した時、オロオロするものだ。オロオロと迷って、多くの人は「情」を第一に考えて行動してしまう。しかし、「情」を立てれば「信心」が後ろに回る。「信心」が後ろに回っている間は御利益はいただけない。正しい信行ご奉公はできないのだ。必ず、事に当たって「信心」を第一に立てることを教えていただく。それが「導師」の勤め。それを身体で教えてくださるのだから、有難い。

 人生にはどうしようもない時、「いざという時」が来る。その時にこそ、本領を発揮する、その時に試される、その時のためのご信心、と言っても過言ではない。

 お祖師さまは、
「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことば(言)ばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。」
とお諭しくだされている。

 「残念ながら、インチキな口先ばかりの教務もご信者もいる、演劇のように、御法門台の上では何でも言える、しかしな、いざという時、本当のご信心が試されるのだぞ」、と御導師に教えていただく。非常に厳しい教えだが、鈴江御導師は「行動」で示されているから何も言えない。有難いと思う。覚悟のあるご奉公をしたいと思う。

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