2009年1月4日日曜日

さっちゃんの体験 ~心の闇から~

 このブログが始まって以来、最も長い文章を載せさせてもらおうと思う。この年、このタイミングだからこそ、どうしても載せたい。

 この文章は、妙深寺に所属するさっちゃんから年末に届いたメール。このメールで、私は一年を締めくくることが出来た。彼女は、昨年ずっと苦しんでいた。多くの方々が抱えている心の病と同じように、彼女は心の闇の中を彷徨っていたように思う。

 清顕のご奉公、貴子ちゃんのご奉公、青年会のお助行など、本当に言葉には言い表せないほど素晴らしいご奉公によって、彼女は暗い闇の中から出てきてくださった。その声、そのお話は、多くの同じ状態にいる人たち、同じ症状や病気を抱えている人たちの希望になると信じる。

 今年も、多くの困難がある。しかし、その困難は、このご信心で乗り越えられる。乗り越えさせてあげることが、本当の信行、佛立菩薩道である。こうしたご奉公ができず、口先や手先で「佛立」を語っている者は恥じるべきである。

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 私はちょうど去年の11月大好きだった会社を退職しなければいけなくなり、その後すぐ体調を崩しました。それからプライベートで辛い別れがあったり色々と上手くいかなくなり教化親の杉本貴子さんに相談させて頂いていましたがその貴子さんが入院をされ、100本祈願を決定させて頂きました。その時はご利益を頂き無事に貴子さんも退院され、私も元気になれたような気がしましたが、相変わらず仕事は決まらず、また身体の調子が悪くなり体が重く起き上がれなくなっていき不安になりました。そして今度はお正月に兄と一緒に100本祈願をさせて頂きましたがその直後、母が怪我をして手術、入院しました。両親には御祈願させて頂くからねと言っていたのですが、実際は、仕事も決まらず、しんどくなっていて、誰かに相談したかったんですが、でも両親にもそれを言えず自分の事でいっぱいいっぱいでした。それはきっと仕事をしていない不安からきてるのだと思っていました。

 1月半ばにやっと仕事が決まり働き始めましたが、働き始めても気分ものらず身体のしんどさも変わらず、入社して早々、休みがちになり家にいてもやっぱりなかなか起き上がれず、一人暮らしの生活もどんどんひどい状態になっていきました。また、私はもともと抜けていて日頃から、些細な災難にあったりヘマをしたり、そういうことはあっていましたが、いつも大難を小難にして頂いて守って頂けてると感じていましたし、あまり気にするタイプではなく笑い話にできていました。それが日に日に笑えなくなり、起こることすべてにどんどん打ちのめされていく感じでした。  そんな自分の変化に不安になり、他の人のお助行に頑張らないといけないんだ、、ご奉公を頑張れば状況は良くなると思っていましたが、それでも何をするにも辛く、お助行に向かっても、ご奉公をさせて頂いても辛く感じてしまい、何かご不敬があるのではないかと自分の信心が間違っているのではないかと思わずにはいられませんでした。それまでは友達と会ったり遊んだりということが大好きだったのにそれさえも辛く感じ人に会うこともしなくなりました。

 でもなんとかご奉公はさせて頂いていましたが、本当に身体が鉛のようで立ち上がれずもうダメだ、休みたいと思っても御奉公ではなかなか休みますと言えず、結局頼みごとも断れなかったり切羽詰まりどんどん悪循環のうずにはまっていくような感じでした。どんどん辛く思う気持ちが強くなり、突然涙がでたり、「辛い、きつい、しんどい」と声が聞こえてきて二重人格ではないかとも思い始めました。それでも自分では「大丈夫。頑張らないと」と言い聞かせ「きっともっと他の人のためにさせて頂かないといけないんだ」と思い、どんどん身体がきつくなるのを無視して必死になりました。

 でももう、頭もおかしくなり始めて、例えば、ご飯を食べたのか思い出せなかったり、電車に乗っていてもフッとどこに向かっているのかわからなくなったりしてきて、不安が限界に来て、家族に会いたくなり、母のお見舞いということにして3月に少し実家に帰ることにしました。が、この時になんとか飛行機の搭乗口まで行けたのに、何がどうしてか目の前で意識が止まったかのように動けず飛行機に乗ることが出来ませんでした。この時はさすがにパニックになり姉に電話で「私、おかしい、もう実家にも帰れない、皆にも会えない」と泣きながらどうしたらいいのかわからなくなってしまいました。姉も心配して、「大丈夫だよ、明日新幹線に乗れば帰ってこれるから大丈夫」と言ってなだめてくれましたが、私は不安でひとりでいることが出来なかったので新横浜駅の近くに住んでいた朱里ちゃんのお宅に泊めてもらいました。朱里ちゃんと話していても涙が出てきて、おかしな状態だったと思います。

 結局、次の日の朝、何本か遅れたけどなんとか新幹線に乗ることができ、帰れました。帰って家族に少し話しを聞いてもらいたいと思いましたが、母は入院中で色々大変な話を私に聞いて欲しかったみたいで、父も退職を前に仕事も忙しく家事と看病で疲れきっていて結局自分の話をすることができませんでした。横浜に戻ってきてからもしんどいのは相変わらず続き、色々な人からも顔色が悪いと言われる様になりましたが、ちょっと体力が落ちてとか花粉の季節だからと返していました。青年会の人からも「さっちゃん無理しないでね、休んでね」と声を掛けて頂いていましたが、もう自分では考えることも自分をコントロールすることも出来ず、「どうしたら無理をしないんだろ?どうしたら疲れないんだろ?どうして皆は普通に出来るんだろ?」と、どうして、どうして、の自問自答するようになりました。

 この頃には貴子さんが私を見て「お講師に相談させて頂いた方が良いよ」と言ってくださっていましたが、私は「ただ頑張らない私が悪い、こんなんで相談なんかできない、もっとちゃんと頑張らないとダメなんですよ」と言っていました。でも、家でもお看経もあがあらなくなり、不安は増すばかりで貴子さんをはじめ、何人かの青年会の人にも家にお助行に来て欲しいとお願いしていました。来て頂くと少しは大丈夫になるのですが、すぐしんどくなり辛い、辛い、という声が聞こえて夜も眠れなくなり顔も腫れ上がってしまいました。それまでずっと「大丈夫、私は大丈夫」と言い聞かせていたけれど「もうダメだ、立ち上がれない」と思うようになり、姉に体調が悪いと相談して退職した父に少し横浜にきてもらえないだろうかとお願いしました。

 この時に丁度、清顕師の耳に私の話が入り連絡を頂いてお助行に伺いますと言っていただきました。私は、「疲れが長く続いていて自分自身ちょっとおかしいと思います」というような事をお話しました。そして。「ちょっと詰助行をさせて頂きましょう」と言ってくださり安心したのですが、二日目には突然涙が止まらなくなり、唱えれば唱えるほど辛さは増し、お助行も続けられなくなったりしました。私は「きっと罪障が出てるんだ」と思いました。

 ちょうど4月の連休には青少年の一座のご奉公でスリランカへ行かせて頂くことになっていましたがギリギリまで不安で難しいようにも思いましたが清顕師が一緒に行って下さる事になり無事に行かせて頂くことができました。その後、帰ってきて次の日には父が横浜に来てくれ、兄も出張から帰ってきていたので一緒にお参りし安心して自分でももう大丈夫と思えたのですが、父達を空港まで送った帰り車をぶつけてしまい、また不安に襲われました。普通にそういうことが起きれば誰もがその時はパニックになり不安になると思います。でも私はそれが引き金のように次の日になっても一週間たっても、不安が消えず何をするにもビクビクするようになりました。また頭が割れるように痛くなったりで体調は悪くなり、顔は腫れ上がり身体に湿疹もできそれを隠すことも出来なくなり人に会えなくなり会社もお寺も行けなくなりました。

 休んで色んな方から心配して連絡を頂いていたのですが、もう自分でも「大丈夫」というごまかしがきかなくなり寝ても休んでも心身ともによくならず、休めば休むだけ状態は悪くなっていきました 清顕師がまたお助行に来てくださるんですが、自分でも頑張らないとと思うのですが、そう思うって頑張ろうとすればするほど辛さが増し落ち込んでいきました。

 清顕師はずっと何かあったらなんでも相談してくださいと言って頂いていましたが、私の中では「もう何かあるから辛い訳ではない、そして例え何かあってもお題目を唱えるしかないし、何を言ってもお題目しかない、そう結論があるので何もお話することはない。そして今はお題目が逃げ場にもならない苦しさに耐えるしかない。そういう私の気持ちが法謗なんだ」と思って、そんな思いしかないので話すことが出来ず、言葉も出てこなくなりました。今まで必死にもがいてなんとか立ち直らないとと思っていたのが、それさえも疲れてきてしまい、もう良くなりたいとも思わないし、何も望まないと諦めるようになりました。それでも清顕師は「諦めるのは早い、頑張らなくて良いから続けようと言ってお忙しい中お助行に来てくださるのですが、まったく良くなる気配もなく、申し訳ない気持ちと迷惑をかけている罪悪感で苦しくなりました。

 他にはもっと大変な病気をしていらっしゃる人もいるのに、私は病気でもないのに甘えてばかりで、どうして頑張れないんだろ、自分の事ばかりの自分が許せないし、ご奉公も出来ない上に皆に心配かけてしまい、それが罪障でよくならないんだと思って責めても、それでも立ち上がれず前向きにはなれませんでした。そんな葛藤のくり返しに疲れ果ててもう逃げたくて、清顕師や貴子さんにも来て頂くのも負担になり、「もう来ないで下さい、来られると困ります」と拒否しました。

 そして、本当にひとりになって、すべての接触を絶ったとき、全く何も感じなくなりました。考えることもやめ、思うこともやめ、何事も無かったようにただ時が過ぎました。何も聞こえないし辛くもないし、あんなに泣いていたのに涙もでない。ある意味、解放されたような感じでした。それから二週間くらしたとき、家族が連絡が取れないと心配して清顕師がまた来てくださいました。でもその時は私はからっぽになっていて清顕師がお話されていても何も受け入れることが出来ませんでした。清顕師は「病気じゃないから、ちょっとウツっぽくなっているだけで絶対よくなるから」と励ましていただいていましたが、私はもうお寺の人に迷惑をかけたくないので病院に入院したい、病気と言ってもらえた方が少しはらくになるのにと思っていました。清顕師が毎日来られてはずっと「南無妙法蓮華経と言って」と言われて自分では言おうと思っても出てこなくなったとき、「あ~私はご信心を亡くしてしまったんだな」と思いました。

 この時、御住職にも家に来て頂いたのですが、申し訳ないことに何をお話されたのか思い出せません、ただ「さっちゃん、なむみょうほうれんげきょう 唱えられないか?考えないで、良し悪しも、自分の状態の変化のあるなしも考えないで只唱えたらいい、とにかく唱えて、気にしたらいけない」と、紙に南無妙法蓮華経の文字を書いて、一字づつ教えて下さいました。その時、帰りに「一緒にお寺に連れて行って頂きたい」と言えたのはご住職が来て下さったお陰です。

 次の日からも清顕師が夜迎えに来てくださりお寺に連れて行って下さり、一緒にお題目を唱えてくださるのですがやはり言葉が出てきません。自分では唱えようとしているのに言葉が頭の中で消えてしまうのです。それを客観的に不思議だと思ってる自分もいて、清顕師が隣で一言づつ「な」「む」「みょ」と言って教えてくださるのですが、聞こえてくる言葉がすぐに消えて私は「言葉がない、ない」といっては言葉の出し方もわからなくてまるで言葉を知らない赤ちゃんにでも教えるような状況でした。

 そうして毎日お寺の御宝前に向わせて頂き片言で言えるようになっていくと、またどんどん苦しく、辛くなって涙も止まらなくなりました、体調もこの時が一番悪く、眠れず動悸息切れ眩暈、立ちくらみなどもひどくなりました。また夢と現実の区別がつかなかったり、時間帯がわからなかったり外を歩いていてもどこかわからなくなったりの状態になってしまい、よく倒れていました。電車に乗ろうとして倒れて救急車で運ばれてからは乗り物にも乗れなくなり、また清顕師が来てくださらないんじゃないかと毎日不安で不安で本当に精神状態がギリギリになってしまいました。

 御住職も清顕師もお寺で生活していいんだよと言ってくださっていましたが、人に会う事が怖くて苦痛な状態の私はお寺であっても誰かに会う可能性がある場所に行くのは難しくひとりで家にいましたが、でも清顕師も心配してくださり信仰師のお宅にも泊めていただいていました。清顕師に毎日来ていただいていましたが、ある日他のご奉公でだいぶん遅い時間になっていて私も横になっていたのを気遣われて「今日は帰りますね」と言われて帰られた時、私の中でなぜか「もう終わりだ」と強く思ってしまいました。

 お題目を唱えれば唱えるほど辛くなったのですが、でもやっぱり心の奥底ではお題目しかないことを私はわかっていたのだと思います。なのでそれが無くなったらもう終わりだとしか思えなかったのです。そして私はもうここには居れないと思い、清顕師に「実家に帰ります」とメールをして、でも私は実家に帰る気はなくどこか遠くへ行きたいと次の日羽田へ向かいました。この時清顕師が「私は家族と向き合わなければいけないと」言われていましたが、私はその意味がさっぱりわからず「どうして家族が関係あるんだろ?きっと清顕師はもう付き添うのは大変だから家族に任せたいんだ」と思いました。

 なんとか羽田へついたもののやっぱり途中で倒れてロービーで横になり、夜になって清顕師や貴子さんや家族が心配してずっと連絡してくれていたのに出て清顕師が羽田まで迎えに来てくださいました。 先月も清顕師がお話しされていましたが、清顕師自身も、もうここまできて、本当にどうしたらいいのか分かられなかったそうです。それまでは優しく寄り添って下さって話せなくても良いと言ってくださっていましたが、その日はもう顔色も変わられてて「もうダメだ、こんなことの繰り返しじゃ、どうしたいのかわからない、さっちゃんはどうしたいの?」と怒ってあって(本当に恐かったです)、清顕師が恐くて上手く話せなくてパニックになって必死に考えて頭に浮かぶのは、「ただ、ただ一緒にお参りをして欲しかった」それだけでした。その後も色々と話をしたのだと思いますが、覚えていません。

 次の日には両親が九州から迎えにきて実家に帰ることになりました。帰る前に清顕師が両親に今までの経緯を話して下さいましたが、両親はなかなか状況がわからなかったようです。とにかく姿がひどかったので身体を心配し、食べさせて、休ませてあげたいと思いお参りも負担になるのでと思っていたそうです。でも私は実家でも落ち着かず、不安でどうしようもなく、ただお参りをしないと!ということしかなく、でも自分で唱えることができないので、何よりも家族に寄り添って「一緒に唱えよう、お父さん達が唱えてあげるから大丈夫」と言って欲しかったのです。何もしてもらいたくない、何も欲しくない、何も聞きたくない、今のこの苦しみをどうすることもできない、ただお題目だけに執着していて、私にはそれしかなくて、それを家族にも分かってほしかったのです。

 でも私には言葉がなくて、頭の中で伝えたいことが、聞いてほしい事がたくさんある半面どうしても話したいと思えない自分もいて、言葉がでなくて、とても辛かったです。両親の事に関しても清顕師はどうしてこんなに苦しんでいるのに両親に助けを求めないのか、会いたくないのか、ということが引っ掛かっていたようで、「さっちゃんは家族と向き合わなければいけないし、家族にしか出来ないことがある」と言われていました。実家の御宝前の前でひとり泣きながら、やっぱりここ(実家)に帰ってきても一人だと感じる私は本当に孤独でした。

 そして、清顕師がおっしゃったように「どうして私はこんなに辛くて苦しい時に両親の顔が浮かばなかったのか」考えました。それはもう長い間、家族にさえも気を使ってしまう自分が作られていて、甘えるということができない自分がいて、家族も「さちこは大丈夫、しっかりしてるから」と安心していたそうです。実際、母親との関係は昔から逆転していて、私がいつも母の悩みや愚痴を聞き、私で出来ることであれば母の友達の相談までのっていました。そして、母は体も弱く、何かあると寝込んでしまったり病気になったりして、実際、この時も私が泣きたいのに先に母に泣かれて具合が悪いと言われると、私は自分が助けて欲しい事を何も言えなくなっていました。父は反対にとても強く、自立していてなんでも自分の力でできる人で、出来ないのは努力が足りないからと、自分にも他にも厳しく、5月に来てもらった時も「甘えてばかりじゃだめだ、努力をしないと」と言われていたので、それ以降、益々弱音を吐く事ができなくなっていましたし、父はちょっとでも面倒な話を避けたがる人で話を聞いてもらえると思えなかったのです。両親ともに言えるのは、まず話を聞いてもらえると思えなかった。そして私も話したいと思えなくなってしまった。これが私が本当に孤独になった理由ではないかと思います。

 私は、今回辛くなった時、自分ではもう頑張れない所まできていたので、誰かに相談して「頑張りなさい」と言われることが怖かったのです。頑張ることを受け入れられないから、相談することもできなくなっていました。

 とうとう両親にも何も話さず横浜に戻ろうと思っていたのですが、それを見ていた姉が両親を呼んで、「どうして佐智子がひとりでお参りしてるのに一緒にお参りしてあげないの、どうして、話を聞いてあげようと思わないの、これじゃここに居ても同じだよ」と話を切り出してくれました。私は本当に何も話したくないと思っていたのに、その時不思議と背中を押され両親に今までの私の気持ちを話しました。

 「私も今気付いたけど、子どもが本当にピンチの時に両親の顔も思い出さなかった、両親に助けて欲しいと思いもしなかった、それは家族として本当に寂しく悲しい事だと思う」

 そう言って、自分が今まで自分の中に抱えて重かった想いを両親に話しました。父も、母も泣きながら私の話を聞いてくれました。そして「本当にごめんね、お母さん達が佐智子に甘えてた、これからは話を聞くし、何でも話しなさい、すぐ助けに行くから」と話してくれました。父の涙を見たのは人生で初めてでした。

 私は話したくないという気持ちが強かったので、両親にこうして話が出来たことが不思議でした。それはずっと私のご祈願、御助行をして下さった皆様のお導きとしか思えません。

 それから横浜に戻ってきて、丁度夏季参詣が始まり、ご住職からも「完参できるように頑張らないとね」と励ましのお言葉を頂き、清顕師や貴子さんにサポートして頂きながら夜お参詣させて頂いていました。そして次の週には姉が姪っ子を連れて3週間の滞在で来てくれ、その間は姉がお寺参詣、自宅でのお看経と手を取ってくれ安心しだんだん落ち着いていきました。それまでは話せないし人と会うことは絶対的に難しかったのが、姉が代わりに話をしてくれ盾になってくれるので少しづつ人とも触れ合えるようになりました。 そして以前から清顕師にお話を頂いていたお厨子を荘厳して頂き、自分では本当に少しづつだけど回復してきてるように感じていましたが、実際、姉達が帰った後は大丈夫かと尋ねられると自身はなく姉も清顕師も心配して、またご住職にお忙しい中時間を作っていただきお話して下さいました。色々とお話下さったと思いますが、申し訳ありません、あまり覚えていなくて「今までのさっちゃんじゃなくて、新しい、無理をしない、そのままのさっちゃんに生まれ変われば良い」というような事を言って頂きましたが、この時はまだそのお言葉の意味もわからず、そんな事ができるとは思えないと思っていました。

 ただ、この時にご住職から「どうしてこんなに長くかかるのか、どうしてさっちゃん自身が良くなりたいと思わないのか、」とのお話しのなかで、それは自分自身がずっともう一つの心の中で疑問に思っていたことでご住職から「良くなりたいと思わないのは、もう前の頑張っていた自分に戻りたくない」と思っているからじゃないかと言われ、その時に、本当そうだな、と気付きました。もう疲れてしまって、以前のように人の事ばかり気にして、自分を無視して頑張ることは出来ない、コントロールもできないし、そうして自分が壊れてしまうのが恐くて進めなかったのだと気付きました。清顕師に「自分が良くなりたいと思って自分のご祈願を立てさせて頂いたら御利益が頂けるから」と言われていましたが、これが私にとっては本当に難しかったです。人の為のご祈願には気持が入るのにどうして自分のお願いができないのか、どうして良くなりたいと元気になりたいと思えないのか、そんな自分の気持ちさへを動かすことが出来ない私には希望さへ持つこともありませんでした。とりあえずご住職に言われたように、何か自分のご祈願を立てさせて頂くことになり一人でお寺参詣できるようにと半紙にご祈願をたてさせていただきました。

 姉達が帰ってからなんとか一人でお参詣ができるようになり少し気持ちも安定してきたように思え、自転車にも乗れそうな気がして仕事に行く時に乗ってみることにしました。が、乗って少し行った所で頭がふらっとし坂道で横転してしまいまいた。坂道だったのでスピードもあり自転車が背中に降ってきて下敷きに倒れ挟まれて動けなくなってしまった所を通りがかった人が助けてくれましたが頭や手足から血もでていてパニックになってしまい、ショックでまた声が出なくなってしまい病院にも行けませんでした。なんとか家にもどりましたが震えがとまらずそのまま動けなくなってしまいました。

 夜になって、その日たまたま清顕師から「今日は何時頃お参詣されますか」とメールを頂き、今までだとこんな風に事故にあったり倒れても電話で話すこともできず誰にも助けを求めることが出来ず、ただ泣いて落ちていく一方でしたが、その時は目の前に手を差し伸べて下さったように感じ、自分から電話をかけることができました。清顕師が来て下さり、手を握ってくださって、安心してまた涙が止まりませんでしたが、この時初めて、「あ~御法様はずっと見ていらっしゃる、こんな私でも見守って下さってると」感じることができました。そしてお寺参詣もさせていただく事ができました。清顕師も「こういう事があっても極端に落ち込んだりお参詣しようという気持ちやお看経という気持ちが結果的に折れなかったという事がさっちゃんが本当に少しずつだけど強くなってる、信心が増進している証拠だと思います。それが何より有り難いです」と言って頂きました。でも清顕師もきっと心の中で「なんで?、なんで今またこんな・・・」と思われていたと思います。必死に「こんなことは誰にでもあるし、僕もしょっちゅう車ぶつけるし」と私がまた落ち込まないようにお話してくださいました。また会社の方も心配して病院を紹介して下さり頭のMRIから全身のレントゲンまで撮ってもらいましたがどこも異常はなく一週間の治療ですみました。

 そうしたこともありながらなんとか無事に夏季参詣をさせていただく事ができました。

 しかしまだまだ浮いたり沈んだりの毎日で、心は埋まらず、両親も心配して「いつでも駆けつけるからね」と言ってくれていたので、その言葉に甘えてみようと両親に来てもらうことにしました。

 両親は一か月滞在してくれ朝参詣や自宅でのお看経を一緒にさせて頂きました。少しづつ両親との間で会話ができるようになり一か月を過ごした後、一度帰ることになりました。 両親を見送って「大丈夫。もう大丈夫」と自分に言い聞かせていましたが、次の日に熱がでて、体中に湿疹ができ、また家からでれなくなりました。お寺参詣もできないし、清顕師にも連絡ができないしでまたひとりでいるなか不安になり、熱が下がってやっとお寺に向かうのですが近くまで来ると頭痛がして足も止まり寺内に入ることが出来ず、泣きながら帰る日々が続きました。一週間くらいたっても入れず階段を上ってきたところの公園でお題目を唱えていました。その時に清顕師からメールがきて、公園にいる事を伝えると、迎えに来て下さり、一緒に本堂に入って下さいました。その時に、清顕師から「もう一度、もう一度、御助行をさせて頂こう、今度は青年会の皆にお願いして、皆で詰め助行させて頂こう」と言って下さり、早速、次の週から来て下さることになりました。

 やはり、随分と皆と会ってなく、話してもいないので、来て頂くまでは心配と緊張で具合が悪くなりましたが、ここは乗り越えたいと思い、ずっとお題目を唱えてお迎えさせて頂けました。青年会の皆さんは御助行の呼びかけをして下さり、平日の8時という、仕事などでお忙しい中、毎日5~6人以上の方が来て下さり、それは本当に一生懸命にお題目を唱えて頂きました。そのあまりにも必死なお題目の姿を見て、皆の想いが自分の中に入っていくのがわかるのです。そして今までもう何も感じなくなっていた自分の気持が涙とともに「嬉しい、、ありがたい、、」と心の奥底から感情が湧いてきて胸がいっぱいになりました。

 それは本当に不思議な体験でした。自分の気持ちさへどうすることもできず、動かすことができなかったのに、皆さんのお題目によって引き上げられたような感じでした。そして今までずっと、心の中に塊のような物があったのがすうっと取れたのです。理解できないと笑われるかもしれませんが、私には本当にその物体の存在を感じ取ることが出来たのです。それは消えてしまった後に気付いたのですが、明らかに辛い物体がないのです。気持も軽く、もちろん身体も軽く、その物体を説明したいくらいでした。きっと私の罪障という物体だったんだと思います。そして「あ~私は病気だったんだ」と思いました。

 一週間のお助行の中にはお助行が初めての小林遼太郎君や入信して間もない柳沢琴絵さんや初めてお会いする正くんの彼女さんまでもが家に来て下さり、一生懸命御題目を唱えて下さいました。中でも渡辺麻美ちゃんは何カ月か前にお寺ですれ違った私を「私だとわからなかった」とそのショックに泣きながらお寺でお参りしてくれ、ずっとお助行をさせて頂けるようにご祈願して下さっていたそうです。詰め助行でも毎日毎日仕事が大変な中を頑張って早く終わらせ、間に合うように走って家まできてくれました。他にも本当にお一人お一人の想いが私には伝わってきて、そんな、皆さんの想いが、お題目の力となり私の心を動かしてくれたのだと思います。

 今までは、お助行中でもどんどん具合が悪くなり、なかなか続ける事が出来なかったのですが、今回は3日目から皆と合わせてお題目も唱えられるようになり、お参りの後皆とお茶しながら、少しづつ話もすることができるようになりました。また満願の日には午前中に貴子さんの家での部お講にもお参詣させていただく事ができ、お助行が終わる時には只々、涙が溢れてきて皆さんにも自分の言葉でお礼を伝えることができました。皆も涙ながらに喜んでくれ、「あ~本当にこんなに有難い信友がいるだろうか」と抱き合いました。

 その日の夜に御礼お参詣をさせて頂き、御宝前の前でお題目を唱えていると今までの事が思い出され、また涙涙のお題目でした。その後、ちょうどお当番をされていた清顕師にもお話させて頂くことができました。次の日には貴子さんと連合お講にもお参詣させて頂く事ができ、本当にふたり、ありがたい思いでいっぱいでした。

 ただそれからも今までが今までで長かった事もあり、身体もまだ本調子にはなれず熱がでたり目眩がしたりという事があり、すぐ万全にはなれませんでした。ご住職をはじめ、清顕師もお講師方もスリランカに行かれていた時には、やはり不安になり、また両親に来てもらうことになりましたが、これが今では御利益だったと思います。

 両親に来てもらって私も落ち着ついたころ、ずっと以前から父が胃が痛むと言っていたのが気になり、皆で病院に行くように言っていたのですが、なかなか気が進まず市販の薬を飲んでいました。でも丁度父が福岡の病院で働いていた時の同僚の方が横浜の大和の方に研修で来られていて、その人に会いに行くついでに検査もしてもらうように連絡をしました。そこで、わかったのが胃の腫瘍でした。

 両親は、私が心配をしてまた調子が悪くなったり自分を責めるのではという事を一番に心配をして、たいしたことないと言っていましたが、やはり私も家族も正直「なんで今?まだですか?まだ試練は続きますか?」と御宝前の前で泣きました。

 しかし、清顕師に「本当に御信心はタイミングだと思います。今、さっちゃんが元気になってのお父さんの腫瘍。前のさっちゃんだったら受け止められなかったのかもしれません、でも今のさっちゃんは御題目の御力を感得したのだと思いますから、今だったら臆することなく向き合えると思います。『難は菩薩の積功累徳』です。これでお父さんへの恩返しの孝行ができます」と言って頂き、受け止めることができました。自分自身が元気になって、次へのステップが自分の一番大事な父の為に祈ることができる機会を与えて下さったのだと。そう思えることが出来ました。また、家族でも「今一度、ここで家族が一丸となって、本当の意味の原家の罪障消滅、信心改良をさせて頂こう、家族が助け合おう」と話をしました。

 両親が地元へ帰り、離れて、離れてはいるけれど、朝夕のお看経を同じ時間にさせて頂き、朝参詣も一緒に頑張ろうと父が毎朝電話をくれるようになりました。一人ではなかなか負けてしまうけど、こうして家族が少しの言葉をかけてくれるだけで頑張れるのだと、離れているけれど一緒にお参りさせて頂けてると感じることが出来ることが本当に励みになりました。こうして頑張ることができるようになってふっと気づくと、ずっと薬なしでは眠れなかったのが眠れるようになり、頭痛も眩暈もしなくなっていました。

 朝、お寺までの階段をのぼるのさへ嬉しくてありがたくて、朝日が輝いて見えるようになりました。そしてなにより皆さんと一緒にお題目をあげられることの喜びは、お題目を唱えられなくなった私にとって本当に新鮮でした。手術までも皆さんにご祈願・お助行を頂き、4㎝近くあった腫瘍も穴を数か所にあけることで内視鏡で行えることになり、また開いてみると胃の裏であったのに取れやすい形であったことなど、とても短時間で負担なく終わることができました。それからも検査結果を東京へ移してということになりまた不安がよぎりましたが、そのお陰で気を抜くことなく続けてお題目口唱させて頂けたこと、またご住職をはじめ、皆さんが「気を抜かずにしっかりご祈願させて頂きましょう」と声をかけて下さり本当に心強かったです。

 はじめは、絶対良性でないと腫瘍も無くなるようにご祈願しなくてはと、それは自分の努力にかかっているような考え方をしていましたが、清顕師から「ご法様もおすがりして頂いた結果がどんな結果であってもお計らいですよ。自分考えだと本当はお計らいを頂いていてもそれに気付かない事になりますよ」とお話頂き、色々な事は考えず只、ただ一心にお題目を唱えさせて頂く事ができました。そうして検査結果を良性と頂き、家族一同、本当に「あ~本当に有難い。。本当に有難いね」と涙ながらに喜びました。ご住職をはじめ、皆様が私たち家族と同じように共に迷い苦しみ、共に励ましあい共にお題目を唱え御利益を頂け、共に喜びを感じて頂けた事、それが私たち家族にとっての一番の幸せであります。身にしみて感動しました。ご住職、これが本当の佛立家族なんですね。

 私は今年一年、こんなに辛い思いをしてわかったことは人は自分の事でさへどうすることも出来なくなる事がある。それは今、こういう時代のなかで誰でもがそうなる可能性があり御信心していても罪障と向き合わなければいけない時期がある、ということを。色々な事があって追い込まれていきましたがだからと言ってどれが原因なのか自分でもわかりませんし、自分が持って生れた業を正確に知ることもできません。ただ、こうして私はすべての心を失った時、唯一、お題目が残されていたからこそ助けて頂く事ができたのだと身をもって感得しました。

 先日のニュースで飯島愛さんの訃報を聞き、とても自分と重なりました。本当にとても可哀相な寂しい最期だったのだと思います。私もこうして助けていただかなければ同じようになっていたのだと思わずにはいられません。私は死にたいとかそういう意志さへも持つ余裕がなかったように思えますが、よく倒れていた時、誰も助けてくれなければ、こうしてお講師が来て下さらなければ同じように有り得た状況だったと思います。今思うと私が倒れる時も、いつも誰かがふっと現われて病院なり自宅まで送っていただいていました。しかも、私は大部分それが誰だったのか思い出せないのですが、今思うと御法様が守ってくださっていたとしか思えません。そしてそれはたくさんの皆様が私のご祈願、御助行をしてくださったからだ事によるお守りだと思います。

そしてこんな状態でもなんとか仕事を辞めずに済んだこと、これも普通の常識では考えられないようなお計らいを頂きました。働き始めから休みがちでひどい時期には一週間も二週間も休み、会社に行けても話もできず、具合が悪くてほとんど仕事は出来なくなっていました。もうごまかしもきかなくなった時やめることを決心し話をしましたが、それでも「大丈夫ですよ。みんなにも話をして無理なことはサポートしますので」と言って頂きました。職場の皆さんが心配して気を使って頂き、本来サポートの仕事なのに逆にサポートして頂いたりで、本当に助けて頂きました。この不況の中、有能な方でさへ職を失う時代にこのような待遇はどう考えてもあり得ないと思います。今考えてみると前の大好きだった職場を退職しなければいけなくなった時はどうして?なんで?と苦しんだけど、今の会社でなければこの状態で仕事をさせて頂く事はできませんでした。 御利益は、後になってみないとわからないと教えて頂く事がわかりました。それがこの御信心の有るか無いかの違いなのかもしれません。

 また私は本当に周りの人に恵まれました。家族にしても教化親の杉本貴子さんにしても、諦めずに御法を疑わず、ただ一心に祈ることを諦めなかった貴子さんの志に助けられたのだと思います。私が一言も話せず、お題目も唱えず、意識がない状態で、それでも私の手を引いて御宝前の前へ連れて行ってくれ、ひとりで涙ながらにお題目を唱えられていた姿を今は思い出しては胸がつまります。

 貴子さんの口癖で、「共々に」と言われるように本当に辛さも苦しみも悲しみも、共々に、受けられたと思います。そしてこの教化親・子のご縁を頂いたことを、とても偶然には思えません。これからもずっと、『共々に』、そして他の人とも『共々に』、一緒に歩けるような、そんな貴子さんのような信者になりたいと思います。

 そして、今回ずっと傍で御奉公して下さった清顕師には、本当に言葉では言い表せない想いです。大変なご奉公をさせてしまいました。私がもうこの世で清顕師しか助けてくれる人はいないというくらい究極に追い込まれている中でかなりの重荷であったと思います。ご自身のご奉公でお忙しい中、毎夜、毎夜、迎えに来て下さり、色々な配慮をしてくださり、また色々なお役を頂いていた私のご奉公までも受け持たれ、本当にすべてをお任せしてしましました。そしてなにより状態の悪い中では目が離せないほど本当に心配されたのだと思います。私の前では「大丈夫、心配ない、必ず良くなる」と貫いて、声をかけてくださっていましたが、後日談では、一緒に悩み、色々と揺らいであったのだという事をお聞きし、本当に自分だけが迷い苦しんでいたのではなかったんだと、思い知らされました。それなのに私は、「どうして?なんで?」と答えを求め続けその度に色々なお話をして頂きました。大変身を削られたと思います。本当に申し訳なく思っています。この前のご法門では自分が気付かせて頂くことがあったと言って頂き、少し救われました。

 先日、光薫寺の御導師もおっしゃっていただいていましたが、私はここ妙深寺だったからこそこの体験を御利益にさせて頂けたのだと思います。これからはこの御利益を頂いて、自分なりに自分の出来る精一杯で同じように苦しんでいる方を御救いできるような器にさせて頂けるよう、「弘通の器になれるよう」日々お題目で精進させて頂きたいと思っています。

 私の今年の目標は御助行を頂いた方への恩返し助行をコツコツ回らせて頂きたいと思っています本当に本当に長い間、ありがとうございました。

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