ただ、少し思うのは、なぜ人は自分の見たいものしか見えないのだろう。しかも、人のことは見えても、自分のことは見えない。なぜだろう、それは不幸の因なのに。
なんどもなんども、そう思って、かなしくなる。ご信心は、そんな悪循環を繰り返す鏡を持たない凡夫のためにあるのに、その大切さも気づけない。つくづく、それを思うと、やるせなくなる。
いろいろな方と、いろいろな場面で、いろいろな問題についてお話を聞くが、結局「凡夫転倒」「三毒強盛」という、私たち独特の悪癖に翻弄されていることを思う。
せめて、ご信心に縁のある人、ご信心をしている人は、もう一度、自分の信心が本物か省みなければならない。私が気づけば、厳しく指摘し、お折伏させていただくが、それでも、分からずに、自分のことは見えず、人のことばかりに目が行き、不平を言う。それは、信心していると言えない。常々、改良を心がけなければ、口先、形ばかりの信心になり、信心しているつもりでも悪循環に戻ってしまう。
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