2008年10月5日日曜日

お彼岸(秋季総回向)の御法門

御 教 歌
みほとけに 供へし徳は身につきて 生々世々に はなれぬときく
 世間でも、手に職をつけろ、スキルアップをしろと申しますけれども、それだけではない。御宝前に向かって手を合わす功徳、時間を使って、体を使って、お金を使って、三宝、御宝前、先祖に積ませていただく功徳行は、生々世々にわたってあなたから離れない。そういう目に見えない、あなたを護り高める功徳の積み方、功徳を積む生き方を決して忘れてはいけない、実践なさいと教えていただく御教歌です。
 さて、今日は、年に二度の《お彼岸》、総回向のお参詣でございますが、先祖を敬うこともしないのは、犬や猫以下。人間としても良いことはございません。もしそれを蔑ろにしている方は、今は良くても必ず落とし穴に落ちる。悪ければ悪いところから抜け出せない。先祖を想う。先祖に手を合わす。簡単なことです。その簡単なことすらできない人が多い。それではいけないんですね。お墓参りや、ご回向、ご供養、これは人間にとって正しい暮らしの基本、原則、原点なんです。これができていなかったら、何ができていてもダメだと。正しいご回向で、正しい人生を歩んでください。
 知人、友人でも、家族でも、先祖を敬い、先祖に手を合わす気持ち、心、習慣をもっていない人には、「それではダメよ」とハッキリと、教えてあげなければなりません。「ご回向しなさい」「せめてお墓参りくらい行きなさい」「お寺にお参りできなかったらダメ」と、こう教えてあげなければならないのでございます。 私たちは、人生の浮沈、幸不幸、そのほとんどを、自分自身で決めてしまっています。こうすればこうなる、ああしたらこうする、という自分のパターン。毎日起こる出来事を、ある人はこうするけど、自分はこうする、こうしてしまう、こう対処するという。実は、これは、練りに練って出来上がってきた「自分」というものの判断、感性、価値観によります。これは、みなさんご存じだと思います。
 人生には、いろいろな物事がございますが、時にこれは、剣道の立ち合い、勝負のようなものです。予測できない敵の動きに、瞬時に、どう自分が立ち向かえるか、身体が反応するか。それで、勝負は決まってしまう。 そのときにゆっくり考えている暇はない。ですから、日々に鍛錬し、自分を練っておかないと、いざというときに身体は動きません。
 普通はとっさに自分を守ろうとする。懐に飛び込むか、逃げ出すか、上からいくか、横からいくか。「いざ」というときは考えている余裕はありません。 あなたが何十年と繰り返してきた、無意識にまで溶け込んだ、無意識にまで蓄えられた自分、パターンが出ちゃう。それで、勝負か決まる。生死、人生の浮沈、幸せ、不幸、いい回転、悪循環、未来が決まる。
 どういう自分の練り方をしてきたかが大切ですね。自分の人生は、自分のもの。誰もが幸せになりたい、穏やかに暮らしたい、愛されたい、仲良くしたい、成功したい、と思っていますが、そうなる人もいれば、そうならない人もいる。これは、誰のせいにもできません。どこから見ても「自分」のせいなんです。 人生は毎日、選択の連続です。いろいろな出来事を見たり、聞いたりして、嬉しくなったり、哀しくなったり、ふさぎ込んだり、元気になったりします。右に行くか、左に行くか、前か、後ろか。とっさに判断して、自分で対処して生きているのが人生です。
 鍛錬のない人間、上辺だけで過ごしてきて、誰かに判断を任せていて、何も腹に蓄えられていない、据えられていない人間では、とっさの判断がつきません。いつも、迷いに迷ってしまう。間違ってしまう。 この、「自分」を磨く努力を怠ってはなりません。鍛える努力、学び、成長する努力を忘れてはいけません。
 そして、その最たるものが、心を練る、「ご信心」です。自分の持っているパターン、欲深い凡夫特有のパターンを変えていくことがご信心修行というものです。
 私たちの「今」は、幸せな人、不幸な人、満足している人、していない人、それぞれだと思いますが、そこには一つの「流れ」があります。その「流れ」とは何か。いっときに生まれて自分の幸不幸があるということではないというのです。 自分の何年、何十年という人生で、培ってきた、成長させてきた、影響を受け、学んできたものがあります。そういう判断、感性、価値観、能力、体力、精神力が関係する。
 さらにその他に、三つの要素が、私たちの人生に深く、深く根ざしていて、関係していて、「自分」というものを決めているといえます。
 第一に「血・遺伝子・DNA」。第二に「家に伝わる神話・伝説・悪夢」。第三に「先祖、過去世からの果報・罪障・業」です。
 まず、誰でも簡単に思いつくのは、「血・遺伝子・DNA」です。「あなたは父親似ね~」「お母さんに似ているわね~」とか、私たちは遺伝子の影響を受けて、顔、身体、いろいろな部分を受け継いで生きています。それだけでも人生の大半に影響を受けているといえますが、「性格」の部分でも、この「血・遺伝子」というものが影響しているといわれます。
 これは意外に思ったり、反感を覚えたりする人もいるかもしれませんが、現代の遺伝子工学でも解明が進められていて、「好奇心」を司るDNAが見つかりそうだというものや、暴力的な性格を作る「バイオレンス遺伝子」というものがあるようだという研究発表もあります。
 これにはある実例があって、スピッツという犬がいるのですが、うなずかれている人もおりますが、もの凄いうるさい犬なんです。ずっとキャンキャン吠えている。一時大ブームになったんですがうるさいという理由で人気がなくなり、マルチーズやポメラニアンにとって代わられてきました。一九九一年には千頭を割り込んだと言われています。
 しかし、今また人気になってきている。なんでか。それは今は無駄ぼえしなくなった。なぜこうなったかというと、性格のおとなしいオスとメスをずっと掛け合わせ続けて、子供を産ませた。そうしたらほぼ全ての子供がおとなしい性格で生まれてくるようになったという。
 こんなことを言うと、「頭の悪いのも、性格の悪いのも遺伝」と思われるかもしれませんが、そうではない。仏教は因果を説きますが、運命論ではありません。ですから、恐ろしい人の遺伝子を抹殺しなければというヒトラーの「社会進化論」みたいに捉えてはいけません。
 とにかく、事実として、自分の人生というものを考えたときに、自分の人生の記憶に残る経験というものだけではなくて、時代を超え、世代を超えて受け継がれてきて、引き継いできたものが、自分の人生に思いも寄らぬ影響を与えてきているということを知らなければならないということです。
 完璧な人間などいませんから、それをどう乗り越えていくか。力に変えていくか。どうやって良い部分を伸ばし、悪い部分を克服していくかが勝負です。
 第二には「家に伝わる神話・伝説・悪夢」というのがあります。
 それぞれのご家族には、そのご家族にしかないお話があります。「お祖父ちゃんが戦争に行って戦った」「お祖母ちゃんはこういう人で、こんな生き方をしてきた」というお話。それらは、家族やそこで生きる一人一人にとっての伝説、神話のようになって、知らず知らずのうちに受け継がれていきます。血、DNAとは似ているようで少し違います。その生き方を、踏襲しよう、受け継ごうと思ったり、思わなくても神話というのは血肉になって様々な場面で顔を出します。
 あるいは、悪夢というのは、そうして引き継いできた伝説の暗い部分、闇の部分。良い話ばかりではなくて、こんなふうに人をあやめたとか、それも覚えているいないにかかわらず、引きずってしまいます。これも、さまざまな場面で顔を出し、自分の人生を左右するようになります。 第三に、「先祖、過去世からの果報・罪障・業」です。
 分かりやすいように三つに分けさせていただきましたが、総合すると、第一と第二も、この仏教が数千年間説いてきた第三の「先祖、過去世からの果報・罪障・業」ということになります。眼には見えませんが、「親の因果が子にめぐり」です。
 私たちには、先祖があります。先祖がなければ、そもそも存在しない。人間に生まれてくることは奇跡的なことで、良かろうが悪かろうが、命をいただいたことだけでも先祖に対して大恩があります。 ましてや、先祖との御縁は、切ろうと思っても切れない。しかも、今の私たちの人生に、深く深く関係しているんです。
 過去世からの自分の果報、罪障、業。自分の血、家系、系譜、先祖代々から受け継いでいる果報、罪障、業は、絶対に離れることもなく、今の自分を作り上げ、未来の自分も作っています。
 再三申しますように、仏教は運命論ではありません。影響を受けている、だからこそ、どうするか。良い関係に、良い面を伸ばし、悪いものは修める、止めるという努力が必要で、そこに焦点を当てて実行できたら、前向きに幸せになる道を歩み始めたということです。
 考えてみると、今現在の自分自身も、未来の子どもたちに影響を与えていく存在です。ずっと繋がっている。ですから、責任があります。「みほとけに供へし徳は身につきて 生々世々にはなれぬときく」 一代で終わりではありません。先祖代々、そしてこれからも、生々世々に、引き継いでいくパターン、引き継がれるパターン、幸不幸のエネルギー、血、遺伝子、神話、伝説、果報、罪障、業があります。それが、自分自身はもちろんのこと、子どもや孫、子孫にまで良くも悪くも引き継がれてしまう。
 だからどうするか。結論は、「功徳を積みなさい」「修行なさい」。
 仏教はロジックです。仏教は道理です。実行です。行動です。三宝(仏・法・僧)に帰依する。御仏に供える功徳、時間を使い、身体を使い、お金まで使って、自分にとってマイナスでも、御仏の教えに従ってプラスとなる行為を積み重ねていこう。すると、絶対にその功徳は火にも焼けず、水にも漂わず、生々世々に受け継がれていく、離れないで持って行ける、という。
 御指南にも「供養は、果報を得るの因なり」とお示しです。
 今日、皆さんは、お塔婆を立てられました。ご回向をされました。御賽銭をさせていただきました。時間を使い、身体を使い、お金も使って、ご回向を勤めました。この供養で積んだ功徳は火にも焼けず、水にも漂わず、自分や家に備わる。離れません。
 そして、いま生きているなら、人生は三六五日続いているように、先祖や過去世からの影響も毎日続いていますから、今日一日の供養、回向で良いということはない。《毎日》正しい方法で、正しく回向し続けることが大事なのです。それが功徳を積むということなんです。
 最近、お墓参りする人も増えています。こういうことをキチンとやっておくことが格好良いという雰囲気が世の中に生まれつつあるのかもしれません。これだけでも有り難い。先祖を大切にしていたら、子どもを殺すとか、恐ろしい事件の大半は起きなくなります。本当に先祖へのご回向が出来る人、そういう社会が来れば、いま狂ってきている世の中は正しく立ち直ります。お墓参りを大切にする人が増えてきているということは、千歩ゆずれば有り難い。
 「千歩ゆずって」というのは、やはりお墓参りだけでは片手落ちだからです。人間はすごく単純で忘れっぽい。何もしないよりはマシですが、一時の善行は自己満足に過ぎなう。だから、年に数回のお墓参りだけではダメで、日々のライフスタイルの中で、先祖に手を合わす、向き合える窓がなかったら、本当の成長はありません。 教えも正しく、御題目で。お墓だけではダメ。本堂まで来て、御題目を唱えて、御法門も聴聞しなきゃダメだ。戒名にお金を掛けて安心するようではダメだ。常盆常彼岸、毎日毎日と、功徳を積む修行をしなさい。それは幸せのためです。
 先日、友人から電話がかかってきて、「いろいろと両親のことなどを考えていて、お墓を建てておきたいと思うんだが」という相談がありました。
 私は、「悪いけど墓地販売だけだったらやってないんだよ。お墓に手を合わすとか、自分が死んだ後にお骨を入れる場所を作るとか、そういう気持ちはいいけど、どうせだったら、正しい回向をしたほうがいい。本当のところ、お墓に参るだけでは供養にならない。そこに全部の魂がずっと動かずに留まっていると思うか? そんなもんじゃない。自分の自宅に仏壇(御戒壇)を置かせてもらって、自宅の仏壇(御宝前)とお寺とお墓を三角形に結ばなかったら、本当の回向にならない。自分の気休めにしかならないんだよ」というお話をさせていただきました。
 今日お参りの方は、自分もそうした正しい回向を実践すると共に、自分の回りの人にも、正しい回向の方法をお伝えしていただきたい。
 お祖師さまは次のように御妙判くだされています。
「無益(むやく)の事には財宝を尽くすに惜しからず。仏法僧に少しの供養をなすにはこれを物憂く思うこと、これたゞごとにあらず、地獄の使いの競うものなり。寸善尺魔と申すはこれなり」
かようにお諭しをくだされておりまして、意味のないことには時間やお金を使う。それを惜しいとも思わない。でも、三宝への供養、功徳を積むということには、お寺へのお参りやご奉公などに、どうも気持ちが向かない、浮かない。これは、ただごとではない。悪い縁が競ってそうさせているのだから。寸善尺魔とは、一寸の善と一尺の魔。よい物事にはとかく妨げが多く、悪い縁に溢れて邪魔される。だから気を付けなさい。お祖師さまはそうおっしゃっている。
 人生の浮沈、幸不幸を左右するのに影響を受けている、目に見えないものに、手を合わせ、功徳を振り向ける生き方ができたら、必ず良い縁に恵まれ、良い縁に導かれて人生が力強く良い方向に変わっていきます。何より、「御法さまがお喜びくださっている」「先祖が喜んでくれているだろうなぁ」と思えれば、自分が気持ちいいじゃないか。自分が気持ちいいことをしない理由がありません。
 しかも、その功徳は永遠に離れない。自分も良くなり、家族も良くなり、未来の子孫まで良くなるのですから、本当のご回向、真実の供養、功徳行に、お彼岸だけではなく、日々に励みなさい。
 どうかお墓参りだけではだめ。本当のご回向の仕方でなければダメ。お坊さんに御経を読んでもらうだけでもダメ。上行所伝の御題目で、日々、本当のご信心をしてごらんなさい。自分の家に御宝前を迎えて、毎日手をあわせて、お寺とお墓とおうちとしっかり三つを結んで、そこで今こそ、功徳の積める生き方をはじめなさい、その功徳は永遠にあなたから離れませんと、かように進め励ましていただく御教歌です。

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