2008年10月17日金曜日

コロンボの朝

 団参者ご一行は、コロンボで第一日目の朝を迎えた。
 朝一番にお看経の一座を勤めさせていただき、ご奉公の成就と災難除滅、スリランカ本門佛立宗の隆昌発展を御祈願させていただいた。
 この地に、上行所伝の御題目が弘まっている。お祖師さまが広宣流布と仰った一分を、今こうして実感できる。10年前まで、この地に正法の種は下されていなかった。世界中からはキリスト系の宗教団体が、日本からも他の教団が布教していたが、これほどスリランカの人々の生活に密着し、地道に広がってきたことは本門佛立宗の開講当時を思わせる。このことを、私たちは学ばなければならないと思う。
 ブラジルの100才近い大功労者の方とお話をしていた際、その一言に感動したのを覚えている。遠くスリランカに御題目が広がっていると喜んで話をしていたのだが、その方は胸を張って仰ったのである。「私がコロンボで御題目をお唱えしたから、いまご弘通が進んでいるのです」と。この言葉は、単に驕って仰っているのではない。彼らは、ブラジルへ移民した当時は船での長旅であり、インド洋を横断していた際、コロンボに立ち寄ったという。その際、何も分からぬ異国の地、コロンボで御題目をお唱えした、その時の下種、御題目の種が、時空を越えて、いま芽吹いていると感じられている、と。
 この御題目は、この上なく尊い種であり、その種を世に、人々に下すことを「下種」という。この「下種」のご奉公こそ尊く、この「下種」することを目指し、心掛けて、世に、人々に、届けていくのである。その種は、5000年間も種のまま芽吹くことがないと言われている特殊な杉の木のように、我々の時間軸では想像できなくても必ず芽を吹き、育っていく、と。だからこそ、現在の世を憂い、人を憂い、あるいは憎み、幻滅し、失望し、絶望することもない。永遠の時間の中のプロセス主義が、「下種」のご奉公なのだ。何事も種こそ大事で、良い種を下せば、必ず幸せの種が芽を吹くと信じられる。実際に、それは芽を吹くのである。
 無事に、市内観光から帰って来ることができた。それも、御法さまのお守りによる。この地で私たちが唱え、行うご奉公は、「種」となって必ずいつか芽を吹く。それは綺麗な花を咲かせ、実を結ぶと確信している。いつか、いつか。人間の行いは全て種。それは、善きにつけ悪しきにつけ、芽を吹く。覚悟してスリランカへと来てくださった方々のご奉公、御題目は、大いなる功徳の種となって実をつけるはずである。
 明日から、怒濤のご奉公日程がはじまる。市内は検問に次ぐ検問だが、人々はいたって平和であり、普通の生活を続けている。おびえている空気すらない。安全に配慮し、これからのご奉公日程も滞りなく進むことを祈念している。

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