2009年10月3日土曜日

父母の恩を教えてくれる物語

「起きろ、おいぼれ。もう城門が閉まるぞ。都城(とじょう)の用があるのか、それとも城外へ出て行こうというのか」

 日が、西のかた竜山の丘のうねりを影濃く隈取(くまどっ)って落ちようとしていた時刻。ときは、中国、長安の都が、花のように匂っていたころの話である。

 都城の西の城門の外に、一人の老いた乞食僧が倒れていた。年は、八十はとうに過ぎていようか、眼はくぼみ、鼻は異様に高く、暗いシワが生気のない皮膚を縦横に刻んでいた。

「こいつ、死んでやァがるのか、返事しねえや」

 取り囲んでいる城門の衛士(えじ)の一人が、足で老人の胸をゆすぶった。

「おい、生きてるのなら、何とかものをいえ。さもなきゃ、素っ首をひねって、死人堀に片づけちまうぞ」

 鉾(ほこ)の石突(いしづき)で、痩せた脾腹(ひばら)を突つかれ、老人は、かすかに眼をひらいた。

「わしは、名もない天竺(印度)の男だよ」

「へえー。天竺の男?お前がか」

 五人の衛士が、一様に老人の顔をのぞきこんだ。

「十年まえ、天竺を発ってはるばるこの国に来たが、いま、用を果たして、再び天竺へ帰ろうとしているんだ。……少し腹が痛くなってな。休ませて貰ってるとこよ。あああ、弱くなったもんだ。十年前、国を出るときは、もっと若く元気だったんだが」

「この大嘘つきめ!いい気になってやがる。うろうろしてると、この鉾先でほんとの天竺にやっちまうぞ」

「出家は嘘をつかんよ。そう怒鳴らんで背中でもさすってくれ。老人はいたわるもんだ。お前達にも父親はあるだろう。うそじゃない証拠に、ここに白馬寺の長老が書いた受取書と感謝状がある。わしはな、天竺から、仏さまのありがたいお経を、たくさん持って来たのだよ」

「まだ吹いてるよ。天竺からお経を持ってくるようなお坊さまは、かしこくも天子の賓客だぞ。けっ、何をほざきやがる。乞食坊主のくせに」

「怒るんじゃない。わしはな、自分だけの願いでこっそり来たのだ。乞食をしながらな。死んだ母親の供養のために発願(ほつがん)して、十年の間、さまざまの苦労をかさねてやって来た。……そして、これから、また苦行をかさねて帰って行く。どこまで行けるか、寿命との相談だよ」

 落日のひととき、ひかりが見渡すかぎりの城壁を金色に染め、黄色い土の上にたたず六つの影が、長く向うの丘の頂きまでのびた。

「へえ、こいつァ驚きだ。天竺の連中は風変わりだね。死んだおふくろのために、何万里を歩いてお経を運ぶてのが流行ってるのかい」

「ははは、べつに流行っちゃいないが……
母親のためだけじゃない。苦行によって、わし自身の、み教(おしえ)の信念を固めるためだ。この尊いみ教を、お前たち黄河の流域に住む人達にも知らせてあげるためにもな」

 いい終わって、この年とった印度人は、急に元気づいたように起きあがった。

「おお、丁度よい機会だ。わしの長安への忘れ物をお前たちにことづかってもらおう。わしは、国を出るとき、ただ1つ大事なお経を行李(こうり)の中に入れるのを忘れて来た。それは、世尊が、なぜ父と母が尊いか、ということを教えられたお経だ。
 幸い、ここにお前たち十の耳がある。わしの口から、お前たちの耳に伝えよう。お前たちは、よく耳の底に残して、お前たちの民族に伝えてやってほしい」

 僧は、路傍の石をみつけて、その上に坐を組み、衛士たちは、さすがに、何か敬そんなものを感じてそのそばから、やや身後(みじろ)いだ。二人が立って鉾を脚にはさみ、三人が、何となく坐った。

 城壁の泥煉瓦の色が、金色の反射から、暗黄色に変わっていた。

 それから、僧は、長い間、西のほう天竺の空を見つめて何事かを念ずる風であったが、やがて眼をつむり、静かに唇をうごかした。

 かくのごとく、われきく。あるとき、

 仏、王舎城のギシャクツの山の中に、菩薩、声聞(しょうもん)の衆とともにましましければ、比丘(びく)、比丘尼(びくに)、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)、一切諸天の人民および竜鬼神など、法をきかんとて来たり集まり、一心に宝座をかこんで、瞬(またたき)もせで尊顔を仰ぎみたりき…

   ……………………

 このとき、仏すなわち法を説いてのたまわく。

   ……………………

 一切の善男子(ぜんなんし)、善女人(ぜんにょにん)よ…。 父に慈恩あり、母に悲恩あり。そのゆえは、人のこの世に生まるるは、宿業を因として、父母を縁とせり。父にあらざれば生れず、母にあらざれば育たず……その恩、未形におよぶ。

 はじめ、胎(たい)を受けしより、十月(とつき)を経るの間、行、住、坐、臥(が)、ともにもろもろの苦悩を受く。

 月満ち日足りて、産む時いたれば、業風(ごうふう)吹きてこれを促し、骨節、ことごとく痛み、汗、あぶらとともに流れて、その苦しみ堪えがたし。

 父も、心身おののきおそれて、母と子と優念し、諸親眷属(けんぞく)、みな、ことごとく苦悩す。 すでに生れて、草上に堕つれば、父母の喜び限りなきこと、なお、貧女の如意(にょい)の珠を得たるがごとし…。

 それより、母の父を食物となし、母の情(じょう)を生命(いのち)となす。飢えたるとき……母にあらざれば哺(くら)わず。乾きたるとき……母にあわざれば咽(の)まず。寒きとき……母にあらざれば着ず。

 母、東西の隣里(りんり)にやとわれて、あるいは水を汲み、あるいは火をたき、あるいは碓(うす)をつき、あるいは磨(うす)をひき、種々の事に従事して、家に帰るのとき、いまだ家に至らざるに、いまやわが児、家に哭きさけびて、われを恋慕わんと思い起せば、胸騒ぎ、心驚き、両乳流れ出でて忍び堪うることあたわず。

 すなわち家に帰るや、児、遙に母の来れるをみて、揺籃(ゆりかご)の中にあれば、頭(かしら)をうごかし、脳(あたま)を弄(うつ)し、外にあれば、腹這(はらば)いして出で来り、鳴呼して母に向う。母は児のために足を早め、身をまげ長く両手をのべて塵土(ちりつち)をはらい、わが口を児の口に接(つ)けつつ、乳を出だして飲ましむ。

   ……………………

 二歳、母の懐をはなれて、はじめて歩く。父にあらざれば、火の熱きことに知らず、母にあわざれば、刃物の指を落すを知らず。

 三歳、乳を離れて、始めて食(くら)う。父にあらざれば毒の命を落すことを知らず、母にあらざれば薬の病を救うことを知らず。

 父母、外に出でて、他の座席に往き、美味珍羞(ちんしゅう)を得ることあれば、自らこれを食うに忍びず。すなわち、懐に収めて持ちかえり、呼び来りて児に与う。得れば児、歓喜して、かつ笑いかつ食う。得ざればすなわち、佯(いつわ)り哭(さけ)びて、父を責め母に迫る。

 やがて成長して朋友(ほうゆう)と相交わるにいたれば、父は衣を求め、帯を求め、母は髪を梳(くしけず)り髻(もとどり)を摩(な)で、おのが美好(びこう)の衣服は、みな子に与えて着せしめ、おのれは古き衣、破れたる服を纏(まと)う。

   ……………………

 あたりは、ようやく昏(くら)くなって来た。ほんの先刻(さき)遠くで羊を呼ぶ笛の音が響き渡って来たのを最後に巨大な城壁と、限りない大地は死んだように静まりかえっている。衛士たちは、彼らの一番大きな務めである城門を閉めることすら忘れていた。一つの痩せた背の高い座像と、それを取巻く五つのシルエット、その中の二、三は、忍び哭(な)きの声すら洩らしていた……。背高い座像の声は、重く沈みつつも、大地のうねりととに地上の果までも置いて行くように思われた。

   ……………………

 すでに妻をめとらば、父母をば転(うた)た疎遠して、夫婦はとくに親近し、私房(へや)において妻とともに語らい楽しむ。

 父母、年高(とした)けて、気老い、力衰えぬれば、頼るところは唯(た)だ子のみ。頼む所は唯だ嫁のみ。しかるに夫婦、共に朝(あした)より暮にいたるまで、いまだ敢(あえ)て、ひとたびも父母の室に来り問わず。

   ……………………

 用ありて子を呼べば、子は眼を怒らせて怒り罵る。嫁もこれを見て頭(こうべ)を垂れて笑(わらい)を含む。

 あるいはまた、急の事ありて、疾く呼び命ぜんとすれば。十たび呼びて九たび違(たが)い、ついに来りて給仕せず。却って怒り罵りていわく、

「老い耄(ぼ)れて世に残るよりは、早く死なんには如(し)かず」と。

 父母、これを聞きて、怨念(うらみ)、胸にふさがり、涕涙(なみだ)、まぶたを衝(つ)きて、目瞑(くら)み、心惑い、悲しみ叫びていわく。

「ああ、なんじ、幼少の時、われにあらざれば養われざりき。われにあらざれば育てられざりき。しかして今にいられば則(すなわ)ち、却ってかくのごとし。ああ、われ、なんじを生みしは、本(もと)より無きに如かざりけり」

   ……………………

 突然、衛士の一人が起(た)ちあがって、石の上の僧に掴みかかった。

「止(や)めろ、止めろ、この……乞食坊主……止めろ……頼む……止めて下され……頼む……はらわた、が、ちぎれる……おら……」

と哭喚(なきわめ)き、ころげまわった。この男の狂態に、車座になった他の四人の口からも一様に嗚(お)えつの声がもれた。石上の座像は、かまわずなおも語り続ける。

   ……………………

 悲母、それ、初めて生みしときは、顔(かんばせ)、花の如くなりしに、子を養うこと数年なれば、容(かたち)すなわち憔悴す。

 水のごとき霜の夜にも、氷のごとき雪の暁(あした)にも、乾ける処に子を廻し、湿(うるお)える処におのれ臥(ふ)す。子、おのれが懐に屎(くそ)ひり、あるいは、その衣に尿(いばり)するも、手みずから洗いそそぎて、臭穢(しゅうえ)をいとうことなし。

 もし子、遠く行けば、帰りてその面(おもて)を見るまでは、出でても入りても、これを思い、寝(いね)ても寤(さ)めても、これを憂う。

 おのれ生(しょう)ある間は、子の身に代わらんことを念(おも)い、おのれ死に去りて後も、子の身を護らんことを願う。

 然るに……

 長じて人と成れる後は、

 声を坑げ、気を怒らして、父の言(ことば)に順(したが)わず。母の言に瞋(いかり)をふくむ。

 すでにして妻をめとれば、父母にそむき違うこと、恩無き人の如く、兄弟を憎み嫌うこと、怨(うらみ)ある者のごとし……

 妻の縁族来たれば、堂に昇(のぼ)せて饗応し、室に入れて歓晤(かんご)す……

   ……………………

 星が、一つ、桑畑の上に流れた。

 仏、のたまい終われば、梵天(ぼんてん)、帝釈(たいしゃく)、諸天の人民、一切の集会(しゅうえ)、この説法を聞いて、ことごとく菩提心を発し、五体を地に投じて涕涙(なみだ)、雨のごとく、進みて仏足を頂礼(ちょうらい)し、退きておのおの歓喜奉行したりき……

 読誦(どくじゅ)総時間、座像の声は、やがて絶えた。

 衛士たちは、夢から覚めた人のように石の上を仰いだ。衛士たちは次の言葉を待った。

 数分……。

 数時間……。

 ついに座像からは、一ことの言葉も発せられることがなかった。

 衛士たちが走り寄ったとき、彼等は、その印度人が永久に物をいわぬ人になり果ててしまっているのを発見した。

 長安の夜空を覆う数万の星宿が、西から東へ、暗黒の時間からようやく暁晨(ぎょうしん)へ、永劫の時を刻んでいた。

   ……………………

~吉川英治氏や司馬遼太郎氏が引用した「父母恩重経ものがたり」。現代に生きる人々の心にも、両親への尊い恩が湧き起こってきます~

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