妙深寺報の10月号。なんか、出るのも遅くなっているがブログへの掲載も忘れてしまっている。こんなに大切なご奉公なのに、アップしないなんていけない。
今回も最高の出来。月末はギリギリまでスリランカのご奉公だったから、原稿を入れるのも遅くなったり、いろいろなことが重なってしまって、少し遅れてしまった。「無料だから許して」とは言えないな。しっかりしないと。
内容は、スリランカに渡航する前日の23日に奉修されたお彼岸、秋季総回向での御法門を中心に、9月中の教区御講でお話をいただいたことなどを盛り込んでいる。特に、打ち合わせをしていたわけではないのだが、「教化特集」という内容になっている。
妙深寺では、今年が「立正安国論上奏750年」であることから、高祖会までに誓願を立ててお教化のご奉公をさせていただこうと励まし合っている。このタイミングでお教化のお話が溢れているというのは有難いことだ。それにしても、各御講席で、このような楽しい会話が交わされていることが嬉しい。
とはいえ、導師としては、一瞬も気の抜けないご奉公で、その場の空気が沈滞しないように、神経を凛とさせているのだが…。何度もご披露しているが、受持の御講師方はボイスレコーダーとデジタルカメラを携行して御講席の随行。そのお席で語られる会話、お参詣者と住職の会話、「ちょっといい話」などのご披露を録音させていただく。そして、その月の中旬に、御講中に住職がメモしていた内容を整理して報告。取り上げられた方々の声をボイスレコーダーから拾い出し、文字起こしを行っていく。生きた会話、生きた内容を心がけ、その雰囲気をそのままお伝えしたいと思っている。ノンフィクション。ご信心の息吹をお伝えできればと思っている。
来月の高祖会までの誓願。あと少しで達成。今日、今月の住職が勤める御講席が終了した。その全御講席に弘通部の奥山さんや兼子さん、藤村さにゃ森山君や麻美ちゃんが参詣し、弘通部からのご披露をしてくださった。世間でいうノルマと勘違いしていただきたくないので、そのことを再三弘通部からご披露した上で、こうした機会を得て、お教化のご奉公に気張らせていただけることを嬉しく思い、みんさん、ご信心を一歩進めて、菩薩行の実践をさせていただきましょう、と。有難いことだ。
私からは少し厳しく。昨年から、お祖師さまが命をかけて提出された立正安国論を学ばせていただいてきた。この文書の提出によって、お祖師さまは数多くの難に遭われたことは周知の通り。はたして、その内容とはどのようなものであったか。もし、一年間もこのことを聞き、学んできて、いまだに「私にはお教化は無理です」「誰かがしてくれるでしょう」と思っている方があるとしたら、これまでの御法門や講義を全く聞いていない、お祖師さまが立正安国論でお伝えになられようとしたことを一分も汲んでいただいていないということになる。混沌とした世界、混乱の続く社会を、どのようにしたらより良き方向に変えていけると仰せになったのか。この末法の社会に翻弄されて生きていく私たちは、どのようにすれば、その荒波を乗り越えていけるのか。御仏の正しい教えに沿って、まず心を正しく立て直すこと。それしかない。この、原点に立ち返り、人々の心に「正しいブッダの法」を届けることによってのみ、自分も、周りも、社会も、あるべき方向、より良き方向に向かっていくとお諭しくだされた。
この時点。ご正当年の年末も押し迫る中で、このことが分からず、分かっていても実践とはかけ離れたままというのでは仕方ない。同じ信心をしているといっても、残念ながらいろいろある。「日蓮門下」とは言っても、このお祖師さまの御意をいただいて、その一分を汲ませていただいて、世のために、人のために、自分のためにと、ご弘通やお教化のご奉公に日々励んでいる人は少ない。お祖師さまの教えを受け継いでいるはずの寺院。観光寺院のようなになっている日蓮宗の寺院もあるし、祈祷会、降霊会、占いや姓名判断のようなことまでして、密教やヒンドゥーと見分けもつかぬ個人主義の受け皿になっている寺院もあるし、葬祭殿などと名付けた葬儀場の経営や墓地販売にのみ躍起になっている寺院もある。僧侶も、その所属の壇信徒も、お祖師さまの御意を知らないし、教えてもいただいてないのではないか。
同じ佛立信者とならせていただいても、お客さん気分のままで、このパワフルな御題目さまに寄りかかっているだけではいけない。その御意の一分を汲ませていただいて、生きた仏教を体現し、一人でも多くの人に御題目をお届けさせていただこうと励ませていただきたい。同じ「佛立信者」と言っても、お教化の「気持ち」「心」を持っている人と、持っていない人では、天地雲泥の差が出る。功徳の差、御利益の速やかさ等。このことを知らねばならない。お教化が「出来る」「出来ない」ということを言っているのではないから誤解しないでいただきたい。その気持ちが、「あるのか」「ないのか」ということ。ちなみに、今年、私は奉安教化を2戸させていただいた。愛する友人たちと一緒に、ご信心できることが何よりも嬉しい。
11月、高祖会までに、お教化の成就を目指す。そのヒントが、今月号の寺報に溢れている。どうか、何度も何度も、細かく拝見していただきたい。熟読していただきたい。
スリランカの帰り、シンガポールに寄らせていただいた。そこで、素晴らしいご信者である斉藤家にお助行に伺った。奥さまのゆかさんは、本当にお教化の志の篤い方で、何としても応援させていただきたいと思ったからだった。前夜に引き続き、お助行の際にも家事のお手伝いに来ていただいているフィリピン出身のジーナ女史をご紹介いただき、いつも一緒に御題目をお唱えしているということだったので、そのままお看経させていただいた。彼女は不幸な形でお父さんを亡くしており、涙ながらのご回向の一座となった。
大きな御戒壇。こうした大きな御戒壇をシンガポールにお供されているとは。ありがたかった。高級なコンドミニアムの中にあったお宅なのだが、大きな木琴がある。集合住宅なので「木琴の音は大丈夫ですか?」とお聞きすると、「はい、思いっきりお願いします」と仰る。そこで、小野山師や清顕師も拍子木をいただいて、大きな声でお看経。窓も開けっ放しで、コンドミニアムの中に「カンコンカンコン」という木琴の音と御題目の声がこだましていた。一人でも多くの人に御題目をお聞きいただいて、ご弘通させていただきたいという思い。
ふと、御戒壇の横にあるデスクに目をやると、そこに妙深寺報が。あぁ、日本から取り寄せていただいて、シンガポールでも読んでくださっているだなぁ、と感激した。もっと眼を近づけてデスクの上を見ると、なんと、蛍光ペンでチェックしたり、線を引いたりしてくれているのである。「あー、感激!」。こんなこと、してくれているなんて、うれしー、飛び上がる思いだった。
毎月出していると、こんなに丁寧に読んでくれているのか不安になる。雑誌を見るように、パラパラっとめくって、閉じてしまう。あるいは、「また、この人か」「難しいわ」と言って深く読まずに閉じてしまっているのではないかと心配していた。それが、こんなに詳しく、深く、読んでくれていたとは。一行一行、丁寧に組み立てて、書いているこちらとしては、その行間まで読んでくださっているように感じて、本当に嬉しかった。
壮年会の交流助行の際、長野のご信者さんが、「妙深寺のご信者さんは幸せ過ぎて不幸ですね」と言っておられたと聞いた。もちろん、やさしい言葉を交わしながらなのだが、この言葉を聞いてこられた奥山さんが「本当に、そうだと思います」と仰っておられた。毎月寺報が出て、こんなに近くに妙深寺があってお参詣できる嬉しさを、海外で一人でご信心しておられる方の気持ち、遠方でご奉公されている方の気持ちを考えて、感じて、ご信心させていただかなければもったいないと思う。
同時に、そのご信者さんはウェブカメラで本堂の朝参詣を見ておられて、「最近、朝参詣者が少ないのではないですか?」と心配しておられたという。幸せなことに馴れすぎて、朝参詣もできないのでは仕方ない。
とにかく、いろいろと書かせていただいたが、妙深寺報は今月も最高なのである。中身を、じっくり、読み深めていただきたい。
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