たて続けに発生したサモアとスマトラ沖で発生した地震。徐々に分かってきた被害状況。立正安国論上奏750年に当たり、いろいろなことを感じ、学び、ご奉公させていただいてきたが、災禍に直面し、恐ろしい状態にある方々の姿を見て、心が締め付けられると共に、だからこそご弘通をさせていただくことが私たちの使命であると思い直す。
私たちは巨大な組織や資金を有しているわけではないから、ご縁のある国や地域に対する支援に限られてしまう。日本の中とて、難民とまでは言えないが、居場所を失い漂流して苦しんでいる方々がいる。みんなで手分けして、国内海外という線引きではなく、み仏の意志を受け継ぐことを目指してベストを尽くす以外ないと思う。自分の見聞きするご縁の中で。
シンガポールでムスリム、つまりイスラム教徒の方と話をした。インドネシアのイスラム教徒についてや、特殊な原理主義者たちについてお話を聞いた。ほとんどのムスリムは平和主義者であり、共同体意識も強く、お互いへの支援もコーランの教えをベースに活発だ。私からは、それは素晴らしいことで、敬虔なムスリムの生活や精神性を尊敬していると話した上で、しかし砂漠で生まれた宗教には本来バリ島やアジアに根付くヒンドゥー的なアニミズム、多神教文化圏の精神性と隔絶した感があると思われるし、イスラエルにも行って肌で感じたが、宗教や民族のための戦争を容認し、あるいは奨励するDNAがあるとお話した。彼もまた、とても素直に聞いてくれていた。
インドネシアのムスリムにも、いつか上行所伝の御題目が伝わればと思う。南アジアの仏教は漠然とし過ぎていると感じる。タイなどの仏教国でさえ、その教えがなんなのか判然と説明出来るタイ人は少ない。「とにかく、仏教徒」「ブッダを敬っている」で止まってしまう。やはり、「上行所伝」が出てこないと、仏教は、経も律も論も、バラバラなままなのだ。彼らの文化を否定することなどない。ただ、上行所伝という仏教の柱、御題目という仏教の結晶をお伝えしたい。これがなければ、せっかくの仏教が漠然としたもので終わってしまうような気がするし、現実的に苦しい生活や人生を送っている人々にとっては、イスラム教が最もシンプルで分かりやすく、信じやすいということになってしまう気がする。
いま、サモアやインドネシア、被災地で、救援活動が行われている。その活動によって、多くの人々が救われるように祈っている。
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