10年前に出した宅急便が昨日届いたということです。小さかったご長男の宗之くんが書いたものや作ったもの、お祖母さまやお母さんが書いたお手紙が届くなんて、あまりに素敵です。
宗之くん、感激しただろうなぁ。照れていたかなぁ。それでも、なにか、あったかいものが心に生まれたんじゃないかなぁ。園美さんは、素晴らしいお母さんですね。
時間は、素晴らしい薬です。時間は、素晴らしい先生にもなります。取り戻せないから、時間は、圧倒的な力を持って、私たちに教えてくれることがあります。
最近、人間とは、つくづく、「今」が、見えないものだ、と思います。「今」とは、感情や立場や状況によって影響を受け、左右され、情報も限られていて、「真実」や「真理」「真相」が見えなくなるものです。時間が経たなければ、「真実」は見えません。それこそ、人間の、最も愚かで、哀れなことだと思います。私たちが、「仏」と最も遠くなってしまうのは、こうしたことが理由ではないでしょうか。
今、政治の世界で大変な騒動が起きていますが、誰にも真実や真相が分かりません。真実を明らかにするはずの検察も、政治的な意図が見え隠れして、情けなくなります。小沢一郎氏も、断片的な説明に終始していますから、何らかの問題があったに違いありません。
しかし、今回の騒動で、「国民の知る権利」を果たそうとする記者の存在やその取材が、真相を明らかにするどころか、世論を操作するためだけに機能しているようで、また情けなくなります。「記者クラブ」というシステムの悪弊か、過熱する視聴率競争の結果でしょうか。明らかに、取材ではなく、意図的な情報のリーク、つまりメディアを使った世論の操作が、平然と、公然と、行われているようです。なぜでしょうか。
小沢氏をかばうつもりなど毛頭ありません。彼に限らず、今はまだ、政治がそれほどクリーンに行われているとは思えません。しかし、こうした政争や権力闘争の中で、政治的な意図によって、「今」を操作しようとする、操作しようとするだけではなく操作できてしまうこの国に、危機感を持つのです。恐ろしいし、愚かで、情けない。今回の騒動は、日本という国の断末魔のように感じます。
新聞は、また信じられないレベルまで堕ちてしまいました。テレビは言うに及びません。報道番組は観るに耐えない。メディアシンジケートの悪循環、巨大化した複合メディア企業の政治的な偏りは一層顕著です。そこから配信される情報は劣化し、信じるに値もしない。情けない限りです。
「ブッシュの戦争」で経験した悪夢のようなメディア戦略や世論操作で、誰もが気づき、反省したと思っていましたが、違うのでしょうか。「小泉劇場」のように、またヒステリーか一時的な熱狂か、幕末の「ええじゃないか」と踊り狂う不安に満ちた民衆のように、一方に走り出しかねないと心配です。
「今」を見ようと思っても見えない。見えないようにしている、いや、政治的な意図によって、あるいはメディアのマネジメントにある人、資金や権力を持つ人や団体の、思想や信条によって、一方しか見せなくする。こうしたことによって、私たちは混乱を深めます。もちろん、見なくてもいいこと、知らなくてもいいこともあります。しかし、メディアの立場、国家権力とメディアの関係において、こうした意図的な操作があるとしたら、本当に不幸なことです。「狂人走、不狂人走」となるのも容易になります。
国家の繁栄と人々の幸せを希求するのは誰しも同じです。しかし、そこに保守と呼ばれる方々や団体、右翼の方々も、社会主義と呼ばれる方々も、左翼の方々もいます。在日と呼ばれる方々もいます。日本は、いま、大きく二極化しながら闘争を激化させているのでしょうか。その裏舞台は分かりません。しかし、表舞台で、正々堂々と議論を重ねていただきたい。意図的な情報のリーク、世論の操作なと、暗澹たる気持ちになります。こうしたことが国民の精神を蝕んでいると思います。
いずれにしても、つくづく、私たちには「今」を見る力が欠落していると痛感します。テレビに出ているコメンテーターも、雇われの身。何かを期待しても無理なように思います。本当のジャーナリストは、独立系メディアの中にしかいないのではないか。記者クラブから追放されたり、省庁出入り禁止措置を受ければ取材できませんが、本当のジャーナリズムを追求するなら覚悟しなければならないのではないかと思います。
つまり、私たちは、時間が経たなければ、真実が分からないと思うのです。「いつか、真実は明らかになる」とは、こうした意味ではないでしょうか。
過去ばかり見ているのは良くありませんが、そこから見渡せば、きっと真実が見えてきます。「今」だけで生きている人は、どこか薄くなります。「今」を、どうにかして誤魔化しても、必ず真実は明らかになる、明らかになってしまうことを知らなければなりません。
開導聖人は、「辛抱せよ まことはつひにあらはれん しれずにしまふ 悪はなき世に」と御教歌をお遺しくださっていますし、日聞上人は「置いて見よ」とお示しです。一度、置いてからでないと、分からないことがあります。いろいろな物事を、「置いてから見てごらんなさい」と教えてくださっています。「御利益は三年経って振り返れ」とも言います。「今」は、分からない。まだ、分からないことがある、と。
未来宅急便、いいですね。僕も、子どもたちに手紙とプレゼントを送っておこうかな。大切なことを伝えたいし。自分に何かあって、10年後にこの世にいなくなっていても、未来宅急便が父親から届くなんて、本当に素敵です。ご信心のことやご奉公のことを教えたいし、父の思いを伝えておきたい。未来宅急便なら、伝えられるし、伝わりそうです。
妙深寺にも、未来宅急便を送ってみたいです。どこまでご弘通が進みましたか?異体同心でご奉公できていますか?とか。でも、僕がいなくなって次のご住職がご奉公されていたら、ちょっとご迷惑かもしれません(汗)。そんなことを、園美さんの掲示板を読んで考えさせていただきました。
とにかく、「未来からの眼」、「過去からの真実」を意識して、「今」を、精一杯、生きてゆきたいものです。未来の人に、誤魔化しはきかないでしょうから。宗門のご弘通が衰えていれば、未来の人から、「あの時代は暗黒の時代」と言われたり、今はおだてられていても「暗黒の時代の教務さん」と責任を問われるかもしれません。未来が楽しみです(笑)。
未来宅急便、本当に素敵です。私は、今から約20年前、開導聖人100回御遠忌の時、「未来へのメッセージを残そう!」という企画で、父が書いてくれた小さな石のプレートを大切にしています。
そこには、「息子よ、頼むぞ!未来に輝く佛立のために」と書いてありました。大切な、父からの未来宅急便です。そこに書かれた父からのメッセージを胸に刻んで、生きていきたいです。
さて、今度は私から息子たちへのメッセージ。何を書こうかな。
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