(妙深寺報 平成16年1月号より)
紛争やテロの相次ぐ世界。
いわるゆ、21世紀はアメリカ同時多発テロで始まりました。それは、私にとって住職就任式の直前に起きた大事件であり、その後の世界は混迷を深めているように見えます。一連の報復の連鎖に心を痛めると同時に、「仏教」が世界平和のためにできることは何かを、口先の言上ではなく、実践として、行動として考えるようになりました。
私は世界を席巻しているその対立や不安の一端を自分の肌で感じたいと思っていました。問題の核心に迫ろうと聖書を読み耽り、世界史の中で繰り返された旧約聖書に依拠するユダヤ教・キリスト教・イスラム教という三大宗教同士の血塗られた対立の原点を探りたいと切望してきました。真実の仏教を信じる一人の宗教者として、「人類の心の闇」を抱える中東パレスチナ、イスラエルに行きたい、と。
出発の前日まで妻にイスラエルに行くことは伝えられませんでした。一年越しで渡航するチャンスを探し、前の週にはトルコでの最初のテロがあり、断食月のラマダンが終わりに近づいていることもあり、非常に緊張が高まっていましたが、ご奉公の間隙を縫って家族を説得し、皆さまにもご披露せず、わがままを通して単身でイスラエルに向かいました。
分離フェンスを見なければならない、嘆きの壁に肉薄し、ムスリムやユダヤ教徒、キリスト教徒と話をし、実際に彼等が「聖地」と呼ぶ場所を歩きたい。その念願は全てが叶い、カナンの地、エルサレム、嘆きの壁やアル・アクサー寺院、ゲッセマネ、ゴルゴダ、カナ、ベツレヘム(パレスチナ自治区)、ガリラヤ湖など、駆け足で廻り、多くの友人を作ることもできました。タクシーを3回乗り継ぎ、今のイスラエル政府が急ピッチで建設している分離フェンスを越えてパレスチナ自治区へと入り、そこに隔絶された方々と話をすることも出来ました。
多くの人が、日本の仏教界、僧侶、坊主というものは堕落していると考えています。事実、形骸化し、使命感も責任感も無く、勿論信仰心も無く、食べる為に稼業としてやっている厚顔無恥の者が多い時世です。その中で私自身も「佛立教務」の存在意義を見つめ直したいとも思っていました。紛争の中で、真実の仏教である佛立の使命を考えたいと思いました。
私は「信仰する人」を尊敬しています。「信仰」の大切さを知り、恐ろしさを知りながら、どのような宗教であれ、敬虔な「信仰者」は、傲慢で強欲で気まぐれな「ヒト」よりも尊敬に値すると思ってきたからです。
しかし、オウム事件以来、深くこの点を考えさせられました。あの恐ろしい事件を見聞きしながら、「オウム信者」に対して言い知れぬ悲しさと哀れさを抱きました。彼らは自分の抱える人生の疑問や不安から逃れるために、或いは生きる意味を見出すために、藁をも掴む気持ちでオウム真理教に飛び込んだはずです。しかし、その飛び込んだ先は恐ろしい教義を控えた「宗教」とは似つかぬ狂人の妄想に追従するだけの集団だったのです。
「宗教」とは、「何を信じるか」ということに尽きます。何を「本尊」とし、どのような「目的」と「目標」を教え、そこに到達するための方法として、どのような「修行」を提示するか。その全てが、いや根本が誤っているとすると、如何に尊敬に値する敬虔な「信仰者」がいるとしても、逆に「殺人犯」「テロ犯」にしてしまうこともあり、あるいは貴重な「身・命・財」失うことにもなりかねないのです。
その設問はあらゆる宗教が抱えています。勿論、私たち仏教徒、私たち佛立信徒にも向けられています。そして、特に佛立宗の教務員である私には、明確に答えるべき義務があるのです。
キリスト教国やイスラム教国に限らず、あらゆる人間に向けた設問、生き方、基本的な考え方には必ず宗教があると言えます。無神論など、今までの宗教を根底にした新しい宗教の枠内です。何を信じ、何を学び、何を守り、何を許されているか。国家の枠を超えて人々を結ぶこの「宗教」が21世紀を理解する上で最も重要な要因だと考えます。
私は、オウム信者に抱く感慨と同様の設問をあらゆる世界の宗教についても考えます。世界の人々の「心」を結んでいる巨大な「宗教」にも、美辞麗句の裏側に危険なDNAが最も多く含まれていると考えています。だからこそ、私は単一的なストーリーの中から生まれた三大宗教について、大いなる疑義を持つのです。世界を覆い尽くすユダヤ教、キリスト教、イスラム教。私が疑義を抱いている三大宗教について、自分の眼で確かめたいことがある、そう考えて一人でイスラエルに向かい、エルサレムの旧市街を、パレスチナの街々を廻りました。
ある高名な学者は「安政年間こそ、人類史上はじめて世界が一つに結ばれた時である」と述べています。開講の意義は甚深ですが、世界史の中に於ける「仏教再興」の一点も重要な意義を持っていると感じます。仏教は、インドで退廃し、中国で隠没し、日本で形骸化して来ました。江戸末期、連綿と受け継がれてきた正法の灯火を、佛立開導日扇聖人は確かに受け取られ、大衆の中にあって真実の仏教として再興されました。その意義は、佛立信徒の中だけに止まるのではなく、日本国内に止まるのでもなく、世界史の、人類史の中で、新時代を切り拓く画期的な出来事だったと考えるのです。
そこまで大上段に構えずとも、一社会人として世界の平和を考えたり、世界の民族との協調を考えるのであれば、私たちの宗教、彼らの宗教を知るべきだとも考えます。そうした理由が相まって、イスタンブールの最初のテロの後でしたが、意を決して渡航することにしました。
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