目は開いているのに、見える、見えない。感じる人、感じない人。ある人は喜び、ある人は泣きます。好みの問題や趣味の話でしょうか。ある人は感動し、ある人にとってはそれほどでもないのです。実に「人はそれぞれ」です。
世間の人は、それを「価値観の違い」と片付けてしまうかもしれません。しかし、み仏はこの点がとても重要であるとお諭しです。実際、法華経の極意のベースは、この教えに基づいています。
死んだ後で別々の世界に行くのではありません。いま生きているこの世界から、見えないベールに隠された階層の異なる世界があります。人々は、同じ世界に生きているように見えて、それぞれ別々の階層に生きているのです。
このことは、国境や民族の壁、言葉の壁よりも、大きく、そして高いのです。言葉だけではなく、心まで通じなくさせてしまいます。
自分の周りを見渡してください。職場でも学校でも、家庭の中でも、同じ空間にいて、同じ風景を見ているはずなのに、言葉も心も通じなくなることはないでしょうか。
ある人はご奉公することを喜び、ある人は嫌います。誰かの不幸を「自分でなくてよかった」と喜ぶ人もいれば、そうした痛みを自分のことのように思える人もいます。菩薩行に励む人もいれば、お金の亡者や性の虜になる人もいます。
だから、私たちは「感じ方」や「受け止め方」の違いを、「価値観の違い」や「人それぞれ」として片付けず、今の心がどんな階層にあるか、本当はどこにいるのかを見極めなければなりません。
御教歌
「おなじよに
すむと見ゆれど 信不信
心のすみか 常にことなり」
物事の感じ方、捉え方の違いは、「心の住み家」の違いなのです。
遠くにある死後の世界ではなく、ここに、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界があります。地獄界から天上界まで六つの階層を行き来する「六道輪廻」という教えは、コロコロと変わる自分の心境を振り返れば分かります。
永遠に続く苦しみ。恐怖や嘆き、哀しみは怒りや憎悪に姿を変えて、誰彼かまわず傷つけてゆきます。これが地獄界です。
貪りの欲に囚われて、何を得ても満たされることがありません。彼らは誰かと分けあうことを極端に嫌います。これが餓鬼界です。
淫靡な世界に溺れ、麻薬や酒に頼る。目先の快楽が欲しい。強い者に媚びて、弱い者をいじめる。
お祖師さまは、
「畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる」
とお諭しです。愚かさと卑怯さは畜生界の特徴です。
ここまでの地獄・餓鬼・畜生界を「三悪道」「三悪趣」、修羅界を加えて「四悪趣」とも呼びます。おぞましい悪循環の繰り返しです。
修羅界は妬みと争いの世界です。負けん気や向上心は人間にとって必要な資質ですが、努力もせずに妬みだけ募る人や異常な敵愾心を持つ人は修羅界の住人です。
お祖師さまは修羅界の住人を、
「其の心念念に常に彼に勝(まさ)らんことを欲し、耐えざれば人を下し、他を軽しめ、己を珍(たっと)ぶこと鵄(とび)の高く飛びて下視(みおろす)が如し。而(しか)も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品(げほん)の善心を起こし、阿修羅の道を行ずるなり」
とお諭しです。彼らは常に人を見下します。「下品の善心」とは、悪い人ではないが、面倒で厄介な人だとお示しなのです。
一方、人間界の住人は、私たちの知る人々とは少し異なります。人間界から、地獄や餓鬼や畜生や修羅の要素を取り除いた世界です。平和ではありますが、どちらにも付かず、フラフラしています。
天上界は、「天にも昇る気持ち」という言葉のとおり、つかの間の幸福や高揚感があります。しかし、上に昇ったら下に落ちてゆくのは簡単に想像できます。準備不足でそこに止まっていられないのです。
さて、あなたは今どこに住んでいるでしょうか。あなたの「心の住み家」はどの階層でしょうか。私も、少し前まで餓鬼界や畜生界、修羅界にいました。地獄界にすらいたことがあるような気もします。
自分がいた場所、自分のいる場所を知り、自分の心の「住み家」をより良い場所へ変える、引っ越しすることが必要なのです。
仏教には「依正不二(えしょうふに)」という大原則があります。「正」とは、自分という生命体、存在を指します。そして、「依」とはこの宇宙、「正」を映し、包む「環境世界」のことです。全て「依正」「正依」として見てゆくのが仏教の宇宙観。その「正依」が「不二」とあるのは、「二つが別々と思うのは間違いで、一つなのだ」という意味です。
つまり、「正」であるあなた自身が、「依」である世界、環境を作り出しているのです。これこそ仏教の大原則、法華経の極意、現証の御利益を頂戴する前提です。
もし、あなたが畜生となれば、あなたを取り囲む世界も畜生界になるのです。あなたが修羅ならば、この世界は修羅界となり、周りは阿修羅に囲まれるでしょう。もし、あなたが餓鬼であれば、周りには同じように餓鬼がうじゃうじゃと集まってきているはずです。
ですから、あなたの心をどうするかで、この世界は変わるのです。「相変わらず」ではダメなのです。大丈夫だと思っていても、簡単に転げ落ちてしまいます。コロコロと引っ越しを続けているだけではダメです。人生は長くありません。この世界が次の世界へ続きます。どう考えても当然の道理です。
地獄界に居心地のよさを感じてしまう人もいます。落ちてゆくのは簡単で、快感を覚えることすらあります。餓鬼も畜生も修羅も、自分だけの世界ですから、彼らにとっては快適なのかもしれません。
しかし、そんな人々で溢れれば、世界が闇に包まれてしまいます。
「人の悪心(あくしん)盛(さかん)なれば天に凶変(きょうへん)、地に凶夭(きょうよう)出来(しゅったい)す。瞋恚(しんに)の大小に随(したがい)て天変の大小あり。地夭(ちよう)又かくの如し」(瑞相御書)
上行所伝の御題目は、人の心を救います。心の闇を照らします。ご信心は、自分の居場所を教えてくれます。ご信心と御題目がなければ、自分の立っている場所すら分からなくなってしまいます。
変化を起こせるのは自分だけ。御題目とご信心があるからこそ、変われます。自分が変わるから、周りが変わる、世界は変わる。菩薩界という永遠の「住み家」は最高の場所です。
心の「住み家」を変える、変えられるのが、私たちのご信心です。お引っ越しを考えてみてください。
世間の人は、それを「価値観の違い」と片付けてしまうかもしれません。しかし、み仏はこの点がとても重要であるとお諭しです。実際、法華経の極意のベースは、この教えに基づいています。
死んだ後で別々の世界に行くのではありません。いま生きているこの世界から、見えないベールに隠された階層の異なる世界があります。人々は、同じ世界に生きているように見えて、それぞれ別々の階層に生きているのです。
このことは、国境や民族の壁、言葉の壁よりも、大きく、そして高いのです。言葉だけではなく、心まで通じなくさせてしまいます。
自分の周りを見渡してください。職場でも学校でも、家庭の中でも、同じ空間にいて、同じ風景を見ているはずなのに、言葉も心も通じなくなることはないでしょうか。
ある人はご奉公することを喜び、ある人は嫌います。誰かの不幸を「自分でなくてよかった」と喜ぶ人もいれば、そうした痛みを自分のことのように思える人もいます。菩薩行に励む人もいれば、お金の亡者や性の虜になる人もいます。
だから、私たちは「感じ方」や「受け止め方」の違いを、「価値観の違い」や「人それぞれ」として片付けず、今の心がどんな階層にあるか、本当はどこにいるのかを見極めなければなりません。
御教歌
「おなじよに
すむと見ゆれど 信不信
心のすみか 常にことなり」
物事の感じ方、捉え方の違いは、「心の住み家」の違いなのです。
遠くにある死後の世界ではなく、ここに、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界があります。地獄界から天上界まで六つの階層を行き来する「六道輪廻」という教えは、コロコロと変わる自分の心境を振り返れば分かります。
永遠に続く苦しみ。恐怖や嘆き、哀しみは怒りや憎悪に姿を変えて、誰彼かまわず傷つけてゆきます。これが地獄界です。
貪りの欲に囚われて、何を得ても満たされることがありません。彼らは誰かと分けあうことを極端に嫌います。これが餓鬼界です。
淫靡な世界に溺れ、麻薬や酒に頼る。目先の快楽が欲しい。強い者に媚びて、弱い者をいじめる。
お祖師さまは、
「畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる」
とお諭しです。愚かさと卑怯さは畜生界の特徴です。
ここまでの地獄・餓鬼・畜生界を「三悪道」「三悪趣」、修羅界を加えて「四悪趣」とも呼びます。おぞましい悪循環の繰り返しです。
修羅界は妬みと争いの世界です。負けん気や向上心は人間にとって必要な資質ですが、努力もせずに妬みだけ募る人や異常な敵愾心を持つ人は修羅界の住人です。
お祖師さまは修羅界の住人を、
「其の心念念に常に彼に勝(まさ)らんことを欲し、耐えざれば人を下し、他を軽しめ、己を珍(たっと)ぶこと鵄(とび)の高く飛びて下視(みおろす)が如し。而(しか)も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品(げほん)の善心を起こし、阿修羅の道を行ずるなり」
とお諭しです。彼らは常に人を見下します。「下品の善心」とは、悪い人ではないが、面倒で厄介な人だとお示しなのです。
一方、人間界の住人は、私たちの知る人々とは少し異なります。人間界から、地獄や餓鬼や畜生や修羅の要素を取り除いた世界です。平和ではありますが、どちらにも付かず、フラフラしています。
天上界は、「天にも昇る気持ち」という言葉のとおり、つかの間の幸福や高揚感があります。しかし、上に昇ったら下に落ちてゆくのは簡単に想像できます。準備不足でそこに止まっていられないのです。
さて、あなたは今どこに住んでいるでしょうか。あなたの「心の住み家」はどの階層でしょうか。私も、少し前まで餓鬼界や畜生界、修羅界にいました。地獄界にすらいたことがあるような気もします。
自分がいた場所、自分のいる場所を知り、自分の心の「住み家」をより良い場所へ変える、引っ越しすることが必要なのです。
仏教には「依正不二(えしょうふに)」という大原則があります。「正」とは、自分という生命体、存在を指します。そして、「依」とはこの宇宙、「正」を映し、包む「環境世界」のことです。全て「依正」「正依」として見てゆくのが仏教の宇宙観。その「正依」が「不二」とあるのは、「二つが別々と思うのは間違いで、一つなのだ」という意味です。
つまり、「正」であるあなた自身が、「依」である世界、環境を作り出しているのです。これこそ仏教の大原則、法華経の極意、現証の御利益を頂戴する前提です。
もし、あなたが畜生となれば、あなたを取り囲む世界も畜生界になるのです。あなたが修羅ならば、この世界は修羅界となり、周りは阿修羅に囲まれるでしょう。もし、あなたが餓鬼であれば、周りには同じように餓鬼がうじゃうじゃと集まってきているはずです。
ですから、あなたの心をどうするかで、この世界は変わるのです。「相変わらず」ではダメなのです。大丈夫だと思っていても、簡単に転げ落ちてしまいます。コロコロと引っ越しを続けているだけではダメです。人生は長くありません。この世界が次の世界へ続きます。どう考えても当然の道理です。
地獄界に居心地のよさを感じてしまう人もいます。落ちてゆくのは簡単で、快感を覚えることすらあります。餓鬼も畜生も修羅も、自分だけの世界ですから、彼らにとっては快適なのかもしれません。
しかし、そんな人々で溢れれば、世界が闇に包まれてしまいます。
「人の悪心(あくしん)盛(さかん)なれば天に凶変(きょうへん)、地に凶夭(きょうよう)出来(しゅったい)す。瞋恚(しんに)の大小に随(したがい)て天変の大小あり。地夭(ちよう)又かくの如し」(瑞相御書)
上行所伝の御題目は、人の心を救います。心の闇を照らします。ご信心は、自分の居場所を教えてくれます。ご信心と御題目がなければ、自分の立っている場所すら分からなくなってしまいます。
変化を起こせるのは自分だけ。御題目とご信心があるからこそ、変われます。自分が変わるから、周りが変わる、世界は変わる。菩薩界という永遠の「住み家」は最高の場所です。
心の「住み家」を変える、変えられるのが、私たちのご信心です。お引っ越しを考えてみてください。
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