2013年8月15日木曜日

戦争と平和

昭和20年(1945)年8月14日、政府はポツダム宣言を受諾し、翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが国民に伝えられた。内務省の発表によれば、戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人。68年前のその日、戦争が終わった。

拙著『仏教徒 坂本龍馬』という本は、文字が多く面倒な本になっている。もっと簡単に書けなかったのかと叱られる。まさに才能の無さだと思う。楽しく、易しく伝えられないと、いけない。次に出す本は、徹底的に簡単に、分かりやすく書きたい。

『仏教徒 坂本龍馬』は、全く新しい視点から龍馬を捉えたものだった。だからこそ、分かりやすさを求め過ぎるとキワモノや眉唾ものになってしまい、開導聖人のお徳を汚すことになりかねない。龍馬や幕末研究者に読まれても、ある程度納得いただけるものでなければならなかった。一章から二章、三章までは、本当に面倒だと思う。

とにかく、事実を丁寧に書いたつもりだった。佐々木との「仏教を以てしやう」という読み方について異論もあるようだが、今一度、2箇所に掲出されている佐々木高行の日記の原本、『保古飛呂比』、口語体で残る『勤王志士佐々木老候昔日談』を読んでみて欲しい。仏教徒を扇動して幕府に圧力をかけるという話と、「国体として神道がいいのか、儒教でいくのか」という話の2つをしていたのだ。

龍馬は、明らかに平田派復古神道とは異なる思想を有していたし、明治新国家を仏教によって世界に冠たる唯一無二のリーダーシップを発揮する国にすべきと考えていた。それは、龍馬暗殺後、明治新政府を牽引していく人々とは異なる思想だった。彼らは、極端な国学思想を有しており、神仏分離や廃仏毀釈を進めた。そして、その仏教とは異なる極端な思想が、日本人の心の奥底で蠢き、疼き続けて、昭和20年8月15日の敗戦に至った。

このことを6章に書き、7章を「仏教ルネサンス」と題して「戦争と平和」という文章を書いた。この第7章のために、文章を書き連ねてきたと言っても過言ではない。

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第七章 仏教ルネサンス
< 戦争と平和 >

ここまで海援隊が出版した『閑愁録』を軸に、坂本龍馬が仏教徒であったことを語り、仏教による国家の安寧を求めた彼らの主意を絶賛した長松清風の仏教改革やその実践を述べてきた。この最終章では坂本龍馬や長岡謙吉、海援隊が呼びかけた「仏教ルネサンス」について述べたい。

仏教は、その長い歴史の中で唯一宗教戦争をしたことがないといわれている。

ヒトは、他の生物に秀でて「万物の霊長」と呼ばれるまで進化したが、同時に他に類を見ないほど残虐になった。ブッダは、それを可能性と見、同時に愚かさと見た。

本能に従って生きる動物。本能以上に生きるようになった人間。自然界で生まれた「本能」という枠の外に飛び出した人間の可能性と凶暴性や凶悪性。本能を超える知能を持つようになった「ヒト」は、放っておけば残虐極まりないこともするし、地球の全生命、草木に至るまでを、自分たちの「欲求」「快楽」「享楽」のために壊滅させることも厭わなくなった。すでに人類の存在は、巨大隕石の衝突が地球に与える災禍と同じように語られるようになっている。

ヒトは、同種間でも殺戮を行う。これは多くの動物と異なる行動だ。知能を結集して大量破壊兵器を創作し、数十万の仲間を組織的に殺戮するのもヒトに限られる。百獣の王・ライオンは、空腹時以外は狩ることをせず自然の摂理の中で生きるが、ヒトは空腹に限らず大量に狩る、大量に殺す。

五欲とは、食欲、睡眠欲、性欲、金銭欲、名誉欲と言われるが、そもそも、この機能と上手に向き合えなくなっている。摂食障害、睡眠障害、性欲の暴走や減退など、一人ひとりがこうした問題について頭を抱えており、ごく身近な問題として挙げられている。他の動物ならば自然の摂理の中に身を任せておけばいい。しかし、ヒトは短い一生の中で悩みに悩みながら、食べ、働き、眠り、セックスにも向き合っていかなければならない。「本能」というものが長い年月をかけて作り上げられた自然界の黄金律の一部だとしたら、ヒトという個々の存在と行動は、そこから逸脱し、暴走してしまう存在らしい。

ブッダは、こうしたヒトの可能性と愚かさを見据えて、「天地自然の理」と離れて生きることの無いように、最後に残された心の砦、魂の手綱として教えを説いた。ブッダは神ではなくヒトであった。ブッダは、自らヒトの愚かさを極限まで掘り下げ、一方でヒトこそ宇宙の神秘に近づくことのできる唯一の存在だと発見し、証明した。仏教だけが、自分の中に敵や悪魔を発見し、自分の中にこそ仏や神を見出した。だからこそ、仏教を究極の人間学と呼ぶのである。

ヒトは、同種間の殺戮を繰り返してきた。時には宗教や思想がそれを助長した。二度の世界大戦は地球を地獄に変えた。それでも戦争や紛争は消えてなくならない。チャーチルは言った。

「人間が歴史から学んだことは、歴史から何も学んでないということだ。」

大日本帝国は、列強諸国と戦い、最終的には敗北を喫した。日本が果敢に列強諸国に挑んだことは誇りとすべきかもしれない。しかし、その戦争に至った背景に、どのような思想や宗教があったかを考えるべきだろう。明治政府は神道を選んだのである。戦後、日本は国家神道の弊害を痛感したが、それに代わる思想を醸成する術もなく、未だに国家観に迷い、戦争と平和についての答えも見つけられずにいる。

坂本龍馬たちは仏教によって国を安んじ、帝国主義によってアジア諸国を植民地としてきた列強国に挑もうとしていた。他国の侵略を目前にして多くの若者たちが国を憂えていた幕末という時代に、仏教こそ、民衆に、国に必要だと信じていた若者たちがいたことを忘れてはならない。

龍馬は、「船中八策」の中で、

「一、海軍宜シク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。」

とし、その後に考案した「新政府綱領八策」の中では、

「第六義 海陸軍局
第七義 親兵」

と述べた。幕末の緊迫した国際情勢やヒトの愚かさを思えば「軍」の設置は当然の条項であった。しかし、龍馬たちは軍隊の大切さを理解していたからこそ、『閑愁録』に、

「仏法ハ国家ヲ保護スル大威力ヲ具足セル大活法ナル」

と主張して、仏教の平和や慈悲や自由の教えを用いて国家や国民を治めてゆこうと呼びかけたのではないか。

人類が、「戦争と平和」という巨大なテーマに挑む時、国家が「軍」を持つことの可否は普遍的なテーマであり、具体的な、現実的な、政治的な課題となる。現在、これを話題にすると果てしない論争が起こる。靖国に参拝したから愛国者で、憲法九条を擁護すれば平和主義者であるというのは、双方共に問題の矮小化である。そうしたことはこの国のために命を擲った人々の霊魂に対する侮蔑であり、人間の本性に対する無知であり、平和や繁栄の軽視であると考える。

龍馬らは、仏教による宗教国家を作ろうと思ったのではない。人間はそれほど優秀ではないことも知っていたはずだ。ただ、ヒトの愚かさと可能性を追求した仏教によって国民の心を満たし、政治はあらゆる階層の人に開かれ、諸外国との厳しい交際や交渉にも正々堂々と立ち向かう国を求めた。

まず、明治初期の誤謬を知り、不幸な歴史を見た上でなければ、憲法改正議論も「無窮ノ大典」を制定することも出来ないのではないか。貴賎貧富もなく、真に自由で、民主的で、天皇を敬い、因果の道理を弁え、徳を以て治める。少なくとも龍馬たちはそうした国づくりを目指していた。

戦争と平和について語る時、仏教に貫かれる平和の教えを知らなければ次の世界は語れない。その手本は、まさに文武両道の志士、海軍創建に尽力した勝海舟や、海軍を志した坂本龍馬による、不戦の思想や、不戦を求めた生き方から学び取ることが出来る。彼らの生き方こそが、「仏教的な生き方」を追求した政治家の象徴であると言えるのではないだろうか。

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まだまだ、たくさん、たくさん、言葉に出来ないほど、大切で、重たいものを、必死に文字にしました。

終戦記念日、つまり、「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、「戦争と平和」、仏教徒として、こうしたことを思います。

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