2013年12月1日日曜日

『精一杯を取り戻す』 妙深寺報 平成25年11・12月合併号

環境が整うと人間ボーッとするものです。

便利な世界、何でも揃っていて、至れり尽くせりの、安全な環境。誰もが夢に描く幸せな暮らしは、実際に自分にとってプラスとなるでしょうか。なかなかそうはいきません。

三食昼寝付きで、若い女の娘に傅かれ、呼べば必ず応えてくれる、誰かが飛んできてくれる。そんな環境はないかしらと探してみたら、「病院」しかなくなります。

ワゴンで三食を運んでくださり、若い看護師さんがお世話くださり、枕元のボタンを押せばナースステーションから必ず声が返ってくる、どなたかが来てくださる。

いくら便利で快適と言われても、自分から進んで病気になり、入院したいと思う人がいるでしょうか。

人間は幸せな環境を追い求めて生きるものですが、実際にそれが幸せをもたらすかは分かりません。

今や世の中は便利になりました。しかし、不便な時代よりも圧倒的に人間は弱くなりました。

お年を召した方、身体の弱い方、病気の方が、不自由なく、安全に暮らせる社会は必要です。しかし、そんな社会を作ってみたら、元気な人まで弱くなってしまいました。緊張感や向上心、持久力まで失う。これが現代社会の矛盾です。

「バリアフリー」は優しい世の中を象徴する言葉でした。しかし、これに慣れると逆に老化が進み、ほんの小さな段差で転んでしまうお年寄りが増えたというのです。体力も、気力も、奪われてしまう。最近では、「バリアアリー」を取り入れる施設や「引き算の介護」という概念が生まれています。

福祉ジャーナリストの村田幸子さんは、上げ膳、据え膳は御法度、安全主義に徹していると生命力が輝かなくなるとお話されています。適度な負荷と運動が大事なのです。

便利な社会で活力を失っている若者がたくさんいます。朝は眠いものです。二度寝をして遅刻した経験など、誰にでもあるものです。

しかし、枕元で目覚まし時計が鳴っているのに、全く止めようともせずに寝入っているのはどうでしょう。あまりにも疲れ果てて、深い眠りについているというわけではないのです。安全な環境の中で生きていると、危険を察知する機能が低下するか、回路が切れてしまうのかもしれません。毒虫が往来する地域やアフリカの草原では生き残れません。

恐怖がない。怖いことがない。目の前に生命を脅かすことがない。あるのは、自分が求めた時にだけ二次元の世界から取り出す知識や情報ばかりです。鍛えようもなく、それでもいけてしまう。これでは、心身のバランス、内的世界と外的世界の折り合いがつかなくなるに決まっています。

何よりもかけがえのない生命。生きている間にだけ許されていることがたくさんあるものなのです。「今しかない」「今しか出来ない」と思って、もっともっと動くこと、生命を輝かすために、便利さや、快適さや、安全の中で満足せずに、向上心を持ち、失敗しても挑戦し、体験してゆくべきです。それこそ、生きている価値です。

「少年老い易く、学成り難し」と言いますが、「中高年も老い易く、学成り難し」のはずです。人間は生涯勉強であり、生きている間は成長することが出来るはずです。年齢にマッチした適度な向上心を持って、生命を輝かせてください。

日本に比べてスリランカという国はまだまだ不便な国です。ですから、いろいろな面で、不便だと強くなり、便利になると弱くなるということを、二つの国を比べて感じることがあります。
八年ほど前、コロンボで九三才の上座部仏教の高僧とお会いしました。その方は名刺を渡しながら、

「これは私のメールアドレスです。最近パソコンを始めてね。相棒はコンパック。メールをくださいね。」

と言いました。生きている間に、世界中の人と出会い、交流しようという情熱、その飽くなき向上心に心底驚きました。

スリランカに限らず、今生人界にいる間の可能性を、毎日毎夜、時々刻々と大切に、鍛錬している方を見受けると感激します。

私たちの開導聖人も、そもそもそのような御方でした。一年前に書いた文章を見ると少しまだ甘い、と七十才を過ぎても自身の成長を俯瞰してご覧になった御方でした。こんな生き方、すてきです。

若年寄のようになるのは、生命に関して甘いか、安全で、快適な環境に甘んじたか、誰かに甘えているか、のいずれかです。生きている間、私たちは無限の可能性を持っています。それを使わぬ手はありません。

今日も、精一杯生きられたか。お仕事でもお勉強にしても、家庭のことであっても、「いつかする」「徐々にやる」「今度やってみる」と言うのは簡単ですが、結局いつまで経っても出来ない、やらない、ということが多いのです。これは生命の可能性を自ら奪ってしまう、勿体ない選択です。

便利で快適で安全な世界の中で、精一杯やるという気持ちが薄れて、精一杯生きよう、学ぼう、働こう、尽くそう、耐えよう、頑張ろう、という気持ちが弱くなるのは残念です。その罠から抜け出さなくてはならないと思います。

スリランカ南部のゴールという街に、ナンダさんという六十代の女性がいます。彼女は様々な問題を抱える中でお教化され、御本尊をご奉安、御題目によって見事な御利益をいただかれました。
御利益をいただいた後、彼女は御法さまに助けていただいたことを忘れず、御講には必ずお参りし、ご奉公を欠かさなりました。

しかし、このナンダさん。家の近くに大きな川があり、その川には橋が架かっていません。つまり、毎回お参詣する時には、川に入り、川を渡って来なければ、お参詣することが出来ないのです。あまりにもすごいお話で、聞いた直後はピンと来ませんでした。

日本では、橋の架かっていない場所に住んでいる方は滅多にいません。その不便さを乗り越えて、お参りとご奉公を続けておられる。本当に、負けてしまいます。

その光景が思い浮かばなかったので良潤師に写真を送ってもらいました。みんな川に入ってお助行に伺っていました。

御教歌
そろそろと改良せんといふものゝ
死んで参詣すると思ふか

今年も終わりが近づいています。さて精一杯生きられたでしょうか。今こそ精一杯を取り戻しましょう。

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