今月の戸塚教区の御講席は、白川さんのお宅でした。
約2年9ヶ月前、2011年3月11日の、あの時、私はこの白川さんのお宅におりました。
三席目の14時から始まった教区御講で、ちょうどお看経の終わる45分過ぎのことでした。
お看経の次は日月の御文の言上となりますから、妙講一座のそのページを開いていました。
高層階にある白川さんのお宅は、本当に、激しい揺れに襲われました。
突き上げるような、身体が横に飛ぶような、そんな揺れが続きました。
御戒壇が倒れそうになり、立ち上がって押さえました。
ご宝前のお道具が落ちそうで、お下ろししました。
小さな吊り灯籠が揺れて、ガッチャンガッチャンと激しく両脇にぶつかっていました。
ふと、窓の外を見たのを、鮮明に覚えています。
身体を、縦に、横に、揺さぶられながら、この空の下で、同じようにこの大地震に遭っている方々がいるんだ、と思っていました。
恐ろしさ、何ともいえない、大自然の巨大さ、自分たちの無力さを、感じました。
今月、あの時からすれば初めて白川さんのお宅に入り、あの日のことを鮮明に思い出しました。
ご宝前。吊り灯籠が付けた傷。
妙講一座の、日月の御文についた、焼け跡。
あの時、お線香が倒れて、開いていた日月の御文のページに、焦げ跡を付けました。
あの日のことを忘れないように、ずっと同じ妙講一座を使わせていただいています。
御講の度に、日月の御文をお唱えするたびに、あの日のことを思い出します。
そして、白川さんのお宅の窓から見た景色。
何とも言えない気持ちでした。
御法さまは、本当にありがたく、時に恐ろしくもあります。
あの時のことを振り返りながら御講を勤め、御法門をさせていただいていた途中、大きく部屋が揺れたのです。
まさか。
そう、何と千葉県で震度4の地震。あの時と同じように、高層階にある白川さんのお宅がグラグラ、グラグラと揺れました。
背中に戦慄が走りました。
長く揺れました。
久しぶりに強く揺れました。
あの日の記憶が、恐怖が、ドバッと胸に浮かんできました。
仏教に偶然はない。必然。
この日、この場所、このタイミングで、見せるどころか、体験させていただけたということ。
2011年3月11日を、忘れるなと、倫理でも、道徳でもなく、観念でも、教義でもなく、体験で、現証で、教えてくださるから、有難いと思うのです。本物だと思うのです。
時が過ぎれば、忘れてしまうものです。
それが、正常性バイアスなのか、ゲシュタルト効果なのか分かりません。
しかし、多くの人が、時が経つにつれて、自分に都合よく、書き換え、置き換え、それで納得してしまう。
いいことは自分の手柄、悪いことは人のせいでは哀しいし、空しい。
「自然を恨む気持ちにはなれない」
そう教えてくれた人たちが、たくさんいました。
それでも、人は、人を恨んで、憎んで、また分裂し、中傷し、感謝すら忘れてしまう。
あの時、あの頃の気持ちを忘れて、次はないと思う。
それを、実体験させてくれた、ありがたい、あり得ない、白川さんのお宅の教区御講でした。
約2年9ヶ月前、2011年3月11日の、あの時、私はこの白川さんのお宅におりました。
三席目の14時から始まった教区御講で、ちょうどお看経の終わる45分過ぎのことでした。
お看経の次は日月の御文の言上となりますから、妙講一座のそのページを開いていました。
高層階にある白川さんのお宅は、本当に、激しい揺れに襲われました。
突き上げるような、身体が横に飛ぶような、そんな揺れが続きました。
御戒壇が倒れそうになり、立ち上がって押さえました。
ご宝前のお道具が落ちそうで、お下ろししました。
小さな吊り灯籠が揺れて、ガッチャンガッチャンと激しく両脇にぶつかっていました。
ふと、窓の外を見たのを、鮮明に覚えています。
身体を、縦に、横に、揺さぶられながら、この空の下で、同じようにこの大地震に遭っている方々がいるんだ、と思っていました。
恐ろしさ、何ともいえない、大自然の巨大さ、自分たちの無力さを、感じました。
今月、あの時からすれば初めて白川さんのお宅に入り、あの日のことを鮮明に思い出しました。
ご宝前。吊り灯籠が付けた傷。
妙講一座の、日月の御文についた、焼け跡。
あの時、お線香が倒れて、開いていた日月の御文のページに、焦げ跡を付けました。
あの日のことを忘れないように、ずっと同じ妙講一座を使わせていただいています。
御講の度に、日月の御文をお唱えするたびに、あの日のことを思い出します。
そして、白川さんのお宅の窓から見た景色。
何とも言えない気持ちでした。
御法さまは、本当にありがたく、時に恐ろしくもあります。
あの時のことを振り返りながら御講を勤め、御法門をさせていただいていた途中、大きく部屋が揺れたのです。
まさか。
そう、何と千葉県で震度4の地震。あの時と同じように、高層階にある白川さんのお宅がグラグラ、グラグラと揺れました。
背中に戦慄が走りました。
長く揺れました。
久しぶりに強く揺れました。
あの日の記憶が、恐怖が、ドバッと胸に浮かんできました。
仏教に偶然はない。必然。
この日、この場所、このタイミングで、見せるどころか、体験させていただけたということ。
2011年3月11日を、忘れるなと、倫理でも、道徳でもなく、観念でも、教義でもなく、体験で、現証で、教えてくださるから、有難いと思うのです。本物だと思うのです。
時が過ぎれば、忘れてしまうものです。
それが、正常性バイアスなのか、ゲシュタルト効果なのか分かりません。
しかし、多くの人が、時が経つにつれて、自分に都合よく、書き換え、置き換え、それで納得してしまう。
いいことは自分の手柄、悪いことは人のせいでは哀しいし、空しい。
「自然を恨む気持ちにはなれない」
そう教えてくれた人たちが、たくさんいました。
それでも、人は、人を恨んで、憎んで、また分裂し、中傷し、感謝すら忘れてしまう。
あの時、あの頃の気持ちを忘れて、次はないと思う。
それを、実体験させてくれた、ありがたい、あり得ない、白川さんのお宅の教区御講でした。
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