坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
この言葉を裏返すと、坊さんの素行の悪さで、本来は罪のない、むしろ尊い袈裟が被害を被ってる、憎まれて、恨まれてしまっている、ということです。
この言葉は、とっても正しい。
真理ー。
そのとおり。
そういうものです。
坊主の悪さが、袈裟、つまり仏さまに及んでしまうんです。
こわいことです。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
いい言葉だ。
今朝は、本堂で教務のお懺悔の言上がありました。
妙深寺の本堂。
朝参詣の場で、教務さんのお懺悔です。
大変なことですが、佛立ですから、ありがたいことでした。
「懺悔は起信のスガタなり。」
「懺悔は人を教化するの功徳あり。」
出来ていないのに、出来ていると思い込んでいると、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になってしまいます。
残念ながら、お敬い、お給仕をいただく立場だからこそ、構造的に、教務が勘違いしやすい。
師弟、教務同士、ご信心で厳しく磨き合わないと、自分の器の小ささで、御法さまを小さな器にしまい込んでいることがあるはずですし、自分の習い損じや勘違いで、御法さまに傷をつけていることがあるはずです。
慢心は、本当に怖い。
開導聖人の凄さは、「蓮隆両祖の御本意を継ぐのは自分しかいない」という強烈な使命感と同時に、「何も知らぬ真の俗物」という客観性が、高度な位置でバランスを保っていることだと思います。
酔ってない。
すてき。
酔うのは簡単だけど、周りに迷惑だし、みっともないし、本人も酔いがさめれば後悔する。
ひどく酔ったら、二日酔いもひどうだろうし。
だから、素晴らしい御法にお出値いした教務であっても、酔っ払ってはダメということ。
さめてるだけでも、ダメだけど。
小さな殻に閉じこもっている者は、信心という酒を飲め、飲め、とも教えていただく。
これも、バランス。
しっかりと、今を、師に、見極めていただいて、懺悔改良、一途に乗り越えて。
開導聖人が、やっぱりお手本です。
素直に、正直に。
教務であっても、しっかりとお懺悔させていただけば、逆に、御法を守り、お袈裟を守ることにもなります。
お懺悔する教務であれば、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとは言わせないし、言われませんね。
ありがたいです。
誰でも、失敗はします。
師弟共に凡夫。
迷うこともある。
でも、この御教歌。
「わろければ早くあらためつくろはず 唯信心にしくものはなし」
「つくろう(繕う)」とは「失敗などがわからないようにうわべをととのえる。」ということだから、きっと開導聖人が大っ嫌いな、佛立らしからぬ行為。
悪かったら、失敗したら、ミスに気づいたら、かっこつけないで、速やかにあらためたらいい。
それだけ。
本当に、間違いに気づかせていただける、ご信心はありがたい。
そう思います。
酔ってるかどうか、間違ってるかどうか、気づけないのが、一番かっこ悪いし、もったいないし、迷惑なのだから。
「真の改良懺悔と云ふは、心の中塵芥を残さず、恥ケ敷をも発露するを云ふ也」13ー318
「懺悔あれども懺悔せずにすみ行くものは、真の信は起らぬ人也。」13ー211
「懺悔の心起る時に、己れが我は破れたり。」13ー220
「懺悔の心起る時には我なし。我を捨てる時に信起る。信起る時、御利益を頂く。御利益を頂いて弥よ信を生ず。懺悔の心起る時最初也。」13ー220
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