情の大切さ、情実の虚しさ
先日、とんぼ返りで京都に行き、会議に出席しました。
大切な時間、膨大な交通費をかけて開催されている会議でしたが、何ら具体的で前向きな内容もなく、終始結論の出ない、調整役のいない、後ろ向きで投げやりな感じがして、とっても虚しくなりました。
「情実」という言葉は、「個人的な感情などがからまって,公正を欠いた事情や関係。」という意味があります。
日本一の弘通家と呼ばれた佛立第八世講有日歓上人は「情実をはさむな。ご弘通が止まる」とお戒めでした。
本来、情実という言葉にも、「いつわりのない心。まごころ」という意味が備わっていたといいます。
しかし、いつの間にか、事実、真実、実情はともかく、親しければえこひいき、嫌いであれば良くても反対、というような人間の性が出て、悪い意味になってしまったのです。
こうして、何より大切な「お友だち」という言葉も、こう呼ぶとどこか皮肉めいて聞こえるものです。
先住は、特にこの「情実」を嫌っておられました。
「情」は大事。
先住は情の深い人でした。しかし「情実」は大嫌いな方でした。そのことを、子どもの頃から、いつも教えてくださっていました。
水谷日尚上人がご講有に推戴されて本山に上がられる時、本山宥清寺の執事長としてご奉公することとなりました。
ご出立前、大本寺乗泉寺で催された祝賀会で挨拶することになり、マイクの前に立って、いきなり、「私は水谷御導師は嫌いです。しかし、本山ご住職になられる限りは執事長として命に代えてお給仕申し上げます。」と言ったと聞かされていました。
スピーチの後、「イヤな役目をさせて悪いな」と何人かの方が言って来られたということですが、本当に、いろいろと感じますし、学ばせていただけること、考えることがあります。
ご奉公が「公に奉る」ということである以上、個々人の好き嫌いで何事かをするのでは御法の御心にかなうはずもありません。
好き嫌いなんて、言い出したら切りがない。
もちろん、誰でも好き嫌いはあると思いますが、そこにいたらダメなのです。
ご弘通が止まる。
ご奉公でなくなる。
好き嫌いではなく、派閥でもなく、御法さまのご本意、ご弘通の行く末、自己を排してゆくところに、本当のご奉公があります。
ご奉公のために私財を投じて、それで当たり前、有難いと思うのがご信心です。
浄財であるのに、さも自分のお金を渡しているような顔をするのは話にもなりません。
ご奉公はご奉公、情実ではなく真実で、私心なく異体同心の実をあげてゆかなければならないと思います。
大切なのは、御法さまのお手伝いをしているという感覚であり、何よりも「本門佛立宗」という誇り高き設定、使命の中で物事を捉えてゆくことではないでしょうか。
大好きな方、憧れている方、親しい方、尊敬している方でも、大切なことはご奉公のあり方ですから、それぞれご宝前からいただいた役割や責任の中で、情実を廃して、退けて、ご弘通発展を目指す。
そうでなければ、虚しいと思います。
人を思いやる情は大切。
しかし、情実は虚しいもの。
この前の会議で、久しぶりに本当に疲れてしまって、日歓上人のご遺訓や、先住のことや、情と情実のことを考えていました。
これからも、嫌われてもいいから、しっかりと職責、ご宝前からいただいた役職だけは果たしてゆきたいです。
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