2007年12月14日金曜日

改めまして 『Moment』

 動作がうまくいかなかった田口くんの作品。再アップしてくれたので、改めて紹介する。「世紀のダ・ビンチを探せ!国際アートトリエンナーレ2007」のグランプリ作品。ありがたーい。

 『Moment』


行弘くんからのメール

 まだ京都。今回の京都は天気がすぐれない。今朝もどんよりと曇っていて、雨がパラパラと落ちてきている。麩屋町から北野に向かう車のフロントガラスに冷たい雨の粒。

 冬の京都は冷え込む。身体の芯まで冷えるような寒さがある。まだ、冬は本番を迎えてはいない。今日などは温かい方だろう。お正月を迎えて、1月から2月になると、信じられないほど寒くなる。そんな京都の冬は、つくづく春が待ち遠しくなる。

 京都から田口くんについて第二回目のブログをアップした。今朝、メールをチェックしたら本人からメールが来ていた。ありがたい。それを紹介したいと思う。

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清潤御導師、

 ありがとうございます。

 日本では短期間の帰国にも関わらず、長松寺を参詣させて頂き、御導師に再会できた事をありがたく思います。

 先日の御導師のブログ、拝見させて頂きました。たくさんお褒めのお言葉を頂きありがとうございます。少々、照れくさいです(笑)。

 しかしながら、今回の受賞は、当然のことながら、決して僕一人の力で頂いたものではありません。それは、もちろん、母、父、家族、友人の支えがあり、いろんな人から頂いた力(知恵)の一つの結果だと確信しております。

 毎月、妙深寺様から送ってくださる寺報には、御導師をはじめとする、御信者様などが書かれた言葉に知恵が多く詰まっております。それも御導師がおっしゃる、「サイン」だと思っています。

 僕はそれを美術の世界で実行、行動に移したまでに過ぎません。ちなみに、御導師がイタリアで色々と話してくださった中で「負を取れ」という話が分かりやすく非常に印象深く、それを実行させて頂く為に、御宝前にお願いさせて頂いております。

 その他、もちろん、様々な方々の助言や出会いで、今の僕に至ると考えております。

 そういう思いから、今回、受賞で頂いた賞金を僕を育ててくれている縁のあるお寺(本成寺、遠妙寺、妙深寺)に御有志させて頂きました。
 こんな時しか、まともに御有志させて頂けないということがまだまだ未熟ではありますが・・・

 また、今回の受賞は勿論、ありがたい事ですが、一つのステップだと思っております。跳び箱で言うならば、踏み台のようなものだと思います。
 これから、もっとデカイ跳び箱を跳ぶために、御信心を絶やさず、精進させますので今後もよろしく御願いいたします。

 妙深寺の御教務様、毎月かかさず寺報を送ってくださる事務の方、御信者様によろしくと御伝えください。

 ありがとうございます。

 合掌、

 行弘拝、

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 う~ん、立派なメールを書くようになった(涙)。ありがたい(涙)。

 そして、続いて彼から追伸メールが来た。田口くんがインタビューを受けた内容が掲載されている。彼の制作スタンスが分かると思うので、是非読んでいただきたい。すごい。

 東京アートビートに紹介された「関係の発生」を、ここに紹介する。

2007年12月13日木曜日

アッシジでの水彩画

 アッシジは、チベットのポタラ宮を思わせるような岩山にそびえ立つ大聖堂。ここは、聖フランチェスコの生まれた街。彼はシエナのカタリナと共に、イタリアの守護聖人になっている。

 アッシジや聖フランチェスコを知らない人でも、アメリカの「サンフランシスコ」という都市の名前は知っているだろう。名曲「慕情」の舞台にもなっているアメリカ西海岸の「サンフランシスコ」もブラジルの「サンフランシスコ川」も、彼の名前にちなんでいる。マザー・テレサも彼の生涯を知って修道女になることを決めたといわれるし、それほどキリスト教世界、カトリックでは有名なのが、このアッシジ出身の聖フランチェスコだ。

 キリスト者ではない仏教徒の私から「フランチェスコ」を見ると、彼は所謂それまでの「カトリック」を否定し、カトリックの教義に大転換を迫った存在であったと思う。厳格な教義の解釈よりも霊的な啓示によって多くを感じ指導する「密教的」な側面を強く持ち、人々の生活から乖離した教会とキリスト教を復興させようとした。当時のカトリック教会は保守的で、多くの信仰復活運動を弾圧したが、ローマは当時からアッシジのフランチェスコ派を利用して再生を目指していくことになった。

 それにしても、キリスト教の教会、特にアッシジはおっそろしい教会だった。もう、その教会の内部は表現しかねるほど重たい空気だった。フランチェスコの遺体は今でも教会の下部に埋葬された棺の中にある。その棺は階段を下りて来た者は見ることが出来る。私たちの団体では数人の女性の気分が悪くなり、教会内部に入ることは出来なかった。本当に恐ろしいほど重たい空気だった。

 聖堂の内部にはジョットによるフランチェスコの生涯を描いたフレスコ画がある。1997年9月26日に発生したウンブリア・マルケ地震でフレスコ画と丸天井が崩落して大事故となり、数名が死亡した。それだけでも恐ろしい。「世界の衝撃映像」などのテレビ番組で、この丸天井崩落の衝撃的な映像を見た方もいると思う。現在は、極めて精力的な修復工事によってほぼ元通りになった。

 重たい空気の教会内部とは裏腹に、6月のアッシジの空は澄み渡っていた。教会の中を柔らかい光が包んでいて、鳩が日だまりの中を歩いていた。田口くんは、この場所でもたくさんのデッサンを描いてくれていた。

 全く上手に描いてくれている。穏やかな田園地帯の空気まで表現してくれているように思う。ありがたい。天才や。

 実は、私だけこのアッシジに庭を見て、一人だけ思うところがあった。2002年1月24日、バチカンのヨハネ・パウロ二世の呼びかけで「世界宗教者による平和の祈りの集い」が、このアッシジで開催された。聖堂前の庭にはその時の植樹が残されていた。

 私は、この「世界宗教者による平和の祈りの集い」のニュース映像を見て、一人イスラエルに行くことを決意した。平和に対する願いがあるのは分かる。人類の希求するところだ。誰もが平和を望み、戦争や紛争を嫌う。しかし、戦争や紛争は後を絶たない。だから、異なる宗教が対話を重ねていくことは大切だと思う。しかし、あの時、ニューヨークでの同時多発テロ、アフガン侵攻、イラク戦争の流れの中で、アッシジに集う聖職者たちを見ていて、何故か強い嫌悪を覚えたのだ。「呑気なもんだ」と思えて仕方がなかった。

 同じ聖書をルーツとしているユダヤ教、キリスト教、イスラム教と全く異なる視点を「仏教」が提示しなければならない。単純に、「手を取り合いましょう」ではなく、真実の仏教・本門佛立宗の私たちは、それを提示する使命がある、そう思っていた。そして、聖書を手にエルサレムに行き、ユダヤ・キリスト・イスラムの聖地を訪ねながら、仏教の使命に思いを馳せた。

 アッシジのフランチェスコが評価されるのは、「キリスト教」という枠を飛び越えた普遍性を持っていたからだと言われている。つまり、そこが「キリスト教を越えた」「キリスト教を変革させた」と言われる所以である。そう考えれば考えるほど、仏教の「普遍性」を彼らに提示したいと思う。彼らが飛び越えたくて飛び越えられなかった壁を、キリスト教というドグマを外すことによって得られる法華経の普遍的な世界を提示したいと思ったのだった。

 2009年、海外弘通は新たな局面を迎えるだろう。

ダ・ヴィンチのデッサン

 「世紀のダ・ビンチを探せ!国際アートトリエンナーレ2007」でグランプリを取った田口くん。彼と共に廻った2005年6月のイタリア。フィレンツェで合流し、ローマまで一緒に移動して過ごした。

 この田口くんの快挙を妙深寺のご信者さんにご披露したところ、大変な反応があった。イタリアに行った人たちは彼のことをずっと覚えていたらしい。

 そう、前回は書いていないが、ローマのカンツォーネ・ディナーの時、オランダから来た他のテーブルの観光客の方々がダンスをしはじめて、私たちも川上さんご夫妻を筆頭にダンスを披露してくれた。

 その時、田口くんも一肌脱いで「剣舞」のような独演をみんなに披露してくれたのだった。拍手喝采だった。それにしても、この時の田口くんがとても「貧しそう(笑)」だったので、ダンスの後に田口くんの被っていた「麦わら帽子」を回して、みんなが帽子の中に「チップ」を入れてくれた。このエピソードを私は忘れていたのだが、12月の御講で田口くんの話を聞き、瓜生さんが感激して教えてくれた。「彼の踊りが素晴らしくて、そのチップを集めて彼に渡したんですよねー」って。そんなことまでしてたんだなぁ。彼は幸せ者。そんな彼がグランプリを獲ったなんて、みんなにとっても大変な喜びであり、驚きなのだ。

 今回、このブログで大切にしていた田口くんのデッサンを載せちゃおうと思う。本当に素敵だ。彼がTシャツに短パン、麦わら帽子にリュックサックという姿で現れた時は「なんじゃー?」と思ったが、食事代として書かせた絵を見てうなった。本当に素晴らしい。ぜひ、見てもらいたい。ダウンロードして壁に掛けていただいても良い。いや~、価値があると思うなぁ~。

 最初の絵はフィレンツェの中心、アルノ川に掛かるポンテ・ヴェッキオ(ヴェッキオ橋)である。水彩画で色をつけてくれた。本当に素敵な画。僕はこの画が大好きだ。右側の絵は、まさに鉛筆によるデッサン。フィレンツェの街角から見えるサンタ・マリア・デル・フィオーレ寺院である。この大聖堂は140年をかけて建設された。フィレンツェの代表的な建築物であり、中世のキリスト教勢力の強大さを痛感させられる。天井画の地獄図は「恋人たちのドゥオモ」には似つかわない恐ろしいものだが、それでもフィレンツェに君臨する中心的存在になっている。フィレンツェでは、どの街角からもこの大きな円屋根が見える。

 それにしても、140年かけて寺院を造るというのは素晴らしいことではないか。東大寺の大仏の鋳造と大仏殿の建設の期間は、大仏造立の詔が発せられた743年から竣工の758年までなので約15年。スケールが違う。もう、ある意味で君主制や強固な封建制でもない時代には、そんな大寺院建立という大事業は不可能だと思うが、こういう長い時間をかけるという考え方は勉強になるなぁ。

 いつも考えているのだが、私の住職の代では、どんなに老朽化が進んでも、出来る限り昭和47年に建立された現在の妙深寺本堂でご弘通させていただきたい。手狭になっても、それも喜んで使わせていただけるだけ使わせていただきたい。新本堂の建立という大事業は、私が住職をしている時ではなく、次のご住職にしていただきたいと思う。それまでは、とにかく一人でも多くの人にご信心をお伝えし、支え、ご信心の喜びを感得していただきたい。

 そして、次のご住職とその時代のご信者さんには「千年本堂」を建立してもらいたいなぁ。私は一人でイスラエルを旅したが、彼の地にも1000年以上の歴史を経て、なお人々の尊崇する寺院がある。ローマやフィレンツェでもそうだ。多機能な建造物であると無理かも知れないが、せっかく建立したのに数10年で立て直しを迫られるようでは哀しい。シンプルでも、1000年以上護持させていただけるような本堂を三ツ沢の丘に建立してはどうかと思う。最初に御有志される方々は、結局完成した本堂を見ることは出来ないのだが、100年かけて建設しても1000年以上信仰の中心地になると考えれば本望ではないか。

 彼が書いてくれたデッサンの総数は、10点にも上る。私は鉛筆の濃淡だけで書いてくれたデッサン画を本当に気に入っている。フィレンツェの街は非常に入り組んだ路地が張り巡らされている。石畳、そして両側の家々、路地の上に見える空、、、、。それを鉛筆の濃淡で表現してくれている。

 凡庸な私たちからすると突拍子もないパフォーマンスをする彼だが、さすがは芸術家としての基本を習得しているということだ。これほどセンスがよく、綺麗に、デッサンが描けるのだから。

 今年の2月、フィレンツェのご奉公にひろし君が合流した。親会場でご奉公させていただいた次の日の朝、2人でジョギングをした。フィレンツェの町中を抜けてパラッツォ・ヴェッキオ、ウフィツィ美術館の中央をダ・ヴィンチやラファエロ、ミケランジェロの銅像に見下ろされながらアルノ川沿いに出てポンテ・ヴェッキオへ。橋を渡ったら少しだけ左に折れて坂を上った。坂の両側は大きなお屋敷が続く。高い塀に囲まれた坂道を駆け上がると、トスカーナの丘の上に出る。旧市街の塀を見ることも出来る。気持ちの良い風に吹かれて、気持ちの良い朝だった。

 ここに挙げたデッサンを見ていただいても、彼の素晴らしいセンスが分かるのではないだろうか。このオリジナルを持っているのだから、将来がたのしみ~。もし彼がピカソやダ・ヴィンチのような偉大な芸術家の卵だとしたら、このデッサンの価値は大変なものだ。それこそ、「千年本堂」の資金になるなぁ(笑)。

 次には、フィレンツェを南下して、彼がアッシジで描いたデッサン、水彩画を紹介しようと思う。アッシジは聖フランチェスコが生まれ育った街であり、サン・フランチェスコ聖堂がある。私たちはこの街によって、昼食を取り、この聖堂を訪れた。

 この街を訪れるに当たっては、その前後で私からアッシジやカトリックというキリスト教、聖フランチェスコについて説明した。その上で、私たちがこれを見て、どのようにキリスト教を捉え、ご弘通を考えていくかをお話しさせていただいた。

2007年12月11日火曜日

世紀のダ・ビンチを探せ!

 こんなに嬉しいことは無い。こんなことがあるんだ。すごい、すごいことだなぁ。

 満を持して書かせてもらおう。
 12月4日18時。何が嬉しかったって、田口行弘くんがベルリンからわざわざ京都・麩屋町の長松寺までお参詣してくれた。しかも、完全なる凱旋帰国!もう、嬉しくて嬉しくて、感激した。

 もはや、世界的な芸術家となった田口くんのことを書くのは少々気が引ける。しかし、書かずにはいられないので、一気に書いてしまおうと思う。彼と出会ったのは何年前だっただろう、3年近く前だろうか。お母さんからのご紹介で連絡を取り、お会いしたのが最初だった。

 私は毎月2度ほど京都・長松寺でご奉公させていただく。通常は4日と16日、7月の祇園祭と8月の大文字の時だけが混雑するために15日になっているが、ほとんど欠かさずに京都に帰って18時からの御総講のご奉公に当たる。

 この3年間ほど、大阪から足繁くお参詣してくださるご婦人。優しい笑顔の田口さん。毎月二回、大阪から京都までお参詣に通い続けてくださっている。並大抵のことではない。本当に有難い。

 その田口さんから息子さんを紹介していただいた。いや、「いただいた」というよりも、ご苦労を重ねてきた田口さんが東京で芸術を志して生活している息子さんに、何とか立派になってもらいたい、ご信心も相続してもらいたい、という思いだったと思う。たぶん、長松寺だと思ったが、私は初めて彼に出逢った。行弘くん、東京芸大に通う芸術家の卵だ。

 私は、ご苦労を重ねて行弘君を育ててきたお母さまを見ていたので、芸術家を志すといっても、さぞお母さんにとってはその生き方が不安であろうと感じていた。いつになったらお母さんを支えられるか。そういう息子になれるか。芸術家を目指す者などごまんといる。いくら感性が豊かで、アートやクリエイティブなことが好きでも、そんな若者は数え切れないほどいる。そして、女手一つで行弘君を育ててきたお母さん。うーん、と考えていた。

 だから、最初に会った日、私は彼にお話しした。とにかく、左側の脳で芸術なんてできないのが良く知っているだろう、もっともっと根っこの、右の脳、もっと言ったら心の奥の奥から湧いてくるインスピレーションの世界だ。だからこそ、信心をしっかりして、御題目をお唱えしてくれ、その部分を磨いてくれ、と言った。それが最初の出会いだったと思う。

 それから、メールを交換したりするようになって、彼はベルリンに旅立った。またまたお母さんを不安にするように、彼はドイツのベルリンで生活することにしたのだ。私は、とにかく彼を送り出すことが心配で、朝夕のお看経の時に、「弘通の器となさしめ給え」と言上し、ご祈願するように勧めた。自己満足の芸術家になるのではなく、何とか「人を救えるような芸術家」になってもらいたい、と。そういう思いを持ってくれたら、御法さまがもっともっと行弘君を応援してくれるのではないか、と思ったのだ。

 彼がベルリンに住むようになって、吏絵ちゃんの白血病のご祈願も始まった。私は彼にご祈願してくれるようにお願いをし、彼もベルリンでご祈願してくださるようになった。彼はしっかりとベルリンからご祈願してくれていたと思う。懐中御本尊の御不敬、そして新しい懐中御本尊の拝受など、いろいろなこともあった。大学時代に所属し、ご指導をいただいていた遠妙寺の御導師にお願いして御染筆いただいた懐中御本尊をベルリンで護持して、お看経してくれていたと思う。

 しかし、うだつの上がらない貧乏芸術家。サラエボなどの紛争地域に出掛けて、先鋭的な芸術家の仲間たちと何か活動していることを彼のブログで見たり、ベルリンの街中をビニール袋をかぶって歩いたり。こっちの感覚ではよく分からない「芸術(?)」に戸惑ったりしていたが、それでも彼からのメールに喜んだりしていた。ヨーロッパで活動している間にいただいた御利益などを報告してくれたり。

 2005年6月、フィレンツェに行った際には、ベルリンから駆けつけた。「駆けつけた」と言っても泊まる場所も決めていないし、どうやって行動するかも決めておらず、ただ「合流」。団参の行く先々に彼を連れて行くことにした。もちろん、食事も1セット追加。

 フィレンツェからローマまで連れて行って、最後はカンツォーネのディナーまで一緒にした。裸足でサンダル、麦わら帽子というスタイル。まぁ、変わった奴だったから、妙深寺のご信者さんもビックリしてた。でも、愛されるキャラで、みんなの人気者になっていた。(左の写真は、カンツォーネを歌ってくれるレストランだが、右側でピンク色のTシャツを着ているのが行弘君である)

 その「うだつのあがらない」「貧乏」芸術家の行弘君。お金が無くて日本に帰ってくれないはずだったが、11月末から凱旋帰国。そして、12月4日に長松寺にお参詣してくれた。それは、何と「世紀のダ・ビンチを探せ!国際アートトリエンナーレ2007」というコンクールがあって、その授賞式に出席するとのことだった。しかも、渡航費は主催者が出してくれたって。な、な、なんと、行弘君は、この「世紀のダ・ビンチを探せ!」というコンクールの最高賞であるグランプリを受賞したのであった!

 どんだけー!である。もう、信じられなかった。感激した。これまでのことを思い出したし、何よりお母さんの顔、嬉しそうな顔、もう最高だった。

 このコンクール、大阪芸術大学が主催しているのだが、名前がスゴイ。「ダ・ヴィンチを探せ!」って。レオナルド・ダ・ヴィンチは知っての通りルネッサンスの巨匠で、絵画から彫刻、建築や自然科学、音楽にまで通じた大天才。 「万能の人」「普遍人」とも呼ばれている。(私としては、ダ・ヴィンチが1年だけ仕えたチェザーレ・ボルジア、その父の法王アレッサンドロ6世、彼らと交渉したフィレンツェの役人・マキアヴェッリ、アレッサンドロ6世と対峙した説教師サボナローラ等々、『ダ・ヴィンチ』を聞いただけで興奮してしまう)

 その題名の通り、この「世紀のダ・ヴィンチを探せ!」という企画は、世界規模で作品を公募し、「世紀のダ・ヴィンチを探そう」とする国際アートトリエンナーレとのこと。志が大きい。すごい。ホームページを見てみると、『表現とメディアが急激に変化し、 様々な表現領域が複雑に交差する中で、今世紀の芸術はどこへいくのでしょうか。伝統と革新の対立と融合、地域間の葛藤と共生、そうした問題をあたらしい表現活動はどのように解決し、再生していくのでしょうか。この公募展を契機に、この会場、大阪から新しい世紀の「ルネッサンス」が期待されます。 「世紀のダ・ヴィンチ」、 それはあなたです』と書いてある。

 おいおい、その『ダ・ヴィンチ』のグランプリに行弘君が選ばれたなんて。いや、選んでくださったなんて。すっごーい。すっごーい。すっごーい。

 もうね、感激で泣けますわ。しかも、長松寺で行弘君、僕に封筒を出した。「なんやこれ?」とお預かりすると、「海外弘通御有志 行弘」って。もう、どんだけー!や。余りにもひもじそうでお小遣いを渡したこともあったし、フィレンツェではあれだけ食わして、「こりゃ、永遠に返ってこんな」と思っていたのに、まさかこんなに早く(涙)。しかも、この封筒、分厚い。「おう、おい、これ500円札か?」って思わず冗談でまぎらわした。ありがたい。ありがたいではないか。

 人は成長する。どんな時でも、御法さまを信じて、自分の道を歩んで努力すれば、「冬は必ず春となる」だ。いつも目先のことばっかりを見て、それで人を判断していると何も得られない。受け入れて、信じて、待って、祈って、願っていると、こういう日が来るんだなぁと思って。嬉しい、嬉しいなぁ。

 もう、「世界のタグチ」になっちゃった。NHKにも取材されて、お昼前にテレビに出てた。新聞にも紹介されていたし、これからが勝負ではあるけれど、彼のキャリアの一つとして輝くだろう。

 世界的に活躍しているYukihiro Taguchiの公式ブログサイト「dirmission」は英語のみになっているが、日本語のブログ「spazieren」もあるので紹介しておく。応援してあげてもらいたい。

 最後に、今回受賞した作品がYou Tubeに出ているので、ここに貼り付けようと思う。私は、最高に、素晴らしい作品だと思う。今まで彼の作品は、何をどう見てもさっぱりわからなかったが、今回の作品は本当に見れば見るほど色々なことを考えさせられた。「時間」と「空間」、「人」「場」「縁」「刹那」、、、、、。


 それと、もう一つ。ウッシッシということを。(ちょっと今、上の作品が見れないようだ。12秒くらいで映像が止まってしまう。残念)

 実は、イタリアで一緒に過ごしていた時、「おい、お前さ、タダでご飯とか食べてるんだから、フィレンツェの街とかをデッサンしてよ。それをもらって帰るから」と言った。彼は真面目だから、フィレンツェの街並を「さすが東京芸大!」と思わずうなるくらい素敵な鉛筆によるデッサンを何枚か描いてくれたのだ。

 僕は、それを持っているのである。ヘヘヘ。彼がこのままホンマに「ダ・ヴィンチ」になってくれたら、このデッサンは高く売れるやろ~な~(笑)。これで本堂建てられるかな(笑)。ピカソでも、駆け出しの頃の作品でも高く売れるもんなぁ~(笑)。

 いやいや、まだまだ。これからが芸術家としての本番。このコンクールなんて、本人も言っているし、彼のブログにもあるが、一つの通過点にしか過ぎない。彼の中では、本当に大した意味を持っていないのかもしれない。もっと大きなものを見ている。

 そう、それでいい。「弘通の器」になることが大事。最高に大きな「夢」を持って、それに向かって頑張ってもらいたい。お母さん孝行も忘れずに。ベルリンに行っている間は、月に二回、僕がお母さんに会って元気づけようと思う。心配するな。

 だから、頑張れよ。Keep chanting!!

2007年12月10日月曜日

はやて君、和長さん、

 週末の日曜日、朝から新幹線に乗って長野に向かった。日曜日の東京駅は各地からの観光客でごった返していた。

 お寺を出て約3時間で長野駅のホーム。早い!今日は平成19年度を締めくくる御講席。石田さんのお宅にはたくさんのご信者さんがお参詣くださっていた。そのお参詣者の中に、この数ヶ月、ずっと御祈願させていただいてきたご家族がいた。

 生後11ヶ月の岡田はやて君。はやて君は長野でご奉公してくださっている岡田さんの三番目のお孫さん。以前から息子さんやお嫁さん、2人のお孫さんたちとお会いしていた。幸せそうなご家族、立派な息子さん、素直で綺麗なお嫁さん、そして活発な二人のお孫さん。そして、今年の1月、はやて君が誕生。私は7月にはじめてはやて君に会った。

 今年の秋、深恭師からの報告で、そのはやて君が数日間の高熱にうなされ、非常に危険な状態であると知った。入院、検査。そして、御祈願がはじまった。40度の高熱が続き、両手のひら、両足の裏側まで皮膚がめくれてしまったという。原因不明の病気、ただ血管の病気であると言われた。同時に肝臓にもダメージを受けていて、その数値次第とのこと。

 いつも書いていることだが、私たちは医者でも何でもないし、まして家族でもない。ただ、こうした出来事があった際に、同じご信心をしている者同士で「ご祈願」をさせていただく。祈りの力を信じ、御題目の御力を信じ、必ず、はやて君や看病しているご家族に届き、支えられる、と。

 教区の方々をはじめ、妙深寺の朝のお参詣とお助行でも、すぐさま「はやて君」への御祈願が始まった。これが「菩薩の誓い」をしている妙深寺の連係プレーで、お助行の輪、心のネットワークが困っているご家族をサポートしようと動き出してくれる。

 私も毎朝はやて君の「当病平癒、検査結果良好」の御祈願を続けさせていただいた。本当にご家族の献身的な看病と、もちろん岡田さんのお祖父さんはじめ、みんなのお助行と御祈願によって、お医者さまが言っておられたことよりも早く退院、そして元気に御講席にお参詣してくれた。ありがたい。

 そして、何よりも有難いことは、この「はやて君」の突然の病気を通じて、家族がもっともっと一つになり、二人の兄弟もお母さんをサポートしようと賢くなり、もっと言えば、ご信心にも御法さまにもご両親の心が向いたということだ。そう考えれば、「はやて君」は、ご家族にとっての「菩薩」なのである。見方を変えれば、ご家族のために身を挺して何かを教えてくれたことになる。私たちはそう受け取るのである。

 だから、「病は成仏の仲人」という教えがある。「菩薩の病は大悲より起こる」とも「衆生病む故に菩薩また病む」と教えていただくのである。

 それにしても、苦しかったのは「はやて君」だ。小さな身体で治療や検査によく耐えた。お注射や点滴をする時に、どうしてもお医者さんたちがはやて君を押さえる。赤ちゃんにとっては身体を抑え込まれるなんて、大変な苦痛だ。それ以来、ちょっと対人恐怖症のようになってしまったと奥さんが言っておられた。

 しかし、この日は素晴らしい笑顔でだっこさせてくれた。元気も元気、何でも食べる。原因不明といわれた病気は、おそらく「川崎病」であるとのころ。確かに川崎病の原因は特定されていない。感染性の病とも言われている。しかし、いずれにしても、川崎病であったら、妙深寺の執事長の次女、私の幼なじみでもあるはるのちゃんも川崎病と言われた。はるのちゃんは、川崎病であったことなど微塵も分からない。完治して、現在は元気はつらつの2人の子どものお母さんになっている。全く問題ない。当然だが、はやて君も必ず御利益をいただける。ありがたい。御講席の最後には、「お父さんは女の子が欲しいでしょうね。じゃぁ、4人目に挑戦だー」と笑って話をしていたほど。有難いことだ。本当に、ご信心を教えてくださるための出来事であったようにも思える。

 そして、私はそのまま長野から深恭師の車で40分ほど走り、和長さんのお宅にお助行に行かせていただいた。和長さんは、8月~9月にかけて検査を受け、末期の食道癌と診断された。私は、和長さんの体調の変化を春頃から感じていて、だからその状態を聞いた時には本当に悔しかった。

 駅までお迎えに来てくれた和長さんに、何度も病院に行くことを勧めた。どうしても「咳」が気になっていたのだ。次の時に、御講席後のご供養の際に、むせるようにして立ち上がられた。その時には、本当に病院に精密検査に行ってくれるようにお願いした。和長さんのお仕事は「船乗り」だったのだ。海の男、病院は大嫌いなのだろう。それでも、行ってくれて、そして、病名が分かった。

 本人もよく知っておられるので、ここに書かせていただくが、診断されたステージは「Ⅰ」でも「Ⅱ」でも「Ⅲ」でも「Ⅳ」でもなく、「Ⅳ」の上の「b」であった。ご本人も奥さまの音美さんも愕然としたと思うが、私たちも本当に愕然とした。しかし、その後で、「いや、そんなことでへこたれていても仕方がない」と思い直し、深恭師のお助行もあって、ご家族は全員が前向きに、特に根性の座った和長さんが一番前向きだった。

 9月19日、私は最初の治療を行うために入院していた和長さんをお見舞いした。病院の玄関に音美さんが迎えてくださった。病室のベッドの上に和長さんが座っておられた。病状を説明した紙がベッドの上のテーブルに置かれていて、進行性の癌であることと、ステージについても読ませていただいた。

 「やるしかない」。和長さんは、淡々としておられた。首には放射線治療用のサインがマジックで書かれていた。そう、そこから治療がスタートしたのだ。帰り際、抱き合って、少しだけ泣いた。

 そして、11月。和長さんは元気に御講席にお参詣、そして体験談の発表。てっきり、お助行していた全員がげっそりと痩せて元気のない和長さんを想像していたのだが、元気に、それは見事に、治療の経過報告と、お助行してくださる皆さんへの感謝の言葉、そしてこれからのことを話してくださった。隣で岡田さんが泣いていた。

 その御講席の後でも、和長さんのお宅にお助行に寄せていただいた。また、新しい治療が始まるということだったし、何としてもお宅で御題目をお唱えさせていただきたいと思って。1本のお線香、お看経させていただいて、記念写真をパチリ。何か、一番私が緊張しているようだ。顔がこわばってる。

 12月の御講には和長さんはお参詣出来なかったのだが、日曜日だったのでサプライズお助行。突如現れた僕たちにビックリ。ごめんなさい、和長さん。元気な和長さんは玄関先で灯油を移し替えていたのだが、「ビックリしてこぼしちゃった」と言っておられた。ごめーん、灯油高くなってるのに~(笑)。

 でも、本当に元気そうで有難かった。「髪の毛が薬で抜けてきたー」って言っておられたけど、元気元気。一緒に1本のお看経、元気に出来たもんね。ありがたい。

 そう、この時、お看経を終えて携帯電話を見ると京都からメール。「自分で命を絶ちたいと予告メールが入ったので、大至急連絡下さい」と。なんのことだが分からなかったのだが、和長さんとお話しする間もなく、そのまま電話させていただいた。いま、命を絶とうとしている人の方を優先。もしかすると、一刻一秒を争うかも知れないし。それにしても、癌という恐ろしい病気と闘う人を応援するご奉公もあれば、自分から命を絶ちたいという人を押し止めるご奉公もある。それが同時にあるというのは何とも複雑だ。

 そのお電話が終わると、もう新幹線の時間。全く和長さんとお話しできなかった。この自殺の予告メールの件については淳慧師にご奉公していただいて、完全対応。すぐに、その方の家まで飛んでくれた。ありがたい。すごい、地球防衛軍は。

 そして、玄関先で写真を撮るのを忘れていたので、素敵な和長さんと音美さんご夫婦をパチリと写した。元気そう。帽子、似合うよ、和長さん。

 慌ただしいご奉公で申し訳ない。ブログの更新もままならぬ。

 でも、本当に有難かった。これからもご祈願を続けます。頑張ろうね、和長さん、音美さん。

2007年12月8日土曜日

John Winston Ono Lennon

 今日は彼の祥月命日。そう、1980年12月8日に逝ってしまったJohn Winston Ono Lennonの。

 実は、最近毎年オノ・ヨーコさんが提唱してライブが開催されている。今年は12月8日の命日に開催されることになった。この「Dream Power ジョン・レノンスーパー・ライヴ」は、ジョンが歌った音楽を中心に、ジョンが残したメッセージ、愛と平和のスピリットを受け継ぎ、それを次の世代に伝えていこうとするイベント。コンサートの売上は、アジア、アフリカの子どもたちの学校建設資金になるという。

 そう、このブログでも何度か書いてきたが、私はジョンが大好きだ。といっても、私からするとジョンは何世代も前の人。だから、実は最初彼の音楽に惹かれたというよりも、最初から違う角度から彼に惹かれていったのだった。

 ラジオやテレビで彼の曲を何度か耳にしていて、どこか心に残っていた。先輩に教えてもらって聞いたこともあった。しかし、それはそれで、そのままに終わっていた。幼かった自分にとって、ビートルズもイーグルスも、いやモンキーズも、大した違いがあるように思えなかった。しかも、英語力が全くなかったのだから、歌詞の意味も分からなくて、日本の歌の方が親しめた。そういう音楽センスしか持ち合わせていなかったのだ。

 ところが、ある時「どんな人だったのだろう」と、ふと彼について調べたくなったことがあった。そして、自分なりに色々な本を読み、彼のメッセージや生き様、彼が目指した平和、宗教に向き合う姿勢、宗教(宗教のもたらす弊害)への批判と希望について知るようになって、「何てスゴイ人だったのだろう」と感銘したのだ。

 今日は、その彼の祥月命日。Yaccoさんはジョンの映画のチケットを2枚もプレゼントしてくれた。ありがやい。Yaccoさんもジョンを心から敬愛している。明日はヨーコさんが舞台挨拶するステージにも行くそうである。

 その映画は、「PEACE BED ~アメリカ vs ジョン・レノン~ 」というもので、彼の端的なメッセージ「もし変えようと思うなら。本当に変えようと思うなら。世界は変えられる。」とチケットに寄せられている。もう、今なお語り継がれる彼の表現者としての強いメッセージは、羨ましい気持ちすらする。是非、横浜か京都で時間をつくって観に行きたい。

 2005年、私はロスからアメリカを横断してニューヨークにたどり着いた。そして、真っ先にセントラルパークの西側にあるダゴダハウスを訪れた。1980年12月8日に、ジョンが凶弾に倒れた場所である。私たちは、このアメリカ横断の途中で、キング牧師の暗殺されたロレイン・モーテルを訪れ、JFKの暗殺されたダラスを訪れ、ワシントンではJFKの墓地にも寄った。暗殺という恐ろしい凶行が、何ものにも代え難い命を奪い、人類がより良く変革を遂げてゆく可能性まで奪ってしまうことを思い知った。

 ガンジーは、悪しき者は必ず負けると語った。真実は負けたことがないと言うのだ。彼の身近にいる者が反論した。「何を言うんです。歴史を振り返れば、邪な人間や勢力が勝っているではないですか」と。すると、ガンジーは答えたという。「そのようにお前たちが言っていることを聞いても、悪が負けているという証明だ。悪は、必ず悪であることを世に知られ、真実は必ず真実であること知られる」

 時間軸をもっと永くすれば、真実は勝ち、悪は負けるということだろうか。そう、ガンジーの言葉というよりも、ブッダが示した世の見方、生き方である。

 愚かな人間の恐ろしい凶行によって、人類の可能性を引き出せるような、尊い「存在」が失われても、それで尊い存在が悪しき存在や力に負けたということではない。それで全てが終わりということでは決してないものだ。

 結局、真実の道を歩もうと、他の者を思いやり、平和を希求し、恐れもせずに努力して生きてゆくという「生き様」があれば、その「生き様」は永遠に「生き続ける」ということだろう。本当の命は死なない、いや実はさらに輝きを増すのだ。

 開導聖人は、「辛抱せよ まことはつひに あらはれん しれずにしまふ 悪はなき世に」と御教歌にお示しくださっている。真実は真実。必ず顕れる、との姿勢が大切。ブレていては仕方がない。

 ジョンのことを語っていると朝が来る。明日は朝から新線に乗って移動しなければならない。ジョンの祥月命日に、一言だけのつもりが、少し書きすぎた。


時代の兆し@横浜ラグーン

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