2008年6月8日日曜日

デジタルカメラ

 実は、先日の御講席で、元気のない私を見てご心配してくださった方がおられた。最近、ブログの更新が滞っているし、写真も少ないような気がする、と。本当に私や私のプログを気に掛けていただいていなければこういうお話しにもならなかったと思うのだが、何気なく「そうなんです、ごめんなさい」という風に、私も気軽にお話ししていた。
 その話の流れで、実はブログの写真用にずっと使っていたデジタルカメラが壊れてしまったことについてお話しをしてしまった。何気なく、である。「しまった」というのは、端的にいえば、次の6月1日の月始総講に、最新式のデジタルカメラを届けていただいてしまったのである。その方は頭の下がるほどの篤信のご信者で、私のそういう拙い話を聞いて、「それはご奉公に支障が出ているのではないか。では、御有志させていただこう」と思ってくださったのだろう。デジタルカメラの御有志をしてくださったのである。本当に、本当に申し訳ないことをしてしまった。そういうつもりはなかったのだが。
 こうして6月は最新式のデジタルカメラを常に肌身離さずご奉公しているのである。横浜も、御講も、京都も、どこでも、このデジタルカメラと一緒。御有志くださった方に喜んでいただくためにも、このカメラ君と一緒にご奉公させていただかなければ。特に、このブログは毎日何百人という方が見てくれているので、そういう方の目の保養やご信心増進のために、「カメラマン、長松」、頑張らないといけないと思う。
 とはいえ、こうして撮っているのは、花の写真や長男や次男の写真などであるのだから仕方ない。いや、最近の御講の写真などは全てこのデジタルカメラで撮ったものである。ご奉公してくださっている。本当に、ありがたい。今月中旬にはイタリア団参もあるので、しっかりとデジタルカメラを活用させていただいて、このブログにも紹介できるようにしなければならないと思う。
 とにかく、最近のデジカメはすごい。動画だって撮影できちゃう。ありがたいなぁ。

世にも恐ろしい事件

 世にも恐ろしい事件が起きている。なんという世の中か。
 「世の中がイヤになった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」と供述しているということだが、またしても多くの人が殺され、傷ついてしまった。なんという痛ましいことだろう。なんという恐ろしいことだろう。背筋が凍るとは、このようなことだろう。
 5月28日の「立正安国論 上奏750年」にも書いたが、ブラジルの御導師が仰ったとおりだ。この国の、人の、心の闇(病み)が噴き出している。今年、相次いで通り魔的な殺人事件、上記と同じような理由、無差別で全く関係のない人間を殺害したり、傷つけたりしようとする事件が相次いでいる。
 心の闇。心の闇が広がっている。
 心の中には、恐ろしい地獄の心、修羅・鬼の心、貪りの餓鬼、畜生がうごめき、誰の心にも巣くっている。それらを追い出そうとしても、取り除けるものではない。日々夜々に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏という十界の、特に恐ろしい世界の者たちを、御題目の信心によって教化し、調伏しておかなければならない。何も信じるものがなかったら、心の闇は広がっていく。
 いま、社会が信じられない、人が信じられない、ましては仏教など信じられないという人が増えていて、そういう「信じられるものがない」という状態こそ、人間にとって最も恐ろしい状態だと思う。あっという間に恐ろしい世界に食べられてしまう。堕ちていってしまう。
 裁判になれば、「心神喪失」などと、いろいろな精神鑑定の結果が取り上げられてたりするかもしれない。しかし、果たしてそうだろうか。
 人間は捨てたもんじゃない。人間は仏になれるのだから。その可能性があるのだから。人間だからこそ、だ。しかし、その人間は鬼にも、修羅にもなる。動物が動物であるのと比べて、この人間の素晴らしい可能性と恐ろしいまでの愚かさはどうだろう。だから、その人間に対して、ブッダは教えを垂れた。「信」を取り戻せと仰った。
 「信を以て入ることを得たり」「信は道の源、功徳の母」「信の一字を詮と為す」。あらゆる人に「信」を問うべき時なのだろうか。自分を省みながら、そう思う。いま、天が、泣いている。地が、吠えている。
 仏教的にいえば、世界はつながっている。人と人もつながっている。突然変異の変な人が事件を起こしているということではなく、人と人の輪の中で、心の闇が確実に広がっているということだと思う。だからこそ、心の闇を照らすための「光」に一人一人がならなければ。

2008年6月7日土曜日

6月は特別な月

 梅雨入りをしている六月だが、素晴らしいお天気となり、教区御講が奉修された。それぞれ土曜日ということもあり、午前中が69名、午後が48名のお参詣と、大変多くのお参詣をいただいた。有難いこと極まりなかった。
 今月は先住の祥月ご命日。忘れもしない8年前の6月14日早朝、先住はご遷化になられた。家族が枕頭を囲み、清康の剃髪をも行われ、先住(父でもあった)は私の腕に抱かれて息を引き取られた。今思えば、大変見事であり、羨ましくもある。自分が死を迎える時、息子に抱かれて死ぬことができたら、これほど嬉しいことはないと思うが、それはさておいても、今月は祥月ご命日なのである。あの日の私の慟哭は、病院からお寺を結ぶ道路に刻まれていると思う。そんな見事なご遷化であったにもかかわらず、あふれ出す涙を止めることも出来ず、お寺まで帰った。あれから8年。

 それにしても、今月、このタイミングで、つくづく、いま、お看経の有難さを感じさせていただいていることが有難い。やはり、御法さまのご采配、先住のご指導によるものだろうか。有難い。自分なりに考えるに、やはり先住の祥月ご命日ということと、あの「佛立魂」から15年目のご奉公をさせていただくからであろうと思う。今月、14日の先住祥月ご命日に併せて「佛立魂から15年 一万遍口唱会」を開催させていただく。その前に、このような「気づき」をたくさんいただいて、ありがたいと、謙虚に、素直に、思えた。妙深寺の教講は、あの現証を目の当たりに出来たのだから、本当に幸せだ。あの出来事を忘れてはならない、思い返そうというご奉公が一万遍口唱会。ありがたい。

 また、今日の御講では、青少年の一座のご披露を、それぞれの教区でしてくれていた。京浜では英ちゃん、湘南では綾ちゃんと川本さんがしてくれていて、とても立派なご披露に感動した。青少年の一座のご奉公では、将引のプロジェクトチームとして英ちゃんが大阪にもご披露に行ったと報告してくれていたのだが、ご奉公してくれた英ちゃん自身が大変に感動してくれている。ご奉公して感動するという、本当に純粋な思いと体験が、有難いなぁとつくづく思う。是非、若い人は特に、8月3日に渋谷の乗泉寺で奉修される青少年の一座にお参詣していただきたいと思う。ありがたい。
 6月は特別な月。しっかり、噛みしめて過ごしたい。

2008年6月6日金曜日

吏絵ちゃんからのプレゼント

 ご奉公させていただいて、何より有難いことは御利益をいただかれた方々の笑顔を見ることである。元気な姿を見ることである。楽しそうにしている姿を見ることである。それが現証の御利益そのものであり、御題目の御力の証だから。

 生きていて、ご信心させていただき、ご奉公させていただく中で、これほどまでに嬉しいことはない、楽しいことはない。生きて甲斐ある身の上だと、本当に有難く思える。

 御教歌に「くるしみを人ののがれしよろこびを きくばかりなるたのしみはなし」とある。

 それを「楽しみ」にして生き、ご奉公させていただかなければならない、とつくづく思う。自分の欲を満たすことだけを「楽しみ」にしているのとは、その味わいが違う。

 別の御教歌には、「煩悩のたのしむ程はしばしにて のちのくるしみながき世の中」とある。

 自分の「煩悩」を満たすことは楽しい、楽しいけれどもそれはほんの一瞬で、そのことをしてしまったがために、それを取ってしまったがために受けなければいけない苦しみが長く続いてしまう、そういうものが世の中ではないか、と教えていただいている。そのとおりだと痛感する。

 なるほど、そういうことが信心なのかと、「たのしみ」を変えてみる、「視点」を変えて味わえるようになると、人生の風景そのものが変わってくる。御教歌にあるとおり、「たのしみを かへてかしこのまねしたら あほのすることみないやになり」と、自分の生き方、過ごし方、人の愛し方、愛され方が変わってくるというものだろう。私などは、まだまだこの段階まで行けてはいないが、それでも先述の御教歌のように、ご奉公やご祈願をさせていただいてきた人やご家族が、苦しみの淵から逃れたという姿、その元気そうな姿、楽しそうな笑顔を見る度に、「あぁ、ご奉公させていただいてよかった」「これこそ、ご信心で教えていただく本当の喜びなのだなぁ」と気づかせていただくのである。

 6月4日、長松寺の御総講。お看経と御法門を終えると、吏絵ちゃんとお母さんがお参詣に来てくださっていた。昨年の夏以来、長松寺の御総講には、お父さまやお母さま、吏絵ちゃん、時々お兄ちゃんまでお参詣に来てくださっている。そんな御縁を、心から嬉しく思っている。

 今でも、私は毎日吏絵ちゃんの御祈願を続けさせていただいている。白血病を完全に克服し、すでに通常の学校生活に戻っていてテニス部の部活にも頑張っていると聞いたが、あれほどの病気をしたのだから御祈願を続けさせていただきたいと思い、「身体健全、学業成就」の御祈願を勝手ながら続けている。

 毎回の長松寺のお参詣を有難いと思っていた。今回も元気そうに、ちょっと大人っぽくなって、綺麗になった吏絵ちゃんに「おーっす、ありがとーございまーす」と声をかけた。すると、なんと今回は吏絵ちゃんからお手紙とプレゼントをいただいしまった。

 吏絵ちゃんは15才の誕生日を迎えたということで、その御礼のプレゼントだった。え?でも、本当なら僕が誕生日プレゼントをあげなければならないところなのに。佛立宗のご信心では「誕生自祝」という教えがあり、生きていること、生きてこられたことを誕生日を迎える自分が感謝して、むしろ祝われるのではなく周りの人に御礼をするということがある。吏絵ちゃんからお手紙をいただくまで、そのことも忘れていたなぁ。

 手紙には「ご住職へ。ありがとうございます。先日15才の誕生日を元気にむかえさせていただきました。子どもさんにあげてください」と書いてあった。本当にありがたい。ありがとう、吏絵ちゃん。

 御祈願をはじめた時、吏絵ちゃんは12才だったね。あっという間に時間は流れた。苦しいこともあったけれど、こうして元気に15才の誕生日を迎えられたこと、本当に御法さま、お父さま、お母さま、お兄さん、お祖父さま、お祖母さま、宥清寺のご信者みなさん、ご祈願してくれた方々全員に御礼させていただきたいね。ありがたいよ。本当にお手紙、ありがとう。大切にする。ご祈願も、続けさせていただきます。たくさんの人の力になれるような、素敵な大人になってもらいたいと思う。きっと、吏絵ちゃんならなれると思う。

 長男に「覚えてるか?吏絵ちゃんからのプレゼントだよ。お前にって。ありがとうしないとな」と言うと、彼はしっかりと覚えいたようで、「え~、ありがとー」と言っていた。ほんまに分かってるのかな(汗)?重ね重ね、ありがとう、吏絵ちゃん。元気が出ます。

御題目をお唱えすること

 妙深寺の本堂。内陣の手前にはお香炉が置いてあり、誰もがお線香を立ててお看経出来るようになっている。
 お看経とは、佛立宗のご信者さんであれば当たり前のようにしっていることだが、「南無妙法蓮華経(ナムミョウホウレンゲキョウ)と御題目をお唱えすること」である。この修行こそ、末法相応の根本行であるから、私たちは何はなくとも御題目をお唱えする機会をつくり、我が身のためはもちろん、他の人のためにまで御題目をお唱えさせていただこうとするのである。
 お香炉が置いてあるのは、たとえば百本祈願をしている方がいたら、自分のお線香を用意しておられるであろうから、その方が自宅でも、お寺の本堂でもお線香を立ててお看経できるようしているのである。妙深寺は、開門が午前6時半、夜は10時まで完全に開放されているので、誰彼と無くご信者であればお参詣をいただき、本堂で時間の許す限りお看経をしていただくことができる。
 このお看経。本当に有難いと、つくづく思える。いくら論理的に説明されても、人生の苦悩、心の葛藤は何ら解決しない。人間の浅知恵で心の深層に触れるような説を学んでも、自分自身の「心」というものは一向に何ともならない。虚しさ、恐ろしさ。もし、「信」がなければ、あっという間に過ぎ去っていく「時間」も、漠然と広がる「空間」も、これはちっぽけな存在の「私」にはどうしようもできない。自分の苦しみや悩み、家族の苦しみや悩み、友人をはじめ、見聞きする人々の苦しみや悩みに対して、具体的な行動、精一杯の努力や実際の支援は出来る限りするにしても、如何ともし難いことも多々ある。
 その私たちの苦悩を、御題目を口唱することによって、静かに、ゆっくりと、取り除かれていく。その御題目口唱のバイブレーションは、永遠の宇宙の中に広がり、満ちていって、我が身、我が心、あらゆる人々、生命に溶けていくのである。
 御題目をお唱えすることによってしか叶わないことがある。特に、「心の闇を照らす妙法」と教えてくださるとおり、心の闇は、ご信者であろうとなかろうと、「信心」を取り戻すことによってのみ果たされるのである。そして、「信とは口唱」という。「信心」とは「口唱」という「アクション」なのである。「口唱こそ信心」なのであるから、あらゆることはそのままに、御宝前に座って、まず御題目をお唱えするという「アクション」を起こすことしかないのである。
 ある方角を向いて、定まった時刻に礼拝せよというのではない。人知れぬ山中を駆けめぐれと言っているのでもない。智慧を使えと言っているのではなく、何かを学べと言っているのもない。それらはむしろ意味が無く、遠回りであるとさえ言う。そういうことが仏教であるわけがない。仏教は「癒し」ではなく、「安心(あんじん)」なのである。高価な壺や財布に入れるお守り、厄除けの札を求めろなどというのは、まじないや気休めでしかない。本当の人生の苦悩を知れば、それがどれだけ意味を為さないことであるか分かるだろう。
 御題目口唱は有難い。そのことの意味を、幼い頃から聞いてはいたが、私にも分からなかったのだ。今から15年前の、先住のお怪我の時に、少しだけ気づくことが出来た。気づかせていただいた。そのことを思い起こすために、今月14日、先住の祥月ご命日に併せて「佛立魂15年 一万遍口唱会」を開催させていただくこととなっている。あの時の事を思い返しながら、御題目を一万遍お唱えさせていただこうと思う。私も、あの時から、遠く心を置いてきてしまったように思うから。信心を改良させていただきたい。
 いま、柴田芽衣ちゃんや仁科富美子さんのお助行はもちろん、自分のご信心を見つめ直すためにもお看経をさせていただいているが、それに欠かせない「グッズ」がある。それは、お線香を入れる箱と、先住のお拍子木。お線香を入れる箱は、素敵なアジアンテイストの箱を寺務所の望ちゃんが買ってきてくれて百本のお線香を入れて使わせていただいている。お線香を持ち歩くなんて、とても素敵だし、有難いと思う。本山の御宝前、本庁の御宝前でも、長松寺でも、どこでもお看経出来るから。
 お拍子木には先住のお名前が彫られている。たぶんご自分で彫られたのだと思うが、感慨深く使わせていただいている。それに建国寺で作っていただいたお拍子木のカバーを付けさせていただいてケースに入れて持ち歩いている。
 少し気を休めながら、お看経をさせていただける嬉しさを噛み締めている。本当に「有難い」と御宝前に御礼しながら、御題目をお唱えしている。

2008年6月5日木曜日

BUDDHISTの原点

 少々疲れたら、考えずにBUDDHISTの原点に。お看経しかない。

 それにしても、変な言い方だが、「お看経」のある私たちのご信心というのはスゴイ。「お看経」があるんだから。誰にでも出来る、どこでも出来る、黙考するのではなくアクションであること、すごいなぁ。ありがたい。

2008年6月3日火曜日

梅雨入り

 梅雨入りした。あぁ、夏が来るのが待ち遠しい。

 お祖師さまは、「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず。冬の秋とかへれる事を」とお諭しくだされている。寒く厳しい冬も、それがずっと続くわけではない。鬱陶しい梅雨も、自然界にとっては必要不可欠なことなのだ。

 そう思えば、有難い。お祖師さまの教えも、心にしみてくる。

気をつけて‼️その電話、詐欺です‼️

  みなさん!気をつけて! 妙深寺の寺務所からお知らせです。 「今日、私の携帯に、総務省 総合通信基盤局 データ通信課の山田シンタロウさんから電話があり、私の名義で、8月21日にドコモショップ新静岡店で契約した携帯から違法メールがバンバン送られているとの事でした。 相手の方は私の...