つまり、ご弘通が発展し、それをまとめる「組織」を動かそうとすれば、規則や制度は不可欠になります。ご信心の世界でも、これがつきまとうのですね。手塚治虫氏の「ブッダ」には、ブッダとダイヴァダッタの対立の根源に、宗教と組織というテーマで描かれています…。
社会一般、あらゆる国や組織で考えれば当然の話です。人を動かすにも、モノやお金を動かすのも、そこに「ルール」が無ければ、誰かの類推や思いつきで執行されてしまいます。特定の人に権力が集中するのは仕方ないにしても、賢者がトップであり続ける保証はありません。
盛衰が繰り返されてきた人類の歴史を振り返れば、如何に繁栄をもたらすか、その繁栄をいかに持続させるか、そして、衰退をいかに遅れさせるか、という戦いが、人類の歴史であるとも感じます。敢えて「衰退を遅れさせる」と書いたのは、残念ながら衰退しない国や組織はない。故に、可能な限り「衰退」や「滅亡」を「遅れさせる」ために、様々な挑戦を行う。その一つの方法が、規則や制度づくりとなります。
ルールは必要。憲法と言い、制度や規則と言い、永らく適正な運営や執行が行われていくように、夢を託すかのように、そういうものを作ることに精を出す。年を取ればとるほど、そういう気持ちになるでしょうね。これは当然であり、大切なことでもあると思います。とりあえず。
本門佛立宗にも「宗制」というものがあり、規則もあります。これは、本当に大切なものです。今も、この改正が議論されていて、ご奉公が進められているようです。こうしたご奉公で、未来に向かって宗門が発展してゆくことを切に望んでいます。
一方、私が個人的に思い返すのは、ウィリアム・スミス・クラーク博士の話です。北海道の札幌の観光名所である時計台は、札幌農学校の演武場として建てられたものです。その札幌農学校の初代教頭がクラーク博士でした。宣教師ではなかったのですがキリスト教を講義していたといいますから仏教徒とは全く立場が異なりますが、教育者としての彼は短い在任期間の中で大きな評価を得ています。
特に、彼の遺した有名な言葉「Boys Be Ambitious(少年よ、大志を抱け!)」 は、全国に知られています。
その有名な言葉を残したクラーク博士は、もう一つ、有名な言葉を残しています。私は、その言葉と、その言葉の裏側にある思想が大好きです。とても、とても、大切なことだと思います。私は大学で教育学を学びました(スポーツばっかりやっていて留年しましたが、それでも一応教育学科卒です)。その中でも、彼が若者たちに何を学び、何を伝えたかったか、それを知り、感動したのでした。
クラーク博士が札幌農学校に教頭として赴任した際、当局は既に仮学校以来の規則を作っており、それをクラ-ク博士に示したといいます。すると、クラ-ク博士は、即座にこのような細々とした規則で生徒を縛っては 「人間」をつくることはできないと言い、そして、言い放ったのが「Be Gentleman(ビー・ジェントルマン:紳士たれ!)という一語で十分だ!」と断言したのでした。 生徒は、自らの良心に従って自らを律することのできる紳士であるべきだ、という意味だと思います。そのことを生徒に期待する、というのでした。
札幌農学校の話だけではなく、私たちにとっても、この言葉の意味をかみしめたいと思います。それが、このタイトルにも書いた「Be Buddhist(仏教徒たれ!)」だったり、「Be Bodhisattva (菩薩たれ)」だと思うのです。そして、何よりも私が思うのは、「佛立教務たれ!」「佛立信徒たれ!」です。
まず、これを胸に抱かなければダメだと思います。佛立教務や信徒としてのスピリット。「これこそが佛立である」「これこそが佛立教務である」というものを知りもせず、求めもしていないのであれば、何を知っていても、何ができていてもダメだと思います。特に、指導者層にある教務は、ダメでしょう。しかし、現実には、規則や制度ばかりが生まれて、「Be True Buddhist」「Be Bodhisattva」という本門佛立宗の教講にしか持てない誇りを見失って、周辺でウロウロしてやいないか、と心配になります。
規則は大事、制度も大切。でも、スピリット、気概、イズムが、しっかり受け継げているか。受け継がれるように、考えているか。何も育たない不毛地帯に、立派な規則の本だけが転がっているということのないようにしなければなりません。
太宰治は「大人とは、裏切られた青年の姿である」と言っています。もっと、コアな部分、核心を大切にしないと。ネガティブな方ばかりを見て、幻滅していても仕方ない。青年に期待して、人間に希望を持って、細々とした制度で云々するのではなく、「佛立信徒たれ!」「佛立教務たれ!」と声高らかに謳いたい。人間として、最高の生き方だと、自信を持って体現して見せたい。そうしたことを、国内のご弘通が厳しい状態であることを自覚した上で、宗門の諸機関や教育機関は動かなければならないと思うのですが…。
いろいろと慌ただしく走り回ってご奉公させていただきながら、いろいろなことを見聞きし、そんなことを考えています。何が佛立で、何が佛立でないか。開導聖人が好かれる生き方、スタイル、考え方、人間性、ご奉公の仕方は、何か、どんなものか。考えなければなりません。思考せよ!それが大切だと思います。
「佛立たれ」。こうしたことを考えておかないと、いつの間にやら、自分が「月明」になったり、開導聖人が学林に入られた際、馬鹿にしたり、イジメを行った学僧になっていたりする。昔、「あんな奴にだけはなりたくない」と思っていた人間に、自分がいつの間にかなっているなんて、イヤなことですから。
素晴らしい教育者が残した言葉のように、佛立らしさを考えて、Be Buddhist, Be Bodhisattvaと言い、「佛立信徒たれ!という一語で十分だ」と言いたい気持ち。忘れてはならないことだと思います。
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