蕾のままの梅花祭。雪柳も遅れて満開を迎えているようです。沈丁花の残り香が漂う中、御所の近衛邸では早咲きの糸桜が妖艶に花弁を垂れています。数日後には染井吉野が見上げる人を魅惑させるはず。
北国では梅も桜も一気に花開いて春の訪れを告げるといいますが、今年は全国で同じような光景が見られるのかもしれません。
京都生まれの私ですが、残念ながら御所の桜も円山公園の桜も観たことがありません。ただひたすら妙深寺の桜。子どもの頃は両手で抱き抱えられるくらいの細い木だったのですが、今では三ツ沢でも有名な巨木となり私たちを愉しませてくれています。これからも、長生きして見守っていて欲しいです。
昨日からの続き。出る杭は打たれると言いますが、信じた道ならば打たれても前に進むべきです。「いい人」は「どうでもいい人」になりかねません。いい意味で人に期待してはいけません。自屈と上慢と二乗心は生涯の戒めですが、負けん気と根気と慈悲は人生の指標です。信念も行動力もない人たちの評価を気にしてはいけません。
お祖師さまは、
「愚人に誉めらるるは第一の恥なり」
と仰せです。御指南には、
「信者は愚者を友とすな」
とお示しです。
異体同心とはレベルの低い烏合の衆になることを勧めているのではなく、徹頭徹尾、飽くなき向上心と無限の慈悲に満ちた生き方を教えるものです。上求菩提下化衆生。
誰に何を言われても、信じた道をゆくのです。他人の評価を気にして生きるのは、この命を粗末にしていることと変わりません。
個人の悟りを開く前に、為すべきことがあるのです。
「さとれるを さとらずといひ さとらざる 人をさとるといふ宗旨なり」
深い深い教えです。噛み締めなければなりません。
先住がご遷化になられて12年。一回りしても先住の声を聴くと涙が溢れます。
子どものような話ですが、私が父に、
「また会える?』
と聞いたら、
「いい子にしてたらな」
と答えてくれました。この言葉は忘れません。
昨日も書いたとおり、先住の意図する「いい子」という意味を考えると、ただ大人しく過ごすことを指しません。為すべきことを為し、言うべきことを言う。誰よりも過酷な中にも飛び込み、仏陀の「泣きながらでもいいことをせよ」という至言のままに生き切ることだと思います。
そうすれば、愛する父の下にゆき、もう一度再会できると信じています。
桜が大好きだった先住。亡くなった年の春も、一緒に妙深寺の桜を観ました。手を添えて。細くなった腕を抱きしめて、美しい桜を見上げましたね。
「散りますと 花の云ふのを聞いて飲め」
大好きな御教句です。死なない人はいませんから。無常の中の永遠、永遠の中の無常です。だから、僕たちは生きなければなりません。生命を全うしなければなりません。
「お前は俺の芸術品だ」
父はそう言いました。その言葉に恥じぬように、先師上人の御意を受け継いで、ご奉公させていただきたいと思います。これから、本気中の本気で、勝負してゆきたいと思います。命懸けでいきます。
桜の花のように。
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