誰の上にも、平等に時間が流れているように見えます。
でも、違う。
仏教の創始者は、同じ世の中に生きているように見えて、その人の心によって全く世界が変わると説きました。
同じ一日、同じ世界なのに。
本当に、そのとおりです。
雨を喜ぶ人もいれば、雨に泣く人もいて。
僕の父が意識不明だった時、デパートに床ずれを防止する道具を買いに行ったことがあります。
その時のことを鮮明に覚えています。
同じ世界にいるのに、全く別世界にいる自分。
デパートにいる人たちの幸せそうな笑顔と、自分や自分たち家族の心や置かれている状況の違い。
そんなことは当たり前で、それが世の中というものだけど、その事実を感じました。
私たち人間には誰かを「思いやる」という心がある。
その心が、この混沌とした世界を一つにする。
その心が、この世の希望だと仏教は説きます。
その心が、修行だと仏陀は説きます。
心に映る世界が、真の世界ではない。
心に映る世界の向こう側に別の世界があって、すべてを包んで真の世界がある。
「火に入る者を助けんとするには共に火に入り。水におぼるゝ者を救はんとするには、共に水に入て救ふなり。高祖も此の如く、乃至、仏一切衆生をすくはんが為に浄土をすてて娑婆世界に入り来たり給ふ。」
苦しんでいる人や悲しんでいる人のために寄り添うことが、人間の努めであり、人間の証明であり、修行だと教えていただいています。
答えの出ない、答えのない、現実がある。
「さればとて、きのうけふ法華経を信じそめぬる身は、漸く火中水中を逃れいでたる身のみにして、我はたすかりつれど人をたすくる力なし」
「われもかやうにして謗法の火の中を逃れたり、かやうにして御利益は蒙りたりと人にも語り、力に応じて慈悲をさきとして深切に人にさとし、水の中、火の中を出さんと心がけたるが、男子も女子も随力演説と云ふ経文の如く也」
いま、僕には、御題目をお唱えすることしかできません。
幸せな人のために、祈ります。
深い哀しみの底にいる方々のために、祈ります。
南無妙法蓮華経、、、、、。
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