終戦75年 特別展
トランクの中の日本 ~戦争、平和、そして仏教~
京都佛立ミュージアム
あれから5年。
終戦70年を期して開催した京都佛立ミュージアム「トランクの中の日本 ~戦争、平和、そして仏教~』展は、私たちの想像を超えた反響を呼び、特別展に込めた平和の祈りは京都から全国、全世界へと広がってゆきました。
終戦70年目の広島平和記念式典への参列、ローマ教皇への写真集献上と教皇による全世界への配布指示、2度にわたるサンマリノ共和国での写真展の開催、そして教皇の来日、東京での写真展の開催や各種メディアによる「焼き場に立つ少年」の報道。
幼い兄弟の姿は、まさに世界中の人びとの目に触れることとなり、ハチドリのように小さな私たちの願いは、思いがけず様々な御縁によって昇華していったのです。
あれから5年。
本年、全人類を襲う新型コロナウイルスの脅威の中、世界は第二次世界大戦から75年の節目を迎えました。
生きた仏教のミュージアムが考える戦争と平和。
終戦75年の特別展は、発信源の一つである京都佛立ミュージアムが原点に還るべき時であると考えました。
その原点とは、若き従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏の心の変遷と、戦争を生み出す人間の本性についての洞察です。
彼が撮影した終戦直後の日本と日本人の姿。敵愾心に燃えて佐世保に上陸したオダネル氏は焦土と化した各地を転々とします。明るく、礼儀正しい日本の人びとと触れ合い、広島では目に触れるすべてをフィルムにおさめ、「見たもののあまりの凄まじさに私は平常心も思考力も失っていた。」と言い、長崎の仮設病院では「どうぞ殺して、私をどうぞ殺して、あなたの敵だから」と懇願する無数のウジをつけた被爆者と向き合いました。
そして、彼はとある火葬場で幼い弟を背負う少年と出会います。その頃には、彼の心は敵と味方の境界を超えていたのです。
私たちは、彼の心の変遷こそ、仏教徒が学ぶ「戦争と平和の本質」を表していると考えたのです。
この特別展は、オダネル氏の代表的な1枚「焼き場にて、長崎」にのみスポットを当てるものではありません。彼の辿った心の変遷を追体験することに重点を置いた展示です。
敵を敵とする人間の心は幻想であり、正義や大義すら信じるに値しないこと、人間が人間を知ることによって真理を見出し、自分と他人、此方と彼方、敵と味方の境界を越える。このことに気づかなければ、私たちは何も学んでいないことになります。
< 戦争はなぜ起こり、いかにすれば平和であり得るのか。 >
戦後75年間、実際には世界の至るところで戦争は起こり続け、今なお多くの人びとが傷ついています。
2019年7月、シリアから幼い姉妹の写真が送られてきました。空爆によって崩壊した建物に挟まれて身動きが取れなくなった少女。少女の手には今にも落ちそうになっている生後7ヶ月の妹の服が握られていました。少女の名はリハム・アブドラちゃん5才。彼女は妹のトゥカちゃんを救った直後に亡くなりました。
世界大戦から75年経った今でも、焼き場に立つ少年と同じように苦しみ、傷ついている、兄弟、姉妹がいることを忘れてはならないのです。
5年前に紹介した言葉。
「我々が歴史を勉強すると、
我々が歴史から学んでいないことが分かる」 ドイツの哲学者・ヘーゲル
「人間が歴史から学んだことは、
歴史から何も学んでないということだ」ウィンストン・チャーチル
「恐怖の描写をするだけであれば、われわれは正しく戦争に反対することにならない。
生きることの喜びや無駄な死の非情さについて声高く述べるだけでも、同じように正しく戦争に反対することにはならない。
数千年来、母親の涙について語られて来た。
だが、その言葉も、息子が死ぬことを妨げ得ないことを、しっかりと認めなければならない」
サン=テグジュペリ
人の目が曇り、心狂えば幾たびも戦争は繰り返されます。人が人を知り、自ら覚し、心が平和であるならば世界も平和たり得る。人間らしさの本質を知れば戦争は終わり、平和が訪れるはずです。
ブラックスワン。黒い白鳥。これは「予測不可能な極端な事象が発生し、それが人々に多大な影響を与えること」という意味の用語です。
いま、人類にとって生存を脅かすような事象が次から次へと起こっています。突き詰めれば、いま気づかなければ未来は惨憺たるものになるということだと思います。
終戦75年 特別展「トランクの中の日本 ~戦争、平和、そして仏教~」。
5年前の展示を再び配列し、より鮮明に、色濃く、幅広く、戦争が生み出すものを共有し、共に世界の平和を祈り、生きる覚悟が育めるよう、多くの方々のご協力を仰ぎつつ開催させていただきます。
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