マータラ地区でのお助行も日が落ちてきた頃、カピラ家へお助行に伺った。この家庭もご信心の日は浅く、まだ御本尊を奉安されたばかり。ご弘通が発展しているのを実感できて有難いのだが、近所の人たちが集まっていて、大変な騒ぎになっていた。
すでに玄関口には人だかりが出来ていて、家に入るのも大変。しかし、これがご信心をされている方の温かい目でないことにはすぐに気づく。ジロジロ、ギロギロ、と頭の先から足の先まで、「どんな奴が来たんだろう」という目で見られる。でも、これも慣れっこ。こちらはスリランカの刑務所でも講演したこともあるし、それこそ恐ろしいくらい、珍しいモノを興味津々で見つめられたこともある。なんてこともない。
それでも、この村落に住むワサンティご一家は、ご夫婦とお嬢さんをはじめとても素直なご信者さんとなっている。息子さんは初めてお会いした。後で、彼が色々な疑問を持っていることを知ったが、このご家族のお宅に訪問できてよかった。
家の中に、近隣の人を含めて40名ほどのお参詣。家の居間に入りきらないほどの人が集まっていた。お看経をする前に、近所の人が何も分からないので、このご信心について、御題目について、御題目の唱え方について短くレクチャーしていただいた。この時、聴き入るように前に出てきた方々は初老の女性が多かった。なにせ、近所の住むこの女性たちにとっては、私たちの教えるものが、仏教なのか、そうでないのか、どんな宗教か皆目分からないはずなのだ。
お看経終了後、もう一度短く説明を重ねた。こうなると、私の英語→シンハラ語は面倒なので、ミランダさんやガマゲさんに任せる。時間がもったいないから。私は御宝前を拝見していて、とてもシンプルで綺麗な御戒壇だと感心していた。
すると、家の外を囲んでいた青年たちが御戒壇近くまで勇み足で近寄ってきた。流暢な英語を使いながら、なかば詰問してきた。聞いてみると大学生だそうだ。20才前後だろうか。非常に優秀な青年なのだろう。私は、「ちょっと一休み」と思っていたのだが、若者4人ほどとディスカッションを始めることになった。
彼が言う。「これは何の宗教だ。仏教か?このコンセプトは本当に仏教なのか?もし、仏教だとするなら、テーラワーダの方が仏教としては古い。仏教をそのまま伝えているはずだ」と。
私は応える。「もちろん、これは仏教だ。古い、新しいという話ではない。私たちは2500年以上前にブッダが説かれた法華経の教えに基づく信仰をしている。つまり、これは仏教そのものだ。法華経(ロータス・スートラ、サッダルマ・プンダリーキャ・スートラ)は少なくともテーラワーダの僧侶も知っているはず。それは「諸経の王」と呼ばれている、非常に重要な、特異な、古い経典だ。この法華経の中でブッダは自分の滅後の人々のためのエッセンスを明らかにされた。自分のオリジナルのステージと、自分の滅後の存在(寿命)について説かれた。そして、滅後の世界で人々を導く人のために、様々な予言をされた。話せば長くなるが、つまり私たちが唱えるマントラは、法華経の教えに基づいたマントラであり、最も御仏のエネルギーの込められたもの、御仏のスピリットそのものである」
「なぜ、スタチュー(仏像)を使わないのか」
そう、このお宅に来る道のりで、それはそれは巨大な仏像を見た。まさに「大仏」だ。スリランカの街角にはたくさんの仏像が安置されている。彼らにとって仏像こそブッダの存在を知るための方法なのだ。
私は応えた。「ダンマ(法)があるからだ。あなたはどう思う?ブッダの魂はどこにあるのか?仏像の中にあるのだろうか?」
「俺は仏像を見て、ブッダを感じる」
「そうか。しかし、それはあなたが感じるだけで、ブッダはどうであろうか。ブッダはどのように説かれているだろうか。ブッダの教えに従うのが仏教だとしたら、ブッダの教えこそ尊重すべきだろう。私たちは仏像を見た時、私たちなりにブッダをイメージすることはできる。しかし、ブッダの魂がそこにあり、ブッダの魂と交信できるのだろうか。それは、ブッダの説に寄らなければならない。数多くある仏像は尊くても、ブッダの教えに照らし合わせれば、それはできそうもない。法華経には、ブッダの滅後、その御魂がどこに存在するかを説かれている。そして、それと一体になる方法が明らかになっている。永遠に生き続けているはずのブッダとコンタクトする方法がある」
「この『ナムミョウホウレンゲキョウ』というマントラこそ、『ダルマカヤ(本来、この言葉の意味は「法身仏」のことであり、私の言わんとするところを満たさない。しかし、スリランカの人々にとっては理解しやすい。本来は「ニルマーナカヤ(応身仏)」「サンボーガカヤ(報身仏)」などの言い方もある。しかし、仏の三身論についてはここで論じても意味なし)』であり、「ニルマーナカヤ」を前提にする「スタチュー(仏像)」を敬うこととは本質的に異なるのだ。肉体のブッダをイメージするために敬うのではなく、「ダルマ(法)」として生きているブッダそのものとして私たちはこのGohonzonを敬い、『ナムミョウホウレンゲキョウ』と唱えるのだ」
「なぜ、ナムミョウホウレンゲキョウなのか?」
「それがブッダの魂だからである。生きているブッダそのものであり、唱えることによって私たちはブッダと一体になれるからだ」
「それで何が変わるのですか?何が起きるのですか?」
「ベネフィット(御利益)がある。自分の人生がポジティブに変わっていく。内面にエネルギーが満ちてくる。不思議と『縁(Chance、connection)』に恵まれる。カルマが変わっていくよ。ブッダのサポートを感じられる。ブッダは一人の人格であっただけではなく、法華経で永遠の命そのものであることを明らかにされた。ブッダとは、宇宙そのものであり、私たちはそれを知り、一体になれるはずだ」
最初は厳しい形相で詰め寄ってきた青年たちと、こんな会話を交わし、とても友好的に、平和的に会話を終了した(汗)。は~、よかった。先ほども書いたが、この近所には200年前に建立された大きな仏像がある。彼らは、子どもの頃からそのお寺に親しんで生活してきたに違いない。唐突に、こんなことを話し合っても分からないかも知れない。しかも、立ち話ではどうしても中途半端になってしまう。
ただ、これが法華経の教えであり、お祖師さまの教え。ストレートに伝えさせていただくと、逆に自然と御題目をお唱えしてくれる。それこそ、有難い。真実の仏教が、ブッダの真意の下で、簡単に国境や言語、文化や宗教の壁を越える瞬間であると思う。
その家から出る際、私は若いご長男に対し、「また御講ミーティングで会おう。お参詣しなさい。しっかりと佛立信心を理解し、友人にも説明できるようにならなければならないよ」とお話しをした。さっき詰問してきた青年は、車まで近づいてきた。みんなで手を振りながら、にこやかに別れを惜しんだ。ご奉公には、突発的なことがある時こそ味わい深い。