河野太郎議員が自身の所属する自民党を含めて客観的な概況を述べている。「自民党は電力会社から金をもらい、自治体に補助金を出しやすい制度を整え、経産省は電力に金を出させて公益法人に天下り。業界は原発建設を後押し。電力会社は大学に研究費を出し御用学者作り。広告費をもらうマスコミは、巨悪と添い寝。政官産学メディア五角形の作る安全神話」。
「低線量放射線は体にいい」という発言が、人々の生命や健康よりも、経済発展や国際関係に重きを置いたものだとしたら、「命は地球よりも重い」という言葉を思い出せ。みんな、優先順位を間違って不幸になるのだ。優先順位を間違わなければ、必ず乗り越えられる。泣きながらでも耐えられる。悔しくても前に進める。哀しくても励まし合える。
欲望のままに言葉を弄し、他の人を翻弄し、騙し、子どもたちの未来を奪うならば、もはや鬼か悪魔に心を奪われてしまっているとしか言いようがない。
「心の鬼が地獄につれ行き、心の菩薩が寂光へ導くと云ふ事、此の一句を口ぐせの様に云ひなれて、能々(よくよく)味ひて、御法門聴聞に行く道々にも、心にたくはへ、御看経の時にも忘れず、朝起ても一番に思ひ出し、一日暮れて夜臥す折にも、心の鬼が地獄へつれて行き、心の菩薩が寂光へ導くと、一日、二日、三日、乃至一年、十年、一生の間忘れざれば、臨終の時には、心の菩薩が寂光へ導かせ給ふ物也。御臨終の夕べには、日蓮必ず御迎ひに罷(まかり)向(むか)ふべしとはこれなり」
私たちも留意しなければ、心の鬼に連れられて、どこに行ってしまうか分からない。しかし、せめて、この過酷な事態に、正確な情報を求め、安易な楽観よりも、未来を担う若い子たちの健康に最も重きを置いて慎重な発言をし、この問題の本質、このような事態を招いた本当の巨悪、我々もその片棒を担いでいたのではないかという自責の念を抱きながら、行動を起こすべきだと思う。
いつも思う。「仏教はアクション」だ。行動を起こす。あらゆる権力や利権から独立しているはずの宗教者や仏教徒は、我見や我執、我欲や欲得、政治的意図や配慮などによらず、ただひたすら、真実を求めて、真実に寄り添って、真実を伝えようと、行動すべきだ。
いま、「原子力を守る」「低線量放射線は体にいい」と聞いて、阿呆らしくなり、書いた。こういう人たちのことを、忘れてはならない。一人一人に会えば見識のある、魅力のある人たちかもしれないが、もはや人生の全てを否定されるような事態に遭遇して、我を忘れている。人は、自尊心が正気を失わせていることに気づけないものだ。つくづく、欲のためには頑なで、真実のためには弱く、もろい。
巨大な欲望の増殖炉に惹かれて本心を失い、悪を悪と思わず、自分では「善」と思い込み、確信すらしているのだろう。普通の人からすれば凶悪極まりない殺人鬼に見える人間であっても、本人は完全に整理された「理屈」を持ち、「正当性」を主張するものだ。
「だから殺した」「なにが悪い」「お前たちに何が分かる」と憤る凶悪犯や犯罪者は数え切れない。外側にいる私たちからすれば、狂っているとしか見えないことも、本人は大真面目に確信していることがある。そこには疑いの欠片もない。だから狂気であり、だから犯罪にいたるのだ。
仏陀からすればこれば特定の犯罪者に当てはまることではなく、ほぼ全ての人間が持つ特性であり、陥りやすい穴であり、こうした自覚のかい狂気が社会や自他の人生を損なうと見る。
いま、人々の狂気が明らかになっている。情報が溢れている中、それぞれが確信を持って語る。その背後に、思惑や欲望、狂気を見て取らなければ、騙されてしまう。なぜなら、狂気や欲望に取り憑かれた人間の目は、異様に光り、異常に強い。その真剣さは説得力すら持つから。残念ながら、愛や真理を説く人の目よりも、彼らの目から放たれる光りの方を強く感じることばかり。
しかし、負けている場合ではない。
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