2011年5月25日水曜日

あきらめる

「一切衆生を救う」という教えや思いと同時に、この末法では「万人を救いたいが、救えない」という事実も受け止めなければなりません。

無論、それは数十年の短い一生の中の話で、事象が透徹して見えない人間の尺度に於いて、です。御題目は「種」です。この一生で芽が吹かなくても、必ずいつかは実を結びます。だから、ご信心をする、しない、という限界をも見据えなければならない場合があります。

何を書いているか、思っているかというと、大切なことは、「救いたい」という気持ちが高じて、こちらが曲がらないようにしなければならないということです。

いろいろなケースがあり、いろいろな人がいます。「一切衆生を救う」「この人も救える」と思い、覚悟してその方に向き合います。

「教いよいよ実なれば、位いよいよ下がる」という佛立信行の根幹をなす教えがあります。最近、このことを忘れているのではないかと思って、慈悲心のなさ、その狭さをお折伏してきました。

異体同心の本義については何度も書いてきましたからあらためて書きませんが、妙深寺が異体同心の素晴らしいお寺だとしても、時々仲が良すぎるグループは入りにくくなりますよね。何事も、プラスとマイナスがあるものです。大切なのは、門戸を広く開いているかどうか、しかも、上記の教えをいただけば、「本当の教え、本当のご信心を持つ者は、それが真実であれば、より位の低い、問題の大きい、罪障の深い人を救える、救う(教弥実位弥下)」」ということになります。

「ご信心に気張っている」「異体同心でご奉公している」と思っていていても、その信心が狭くて浅い証拠は、ある特定の資質を持った人にしか説いていない、向かっていない、救おうとしていない、救っていない、ということです。ご奉公でも、気心の知れたメンバーとする方が楽です。でも、それは、「教弥実位弥下」の教えからすれば少し反省すべき点が見つかる。このバランス、この視点を、決して忘れてはいけません。

最初に書いた「あきらめる」ということ。

「教弥実位弥下」は佛立信行の根幹をなす教えです。ですから、お教化も、お折伏も、「一切衆生」に向く。一切衆生を救える。真実なら、位を下がる、下がれる。しかし、自分の狭い尺度で考えたり、そこに欲や執着が入ると、やはり、次の壁がやってくると伝えたいのです。

「何とかしたい」「この人も救えるはずだから」と思ってご奉公することは大切です。しかし、それで御法の筋や自分のご信心が曲がってしまうなら仕方がない。元も子もない。

ご信心が出来る、出来ない、ということは、結果として個々人の罪障、特に謗法の深さによります。無限の愛や慈悲をもって尽くしても、伝わらない、伝えられないこともあります。それも、真実です。今生では、ご信心できない人もいます。自分の問題です。謗法、罪障に負けてしまう人が大半だと言っていい。

それに負けて、それに泣いて、それに振り回されていては、その他のミッション、その他の重大無比のご奉公ができないということがある。だから、こちらのご信心、その人に対するお教化の思い、愛や慈悲はそのまま、むしろ大きく持って、ご祈願を欠かさず、人事を尽くして、その上で、「あとは、御法さまにすがる。あとは、本人次第」と思えばいい。必ず、この一生では憎み合う逆の縁となっても、しっかりご奉公したのであれば、いつか芽を吹くのです。

「一切衆生」へのご奉公と、「万人を救いたいが救えない」という末の世の事実を受け止め、その上で、確固たる信行ご奉公をさせていただくことが大事だと思います。

あとは、本人次第。仕方ない。そう思わなければならないターニングポイントがある。そのことも知って、しっかり菩薩行を遂げていくことが大事です。菩薩行は、永遠のミッション(使命)です。

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