2011年7月9日土曜日

本物中の本物

まさに、本物中の本物の佛立信者。如説修行、そして現証の御利益。

本当に、すべて読んでください。長野の石田さんのお父さま。今でも、その功徳が脈々とご家族に流れています。

だから、本物はすごい。修行が足りないのに、幸せじゃないと嘆くことなかれ。

御教歌
「うたがはで如説修行をしてみやれ
現世において福の御利益」
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「ボロ自転車の行商から電気会社になるまで」
苦闘とご利益の体験談 
by 石田保
(昭和45年 大放光 11月号より抜粋)

<1.骨と皮だった二十年前>

私の入信は昭和24年でした。その頃の私は病身で、電電公社へ勤めてはいましたが、毎日通うのがやっとで、185cmありながら体重45kgという、細くやせてひょろひょろしていました。悪質の慢性胃腸病で、餓鬼(ガキ)道へ落ちたというのはこのことでしょう。喰べたくて喰べたくてしようがなく、喰べるのが何よりの楽しみ。夢にまで喰べることを見る始末ですが、喰べるとすぐに腹下しです。新幹線の特急のような早さで下痢をするのですから、体に何も栄養は残りません。目ばかりぎょろぎょろして骨ばったわたしがお寺へお参りに行くと、皆さんが、あれは肺結核の三期だろうと間違えたものでした。

家内にもその頃を思いだしてよく笑われるのですが、茶箪笥(ちゃだんす)のどの引き出しをあけても、いろんな薬がいっぱいつまっていました。お薬が頼りで次から次へと変えてはいましたが、良くなるどころか段々と悪くなる一方です。医者にかかってもどうにもなりません。ある人の紹介でお灸(おきゅう)の大変上手な丸山さんに診てもらうことになりました。昔から「袖振りあうも他生(たしょう)の縁」といいますが、人と人との交際にも大きな運命があると思います。会社等でもよい社員が入社すると大発展する基礎となります。これこそ御法様のお計らいと感謝する必要があります。私も丸山さんと近づきになったことが、人生に大きな幸運となったのです。

早速お灸をすえてもらいながら一生懸命お寺参詣を始めました。その頃の私は入信後、間もない頃でしたので考え違いなどして御法がわからず、ご利益を頂いて治るまでに三年もかかりました。でもその後すっかり治り、今では体重も74kgになりました。丸山さんも信仰心のある方で、私の教化で入信され今では乗泉寺で立派に御奉公されています。悪い最中に丸山さんによく言われたものです。「貴方はこのままほっておいたら、四十才は持たなかったでしょうと。

<2.ボロ自転車でラジオの行商>

さて、私は商売に魅力を感じていて、是非一度は事業をやってみたいと念願して、お導師にご相談申し上げたりして商売に踏み切ることにしましたが、何分にも資本がなく店もありません。ただ技術だけは身につけていました。過去において通信機やラジオ等の組立修理の経験がありましたので、ラジオの修理販売を始めることにしたわけです。昭和二十七年のことでした。

この頃はまだテレビは流行っておらず、スーパーラジオの全盛時代でしたので、ラジオを売りに歩きました。顔を知っている処を手始めに、一日中歩き廻ったものですが全然売れません。スーパーラジオは当時一万二千円ほどしており、その頃は親子三、四人ならば最低一万円あれば生活出来たものです。ですから一万円余りのラジオは高額で中々売れないものでした。考えてみると売れないのも道理です。店もなく、又電話もないような商人から買ってもアフターサービスは出来っこない。顔こそ知っていても、何処から出て来て、何処へ帰るやら分からない浪人者から高額なものは買えない、とお客さん達は思っていることに気がつきました。信用ほど大事なものはないことを、この時ほど痛切に感じたことはありません。しかし悲しいかな資本がなく、店が持てません。只あるのはボロ自転車が一台だけです。幻滅を感じ空腹をかかえてとぼとぼと家へ帰るのでした。虫がよい話ですが、金がなくても店を持てるようにと懸命にお縋り致しました。

<3.お計らいで待望の店を>

その頃、私は長野市より12km離れた須坂市に住んでいましたが、商売は長野市でなければ駄目だとにらんでいました。須坂市は人口五万程度ですが長野市は二十七万です。そこで毎日自転車で12kmの道を長野までお参りに来ては、長野市内をぐるぐる廻って歩きました。

その頃、金箱さんといって須坂出身の知人で、長野に移住している人の宅へ寄って見ました。この人は昔商売をやっていましたが、現在は店を他の人に貸して自分は奥にいます。いろいろ話の中に、いま店を貸してある人が近々たちのくというではありませんか。これあ有難い、あとを是非私に貸してほしいと頼みこんだら、二つ返事で貴方なら貸しましょうと言ってくれました。地獄で仏とはこんなことをいうのでしょう。ほんとうに金箱さんが仏様のような気がいたしました。しかも貴方なら権利金はいりません。家賃も二千円でよいとのこと。以前金箱さんが商売していた店ですから両側に棚もあり、商品さえ並べればすぐに店になります。間口は一間半、奥行き二間の小さな店ながら、自分で店を持てるということになったので、天にも上らんばかりの嬉しさです。とにかく有難くて有難くてなりませんが、さて品物をどうして仕入れるかということで一思案致しました。幸い仲の良い友達が岡谷市で電化製品の卸問屋をやっているので、そこへ相談して十万円の商品を一カ月一万円宛の返済条件で借りることが出来ました。商品が着いて飾りつけをし、品不足の場所を空き箱を並べて、どう
にかラジオ屋の店らしくなりました。これが私の商売への第一歩でした。

だんだんと軌道にのりお得意さんも増え、一年後には電話も入るようになり店員も一人採用し、それからは順調に伸びて行きました。この時入った第一号の社員が大変優秀で性格もよく、現在まで十八年間、私の本当の片腕として蔭になり日向になりして働いてくれました。この優秀な社員こそ当社の宝であり、こういう因縁こそ御法様のお導きであると感謝しております。教化もさせて頂きまして、今は重役として第一線で活躍しております。

<4.法灯相続のためには家庭の団らんを>

私共は罪障の器です。よい社員に恵まれなければ自分で如何にあせっても、事業を伸展させることも継続させることも出来ません。それもこれもみな持って生まれた果報です。御法門で教えて頂くよい種蒔き(たねまき)をすることが肝心だと思います。

昭和29年には部長のお役を頂き、昼間は商売で忙しいので夜は毎夜ご奉公に歩きました。私は或る先輩からこういうご指導を受けました。部長のお役目は大変です。信者は御法様の子供であり財産で、役中はそれをお預かりしているのである。自分の任期中にこの財産を減らすようなことでは第一御法様に申し訳ない。また自分の果報を減らすことになるから一生懸命やりなさい、とさとされました。ですから部の発展の為に熱心にお助行して歩き、先ずころんでいる杭(くい)から起こそうと罪障をおこしている信者、懈怠している信者を優先的にお折伏して歩きました。その結果、部がとても活発にない、お会式でも参詣の少なかった部が何倍にも参詣者が出て、お導師より表彰して頂いたこともあります。

こんな思い出もございます。私の家庭は家内と子供二人の四人暮らしですが、店員は通勤ですから夜はおりません。或る時、家内が神奈川の妙深寺へ婦人会でお参詣に行き泊まりがけの旅行で、その夜は留守でしたが、いつものとおりご奉公が忙しいので七時頃夕食を済ませて、二人の子供に、父さんはすぐ帰るから留守番をしていなさいと出てしまいました。

ご信者宅へ伺うと、あれやこれやと問題もあり話もありますので、家のことなどすっかり忘れて12時近くになって帰った処、二人の子供(長女が小学二年生、長男が七つ)が、母と私のいない淋しさに、二人でよりそって泣いているではありませんか。しかもひざに抱いた猫までがぐっしょり涙でぬれているのにはびっくりさせられました。

子供心に母のいない父のいない家庭はどんなに淋しかったものかと、反省させられました。私がご奉公ご奉公と飛びまわっているため、子供心に信心に対する反抗心が起きては折角のご奉公も水の泡です。子供に法灯相続させなければ有難いこの御法に申し訳ないと同時に、親子揃って果報を頂くことが出来ません。その後はこの点で色々と苦心致しました。常に子供にご利益を頂いた姿を、見せたり言ってきかせたりしました。幸いなことに二人とも信心を継続することが出来て喜んでおります。

<5.思いがけなく一等地に進出>

さてもとへ戻って、商売も年々順調に伸びて店員の数も二人から三人、五人へと増してまいり、5年たった32年には、狭いこの店では何とも動きがとれなくなりました。長野市は善光寺の中央通りを中心として東の方へ東の方へと延びております。現在住んでいる処は西の方なので、是非東の方へまたお寺の近くへ行きたいと念じておりました。ちょうどその頃、東の七瀬町の五ツ角に信用金庫七瀬支店があり、これが借家住まいだったので反対側へ土地を求めて新築して移ることになりました。この金庫の後が空くというニュースをその近くのご信者篠原さんより聞いたのです。

さて何とか此処(ここ)へ移りたいと思いましたが、場所がよく大変人通りのあるにぎやかな通りで、しかも五ツ角です。ここを買うなどとは、とうてい出来ない高嶺(たかね)の花です。が、もし貸してもらえるならと、篠原さんを通して恐る恐る頼んでみました。この土地の家主は金庫隣りの金物屋さんでした。その頃この金庫の後が空くという評判が広がり、この家主へ売ってくれ貸してくれと申し込みが殺到したそうです。とにかくそれほどの一等地なのです。私が今いる通りには誠に人通りが少なく、雲泥の差です。

さてこの家主さんも有力な申し込みだけでも十何人もあり、選別に困りきったとのことでした。後で聞いたのですが、家主さんの本家から、子供に商売をやらせるから是非貸すようにと強硬な申し入れがあり、困りきったそうです。家族会議の結果、親類は商売が繁昌している時はよいが、営業不振の場合色々まずい問題が出て、仲よい親類づき合いが出来なくなる。こんなわけで、まず本家へは貸さないことになり、次は誰かという問題になって来たわけです。私はひたすら御法様にご祈願していました。

その後、この角地は重要な財産であり、この際売る必要もないので適当なよい人に貸すことになったらしく、その中の一人に私が浮かび上がって来たわけです。先ずこの近くに電気屋が無いこと(近所に同じ商売があってはまずい)、電気屋は町が明るくなって近所がにぎやかになる。それには私の会社の内容調査を他の人と比較する必要が出てきました。御法様のご加護は有難いもので、私のずっと取引している金庫石堂支店にいた次長が、この七瀬支店長として転任していたのでした。こんなわけで私の財政状況から性格まで知っている処へこの家主さんが内容調査を依頼しに行ったわけです。そこで支店長が太鼓判を押してくれました。すっかり私に箔(はく)がついて、縁もゆかりもない私に白羽の矢が立ったわけです。申し込みからご祈願して五カ月目に決定した時は八月で、改装工事をして引っ越しをしたのは十二月の始めでした。その時の嬉しさはとても筆舌ではつくせません。

須坂から裸で飛び出して五年目に、目抜き通りの立派な店がもてたのです。間口四間に三間半の角店、住宅の分が三間半に五間半続いています。いままでは店と住まいが離れていて不便しました。権利金は十万円、家賃は一万円という安さです。もうその頃は内容も充実していましたので商品をどっさり並べ、宣伝カーで開店を披露して、はなばなしく幕をあけました。市内の同業者にも急速な発展をうらやましがられました。

<6.店は満帆に順風をはらんで>

私の生活は大きなことは申せませんが、信心と生活とが一体でした。昭和二十八年に長野へ越して来た時より、ずっと朝参詣を続けさせていただいています。問題が起きて困るとお導師に相談申し上げたり、ご指導を頂いたりしています。お導師はお師匠であり、本当の父親のような感じでお慈悲を頂いてます。先程も書きました丸山さんは私と無二の親友で、二人揃ってよく朝参詣したものでした。二人の為にわざわざお導師は特別に教学的な御法門を説いて下さったもので、そのお陰でだんだんと信心の筋をわからせて頂き、その結果、信心しながら自分の我(が)をとおして罪障を作らないよう、素直な信者になろうと心がけています。

(略)

<7.夜の次には必ず朝が>

昭和38年には事務所と倉庫を建て、工事部を引っ越ししました。この事務所の地鎮祭にお導師にお願いしてお題目をあげている最中に、風が吹いて来て、御本尊が舞い落ちました。まずい事が起きたな!!と感じました。お導師も、罪障のなる土地ですね、とおっしゃいましたが、果たしてその後問題が出ました。

私どもは罪障の固まりのようなものですから小さい罪障はちょいちょい出ます。しかし御法様のご加護によあり、大難は小難に小難は無難にお計らいを頂いています。しかし、過去からのもって来た大きな罪障は、出るものは出ます。しかし一心にお縋りすれば、最後には秋晴れのようにすっきり晴れて定業能転することは疑いありません。昭和44年には社員が30人程に発展してきました。社員の優遇措置も常に考えていました。従業員の持株制度、重役への採りたて、給料待遇の改善、時代に遅れぬよう進歩的な経営、自分の私生活また私有財産等は考えるいとまなく、もっぱら従業員と寝食を共にしてきましたが、突如として労働組合が誕生しました。2月15日のことです。

組合は法律で認められた合法手段ですが、中小企業の我々には痛手です。先ず世間的に大きな批判を受けました。細かい内容については紙面の都合上割愛(かつあい)させて頂きますが、とにかく大変なものでしあ。お導師にも丸山さんにも大変心配して頂き、それはそれはご苦労をおかけ致しました。しかし不思議なもので、この年の11月には組合自身で解消してしまいました。

夜の後にはきっと明るい朝がきます。悪因縁で苦しむこともありますが、御法様はいつもお護りくださいます。寂光参拝まで御題目で頑張りたいと思います。まだ家内の病気等でお救いを頂いたり色々ありますが、紙面の都合上でまたの機会に譲りたいと思います。

私は商売をやっていますので、いつもご有志は喜んでさせて頂くよう念願しております。終わりにのぞみ、お導師・お講師・丸山さん・ご信者の皆さんに色々とご指導ご協力を頂いていることを厚く御礼申し上げ、この稿をとじます。有難うございました。

(了)

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