2013年1月23日水曜日

「裸で立てる人」2004年3月の巻頭言

今から9年前、2004年の3月の寺報に書いた巻頭言、「裸で立てる人」。

いつも、このことを、思っています。

「裸で立てる人」

 信頼(しんらい)されることは、誰もが望むことです。それが恋人であろうと家族であろうと、友人関係や職場の同僚や上司との関係であろうと、「信頼」を得ることは誰にとっても重要で、大切なことです。

 しかし、一体どのようにしたら「信頼」は得られるのでしょうか。色々と努力をしても、結果が思うように表れず、的はずれになり、失望することもあります。スキルアップを図って勉強をし、知識を広め、印象を良くしようと外見を飾り、話し方や立ち居振る舞いを整えてみても「信頼」はなかなか得られません。

 確かに、努力の仕方によって、人は学者にもなり、マネージャーにもなり、弁護士にもなれます。しかし、それらは本当の信頼関係を築くでしょうか。信頼に値する人間の条件と言えるでしょうか。もっと別のところに信頼に値する、人間の条件があると思うのです。

 気がつくと「信頼関係」ではなく、「利害関係」であることの方が多いと感じるのが現代社会です。有能な人も多く、強烈な向上心と自尊心を持って活躍している人がいます。しかし、そうした生き方が幸福であるとは限りません。利害関係が途切れたと同時に壊れる人間関係や愛や友情では、今まで費やしてきた時間や言葉、情熱や努力すら惜しむ気持ちになります。

 人間は、自分を守るために武器を求めます。それは、知識であり、智慧であり、地位であり、言葉であり、外見かもしれません。また、自分の正体を隠すために心に服を着せ、本当の姿ではなく、上辺の姿でカモフラージュを続けている人もいます。表示してあることと中身が異なる食品があるように、人間の偽装が多いとしたらどうでしょう。見比べているうちに消費者の目は肥え、偽装商品は見破られてゆきます。それでも、いつしか自分の偽装と他人の偽装に混乱し、困惑して、そんな騙し合いに疲れ果ててしまいます。

 今や人間にはウソ発見器よりも高感度のセンサーが働いています。オレオレ詐欺(さぎ)など、詐欺の手口も巧妙になってきていますが、長い目で見ればデフレ時代の現代人は、疑い深く、中身に厳しいはずです。特別な訓練をした人ではなくても、誰もが無数の触手で信頼に値する人か、そうでないかを嗅ぎ分けているはずです。虚飾(きょしょく)に溢れた中で、信頼に値する人は誰なのかを自然に嗅ぎ分けようとしているのです。

 だからこそ、信頼を得るために何が必要かを突き詰めてゆけば、外装やテクニックではなく、心の在り方や自分自身への向き合い方、ごまかしのない、真剣な生き方をしている人こそ信頼されるのだと考えられます。爪先立ちの背伸びではなく、等身大の自分が真剣に努力し続けることの方が大切です。

 信頼される人はごまかしがありません。ありのままの自分を表に出せる人こそ、多くの人から信頼されているように感じられます。正直に、真剣に、時には無遠慮に、信頼に値する人間になるためには、真実を、特に自分自身について、「ありのままの真実」を語れる人にならなければならないといわれるのです。たとえ、上辺が立派で、弁舌がさわやかでも、子供の語る真剣な眼差しには叶いません。

「私は数年前まで、裁判には全て勝っていました。その頃は、反対尋問も出来ませんでしたし、議論も出来ませんでした。でも勝っていました。長い間に法廷弁護士が学ぶべきコツを身につけました。有能にもなりました。でも、もう勝てないような気がします。テクニックを磨けば磨くほど、負けていくのです」

 これは、シカゴの若手弁護士が発した苦悩の言ですが、司法制度の異なる米国では、まず陪審員に信頼されなければ裁判に勝つことが出来ません。この言葉は、その信頼が、テクニックとは無関係で、むしろ未熟で、苦悩や不安が見え隠れしていた時代の、正直な言葉、率直な意見が、陪審員の心に響き、信頼を得ていたということを告白した言葉です。

 常々御法門で「素直正直(すなおしょうじき)」なることの大事を教えて頂いています。本門佛立宗の信仰は、真実の仏教ですから、脚色や虚飾を嫌います。開導聖人はそうした生き方の範を示されたような方で、地位の高下、知識の有無、衣の立派さを問わず、ただ「心」「ご信心」の在り方を問われ続けました。それは、裸で立つことの強さを誰よりもご存じであり、結局は外装やテクニックやツールに執着するよりも、裸で立つことの出来る人こそ、誰より強く、敵対する人すら味方にし、疑い深い多くの人からも信頼され、御仏の教えを伝える菩薩(ぼさつ)の生き方が出来るということを教えて頂くものです。

「裸で立てる人」とは、外装に囚(とら)われ、真実を語らない人間から、より真実に対して、自身に対して、真剣に、素直に、正直に向き合う人のことだと考えます。

 権威主義に陥った諸宗を痛烈に批判した開導聖人は、

「当宗は信心宗にて信者を尊貴す。故に寺の大小、僧侶の高下をいはず、其の人の信心の堅固強盛なるを貴む」

と御指南遊ばされ、最晩年には、

「清風はどんなおやじと人とはゞ なんにもしらぬ真の俗物」

と御教歌遊ばされました。ここにこそ、開導聖人の宗教者としての偉大さを痛感いたします。現世で袈裟の色を競い、名誉職を求める宗教者とは、天と地ほどの違い目を見せ付けてくださいます。多くの宗教者が生きている間は神の如く敬われ、死して後に徳を汚されるのとは、全くの正反対です。

 地位を信じ、テクニックを盲信していると、ふとした時に空虚な自分を発見してしまいます。地位ではなく、経歴を忘れ、服を脱ぎ捨て、知識を超えた所に立てるかどうか。たとえ、言葉が通じなくても、衣が汚れていても、地位はなくても、心で、瞳で、眼差しで、人に伝え、訴えられるものがあるかどうか。上辺だけ繕って、騙し騙し、誤魔化して生きている人は、何も伝えられず、信頼もされず、利害関係しか作れないのではないでしょうか。

 例えば、ご信心は自分の悪しき業や癖と向き合うものです。そこから目を逸らし、誤魔化していて信心修行になるはずがありません。愚かな凡夫の等身大の謙虚さと、志高く生きようと努める使命感と、双方を持ち合わせて、ありのままの自分が正直に改良を重ねていくことが真の菩薩の姿と感得します。

 いつか裸で立てることを目標に、愚かでも、等身大の自分を磨き、真剣に生きてゆきたいものです。

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