伏見は淀川から引いた美しい疏水があって、うらやましい。風に揺れる柳も、ここでこそ映えます。
万葉の一節。
情景が浮かぶ、美しい言葉たち。
「桃の花 紅色(くれないいろ)に にほひたる
面輪(おもわ)のうちに 青柳の
細き眉根(まよね)を 咲(え)みまがり
朝影見つつ 娘子らが
手に取り持てる まそ鏡
二上山(ふたかみやま)に 木(こ)の暗(く)れの
茂き谷辺(たにべ)を 呼び響(とよ)め
朝飛び渡り 夕月夜
かそけき野辺に はろはろに
鳴く霍公鳥(ほととぎす) 立ち潜(く)くと
羽触れに散らす 藤波の
花なつかしみ 引き攀(よ)ぢて
袖に扱入(こき)れつ 染(し)まば染(し)むとも」
藤の花を散らす鳥の、初音や忍音が聴こえてきそうです。
この季節、藤ではなく、色が服に染みるのも忘れて、桜の花びらを袖の中に入れてしまいたくなりますね。
さくら、さくら。
「袖に扱入れつ染まば染むとも」
すてきだ。
きたない言葉、傷つける言葉、うぬぼれた言葉、酔った言葉、飾った言葉、偽りの言葉があふれた世の中で、静かに、ゆっくりと、桜花を見て過ごす。
御教歌
さくと見ば やがて桜はちりそめぬ
花やなるるを いとふ成らん
さようなら。
桜は慣れるのを嫌うのですね。
妙法蓮華経・如来寿量品にあるとおり、いつもそこにあって慣れてしまうと、もはや何もかも忘れ、どうでもよくなってしまう。それが、強烈な謗法と罪障を背負う者の宿命なのです。
「若し仏、久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず、貧窮下賎にして、五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん。」
「若し如来、常に在って滅せずと見ば、便ち憍恣を起して厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わじ。」
「常に我を見るを以ての故に、而も憍恣の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん。」
こうして説いてくださっているとおり、無常を無常として、しっかりと受け止めて、本当に、一瞬一瞬を、大切にしてゆけたら本物です。
「憍恣」とは「おごりたかぶって、わがままなこと」です。
「放逸」とは「節度をわきまえず,勝手気ままに振る舞うこと。だらしがなく、乱暴なこと」です。
「五欲」とは「したや のみたや かねほしや ねむたや 人によくいはれたや」で、「財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲」のことで、朝から晩まで始終これらに執着し、本当の道、ご信心の道を歩むことを忘れてしまうという意味です。
「常に我を見るを以ての故に、而も憍恣の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん。」
残念ながら、末法に入り、お祖師さまから上行所伝の御題目を頂戴し、お寺や自宅に御本尊をお迎えして、いつもそこに尊い御法さまがおられる、あちこちにお寺がある、行けば御講師に会える、あの人もいる、と思っていると、この法華経で御仏が説かれたとおりの状態になる。
憍恣で、放逸で、五欲に執着し、それらが先行して、残念ながら悪道に堕ちてゆく。
実は、苦しんで堕ちてゆく人は少なくて、とっても楽しいんです、堕ちてゆくのは。
みんな、笑顔で堕ちてゆくのです。だから、悲しいし、哀れなのです。
「信心は、かななやうにてむづかしい。」
「信心つよけれども筋わろし。筋よけれども信心よわし。」
開導聖人も、当然ながら、門祖聖人も、お祖師さまも、み仏も、ここを知り尽くして、導こうとされたからこそ、大変なご苦労をなさったのだと思います。
それにしても、すばらしい。
是非、お花見をされる際には、思い起こしてくださいませ。
「さくと見ば やがて桜はちりそめぬ
花やなるるを いとふ成らん」