簡易ベッドが9時まで。その後は小さな漫画喫茶コーナーに移る。
信仰師と清従師、佐藤さんと寺西さんが、夜を徹して大船渡に入っている。お昼の合流まで、漫画喫茶の小さな個室の中でパソコンを開き、原稿を書いたりしていた。
3年前は40を過ぎたばかりで、もう少し元気だったのかな、と思う。
数日分のおにぎりを持って勢いよくお寺を飛び出し、服を着たままテーブルの下に潜り込み、寝袋で寝た。
何日間も、何回も、そうして横浜と東北を往復し、何ともなかった。
でも、もう3年か。
45才にもなった。
まだまだ、頑張っておられる先輩がたくさんいるから、弱音など吐けないけれど、今朝は身体がギシギシ言っている。
スリランカから帰国して、横浜からすぐに京都、京都から花巻、陸前高田、大船渡。
さっき、大船渡に入り、来渡ハウスでみなさんと合流。
そう、みんな元気にご奉公くださっている-。ありがたいー。
佐藤菩薩、寺西菩薩、めっちゃ元気。
見習わないと。
京都佛立ミュージアムの「ハチドリのひとしずく展」の御礼のため、佐藤さんに東海新報社さまに連れていっていただきました。
大船渡から碁石海岸へ。
その小高い丘の上に、東海新報社のきれいな社屋がありました。
「ハチドリのひとしずく展」は、まさに東海新報社さまから提供いただいた写真によって成り立っています。
そして、まず、あの、僕たちが選ばせていただいた、正面入り口の1枚、気仙川を上ってくる第一波であろう津波を捉えた写真が、どのようにして撮られたか、その真実をお聞きしました。
あの1枚も、命がけの1枚でした。
1枚1枚に、壮絶な真実の物語があります。
気さくな、本当に温かい、鈴木代表-。
そして、明るく、やさしい臼井さん。
佐藤さんはもちろん、この方々がいなければ、「ハチドリのひとしずく展」は出来ませんでした。
本当に、ありがとうございます。
そして、もうひとつ、大切なものを見せていただきました。
3年前の、今日の新聞です。
3月10日の東海新報。
そこには、3月9日に起きた地震と津波についての記事がありました。
何より、鈴木代表が書かれたコラム『世迷言』には、翌日に発生する大地震と大津波を予感して、警戒を呼びかけているかのような文章が書かれていました。
「関係ない。当たり前のことを書いただけだよ」
そう仰っていました。
でも、いつになっても、今でも、読み返さなければならない、大切なことだと思います。
来渡ハウスでは、20時から慰霊法要の一座、20時半からボーズバーを開催します。
その前に、文字起こしをしてみました。
是非、お読みくださいー。
<東海新報 2011年3月10日付 「世迷言」 >
「沿岸養殖漁業に大被害をもたらしたチリ地震津波の襲来から1周年を数えたばかりの昨日昼前、今度は三陸沖を震源とする地震が発生、太平洋沿岸に津波注意報が発令された。同沿岸に押し寄せた津波の最大が大船渡で60センチというその規模はともかく、「発生」したということ自体が今後への警鐘だろう。
昭和35年、海の向こうのチリからはるばる押し寄せた<初代>は、沿岸各地に甚大な被害を与え、特に気仙沿岸は最大の被災地となった。その後50年経った昨年2月28日、再びチリから<2代目>が訪れ、養殖施設などにがいけんのがいけんの潮位からだけではうかがわれないうかがわれない深刻な爪あとを残していった。それから1年後のまた<招かざる客>である。
地震国日本では、地震の脅威から逃れようにも逃れきれない宿命を負っている。沿岸部はそれだけでなく津波の派生を余儀されかねない宿命をも併せ持っている。それがいやなら内陸部へ移り住めばよさそうなものだが、少なくとも津波を理由に移住したという例を寡聞にして聞かない。いかなる不安も海の魅力の前には抗えないのである。
もっとも列島を襲う台風や低気圧、ゲリラ豪雨などの天災には津波に勝るとも劣らぬ?威力を持つ超弩級があって、大規模な被害ともなると津波とそう選ぶところがない。つまり日本という国は、恵まれた自然条件と引き替えに、天災の恐怖と<共生>しなければならないのである。
注意しなければならないのは予告なしに突然襲ってくる津波(1933年ホッ回答南西沖地震で発生した津波は奥尻島で約30メートルを記録)もあることである。既知体験などアテにならないのが天災というものだ。」
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