御法門にあるとおり、ダメだと思っていたことが、ダメでなくなるのがご信心であり、本当のご奉公。
簡単にあきらめたり、簡単に人のせいにしたり、天気のせい、世の中のせいにしたりして、子どものような解決策を言って平然としているのは、愚かの極みです。
ダメなものがダメでなくなるか。
大丈夫だと言っていたものがダメになるか。
絶対に会えないと言われていた相手と会える、週に二回しか出勤しない方と会い、絶対に許可は出せないという方々が「出しましょう」と言ってくださり、貸せない、作れない、ということが変わる、間に合わないが、間に合う。
時間も変わり、体も変わり、心も変わる。
港湾警察の方が断固として「絶対にダメだ」と言っていたのに、その当人が、「分かった、来い!」と言って連れて行ってくれる。大丈夫になる。
そんな連続で、今日も、昨日も、本当にありがたかったです。
「大丈夫になるのです」
この国で、こうなることが、法華経のご信心、その人のご信心、ご奉公。いつも試されている。試験です。
それを、伝えたいし、教えたいのに、伝わらないし、学べないのは悲しいこと。
お金ではないし、時間でもないし、天気でもないのです。
ダメなものが、ダメでなくなるし、そういう奇跡、そういうご利益をいただくのがご信心である。
そして、そういう現証の御利益をいただくには、ギリギリまで走り回り、ギリギリまでねばり続け、何度も何度も頭を下げ、何度も何度もお願いして、それでこそ、ハチドリのように、キジのように、「至誠、仏天に通ず」で、現証の御利益が顕れる。
それを、教える、伝えるのが、ご信心ではないですか、ご奉公ではないですか。
喜びがないのは罪障です。
だとしたら、喜びを伝えられないのは、罪障です。
すべて、御法門の、中の、いい話ではないのです。
それは、違う。
いつでも、どこでも、どの国でも、誰でも、実体験できる、実体験すべき、ことなのです。
そのためのご奉公であり、そのことをご奉公というのです。
そう、教えていただきました
ありがとうございます。
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