19時からボーズバー。福島県いわき市の仮設からお越しくださった遠藤さん。お会い出来て、楽しいお話をお聞きすることができて、よかったです。
はじめてお参詣くださったのに、御法門を聴きながら、涙が出て仕方なかったとのこと。お話しするととっても明るい御方なのですが、法要が終わってからもしばらく泣いてくださっていました。
「なんか、波長が合っちゃったんだな。」
この2日間、噺家の先生方のお話をお聞きし、たくさん学ばせていただきましたが、これほど有難いお言葉はありません。しかも、その内容は、特段なにかを狙ってお涙をいただくようなお話ではありませんでした。
ただただ、「法華経に説かれたお手本」というテーマでお話をしたのでした。
「お手本」
そう、誰をお手本に、何を目標にして、毎日を過ごすか、生きるかで、人生は劇的に変わります。その意味も完全に変わる。向かう場所も、変わるのです。
行動を変える。
行動を変えるしかない。
なかなか、僕たちは、そうならない、そうなれない、忘れる、薄れる、迷う、怠る。
けれど、「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」と、確かめに確かめ、言い聞かせに言い聞かせて行動できたら、生きてゆくことができたら、今回の、人生そのものの意味が、変わってく。
坂本龍馬を書き、坂本龍馬を通じて、幕末・維新の仏教改革者、生きた仏教を民衆の下に帰した長松清風を書きました。
龍馬は、生きた仏教による世界を築こうと願っていた。
その最前線に、長松清風がいた。
法華経信仰に生きる世界を、宮沢賢治は、私たちに身近な言葉で、作品で、その一生で、教えてくれました。
雨ニモマケズとデクノボーは、法華経に説かれたお手本でした。
Budismo Primordial
Primordial Buddhism
「Primordial」とは、「原始(時代から)の」「原初の」「根源的な」などの意味があります。
仏教(法華経)用語で言えば、「本門の」「久遠の」「本化の」ということになるのです。
「本門」というのは法華経の後半のことです。
法華経は全部で28章ありますが、第1章から第14章の前半を「迹門」、第15章から第28章までの後半を「本門」と言うのです。
何の違いがあるかと言えば、後半で、それこそPrimordialな、根源的な、仏さまが「そもそも、なんで仏になれたのか」という根本的なことについてお説きになられているから分けているのです。
本当の姿、根源的な存在を、表明した前と後とでは、御法門の内容が変わるのは当然です。
だからこそ、前半「迹門」、後半「本門」と分けるのです。
そういう難しい用語や解説はともかく、賢治が『雨ニモマケズ』の結び、「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」と書いた続きには、御題目の御本尊さまのように、中央に「南無妙法蓮華経」、その左右に「南無釈迦牟尼仏」「南無多宝仏」とあり、さらにその両側に、4人の菩薩のお名前が書かれていました。
上行菩薩を筆頭とする4人。
その方々は、この法華経の本門、つまり後半部分、しかも第15章から第22章まで(本門八品)の間だけに登場する菩薩方なのです。
私たちが、御題目をお唱えする前に、呪文のように唱える「本門八品所顕 上行所伝 本因下種の」ということと、とっても深く関係しています。
大切なこと。
この4人の菩薩の方々を、「本化の菩薩」とお呼びします。
賢治さんが、『雨ニモマケズ』に続いて記した御題目の、両脇におられる菩薩方。
妙深寺の本堂にいただいている御本尊さまも、全くように、御題目の上方、両脇に釈迦牟尼仏、多宝仏、そして、そのさらに両脇に、本化の四菩薩がおられます。
私たちのお手本です。
しかし、この本門八品、「Primordial 8 chapter」とも言います。いや、そもそも、僕は、「Primordial」は「本門八品」のことしか指さないと思うのですが、とにかく、この本門八品の中に、もうお一人、菩薩が登場されます。
それが、「常不軽菩薩」という御方です。
この方は、あまりお経をお読みになったりせず、ただ市井の中に入って、礼拝の行を行ったと説かれているのです。
「我れ深く汝等を敬う。敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと(私は深くあなた達を敬います。決して軽んじません。なぜなら、あなたたちは皆な菩薩の道を行じて、成仏することができるからです)」
そう言って、歩いて廻ったというのです。
しかし、それを見て、当然ながら周りの者は気味悪がる。怒り出す者もいる。
「坊主、てめー、なにやってやがる!」
「縁起でもない。手なんか合わすな!あっち行けー!」
棒っ切れで叩き出す者、瓦礫をつかんで投げつける者もいたと書かれています。
しかし、この菩薩は止めなかった。
すこし、遠くに退くことはあるのですが、また同じように、振り返って、みんなのことを拝むのです。
これが、私たちのお手本だというのです。
しかも、この不軽菩薩は、お釈迦さまの前世のお姿であったと説かれます。
だから、御本尊さまの中にお名前がない。いや、「南無釈迦牟尼仏」の中に、入っておられると考えていい。
仏教はただの哲学ではない。
仏教はアクションである。
なぜ、そんなことを言うのか。
お手本が、この常不軽菩薩だからです。
考え込んでいる前に、行け。
そう言われそうです。
お祖師さまは下記のとおり記しておられます。
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云い、はかなきを畜といふ」
お釈迦さまがこの世にお出ましになったのは、僕たちのアクションを何とかするためです。
いいお手本を持って生きて、やっと人になる。
それがなければ、畜生と変わらないような生き方をしてしまうのが人間です。
人間は、人間に育てられないと人間になりません。
教育学ではいつもオオカミ少女の事例が紹介されます。私も大学の教育学科で学びました。
オオカミに育てられたら、僕たちは四つ足で歩き、手を使わずに食事をするようになる。
教育学者たちが躍起になって、発見されたオオカミに育てられた少女を教育します。マイ・フェア・レディーのように。
彼女は、歩くように、少し話せるようにもなりました。
しかし、私たちはそこから教育の大切さと、教育の限界を学びました。
そして、幼児教育の大切さ、人間らしさを伝える義務、親、家族、周囲、社会の責任を思い知ったのです。
また、だからといって、ある程度成長した人間は、親や周囲のせいにして済むわけはなく、何よりも自分自身でいいお手本を見つけ出し、「人間」として、「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」と、自身を磨き、生まれ変わり、死に変わりしてゆく永遠の時の中で、今回、たまたま人間に生まれることが出来た自分自身の命を、この千載一遇の二度とないチャンスを、最大限有効に活かせるように、生きるしかない。
それしかない。
人間に生まれることが出来たのに、動物のように生きるなんて、もったいないです。
それは、きっと、人間に生まれるよりも簡単で、これから何度でも機会がある。
どうせなら、「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」と、いいお手本を見つけて、そこに近づけるように、努力したいではないですか。
そして、ブラジル展なのです。
全部、つながっていることを、書きたかっただけなのです。
龍馬から清風、清風から賢治、賢治からハチドリ、ハチドリからキジ、キジからブラジル、日水上人。
ブラジルに仏教を伝えた開教の祖・茨木日水上人の資料、ご自伝、コレイア教伯師が書かれた『権大僧正列伝・茨木日水上人』を読んでも、本当に、ここにお手本があり、心が熱くなるのです。
何としても、このお手本を、実践を、生涯を、お伝えしなければならないと思います。
ポルトガル語で作られた『日水上人の歌』の歌詞に、
「あぁ日水上人、あなたのように強くなりたい」
とあります。この言葉が、頭の中、心の中で、
「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」
と、何度も何度も重なるのです。
全部、つながっているのですね。
大切なことは、昔話にせず、「感心上手の信心下手」にならず、僕たち一人ひとりが実践することです。
歴史を学ぶだけではなく、歴史は今なお作られていることを知って、自身の命を精一杯使うことです。
先ほどご紹介した常不軽菩薩のお言葉は、法華経の中では24文字です。不軽菩薩のご奉公の大切さ、姿勢の大切さ、この24文字の大切さを、お祖師さま・日蓮聖人は次のように記されております。
「彼二十四字と此の五字と其語殊なりと雖も其意是れ同じ。彼像法の末と是の末法の初と全く同じ。彼不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり。」
写真は、ブラジル・リンス市の大宣寺にある、日水上人のご遺骨を安置した記念塔です。
長くなってしまいました。
いま、長野に向かっています。今日は長野教区の教区御講です。精一杯、ご奉公させていただきます。
今夜は、20時半から、またマグマヨガスタジオでセッションを行いますー。
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