あまりにも人間たちが変わってゆくから、変わらないものに手を合わせたくなるのでしょうか。
ガンジス。
マハーバーラタの時代から人びとの信仰を集める川であり、この街。
ワーラーナシー。
〝大いなる火葬場〟と呼ばれる聖地。
〝葬儀場がある街ではなく、街が葬儀場なのだ〟
人びとは、末期の水もガンジスの水から取ると言います。
そうして輪廻から逃れるのだと。
少し路地を入ると小さな部屋がいくつもあるアパートがあり、死を待つだけの老人が横たわっています。
ゆっくり川を下ってゆくと、川辺で焼かれてゆく人間を見ます。
日本では、病も、老いも、死も、死ねば身体を燃やして灰になるということも、なにか自分と遠いところにあります。
豊かになって忙しくなり、賢くなって信仰を失い、家族や地域の絆も弱ってしまいました。
病人は病院へ入り、老人は老人の施設へ入り、遺体はキレイな火葬場の扉の向こうに消えてゆきます。
大切なことが、遠くにあるように感じます。
でも、ここには、人間の生と死が、つまりは自分の生と死が、とても身近にある。
お祖師さま、日蓮聖人は〝臨終のことを先に習へ〟と仰せでした。
人間の生と死を、身近に置いておくと、生きれるようになり、死ねるようになるということでしょうか。
〝非日常〟にしていると、修行にならないことが多過ぎるのです。
見えないものは多すぎます。
せっかく生きているのに、見えてなかった、見ていなかった、見ずにいた、目をそらしてた、誤魔化していた、では勿体無いです。
最初で最後と思っていたガンジス川から昇る朝陽を、もう一度見ることができて、幸せでした。
信仰の原点を、大気、景色、光景、炎、煙、臭い、熱さ、冷たさで、学び直すことが出来ました。
大いなるリセット。
いま、今回の旅で最もきつい、バスの移動10時間。
ベナレスからクシナガラへ。
昨夕、次期首相になることが決まったモディ氏が、今日私たちが行った場所に来てガンジスに祈りを捧げたとのこと。
このことからも分かるとおり、彼は敬虔なヒンドゥー教徒です。そのために宗教対立を助長したという批判も受けています。
米国との関係もどうなるか。
それにしても、すべてのタイミングが不思議なものです。
ガンジス川は、何も教えてくれない。
とにかく、もっと生きよう。
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