2017年5月1日月曜日

「サントス君のように」 妙深寺報 平成29年5月号 巻頭言

4月25日、ネパール大地震から2年目を迎えました。


三月末、私はネパールに出張し、ヒマラヤ山脈に連なるランタン渓谷を訪れました。主峰のランタン・リルンは標高7234メートル。様々な顔を見せる渓谷は、大地震の前まで「世界で一番美しい渓谷」と呼ばれていたそうです。


しかし、現在の渓谷は地崩れの跡が生々しく残り、美しさと共に痛ましさを感じる場所です。


2年前の大地震では、行方不明者403名、内131名が外国人。これは大地震から1週間後、長老も体験したことのないブリザード(暴風雪)が渓谷を襲い、人々を家ごと対岸まで吹き飛ばしたことによります。この大地震と巨大暴風雪によって、多くの木々がなぎ倒され、風景を一変させたのです。


現地からこの場所でご回向させていただきたいと連絡が来ました。目的地は標高4900メートル。私にとっては未知の体験です。


しかし、ネパール大地震の支援活動から始まったご奉公、現地のメンバーの想いを考えると断ることは出来ないと思いました。自信は全くありませんでしたが、挑戦することにしました。


スンカニ村の親会場からバイクに二人乗りや三人乗りをしてランタンに向かいました。約6時間。やっと登山口の村に着くと、そこはチベットとの国境から車で20分という小さな村でした。そのまま休憩もせず登り始めましたが、日頃の運動不足がたたり、苦しくて苦しくて仕方ありませんでした。


標高3500メートルの山小屋で寝ている時、息が苦しくなって死ぬかと思いました。申し訳ないことですが、4900メートルは断念し、翌朝その少し上の場所でご回向の一座を奉修いたしました。


想いが溢れて、涙が流れました。凍てつく風に吹かれて、涙も凍りそうになっていました。


下山中、標高2400メートルの山小屋に宿泊しました。夜遅くまで私たちの食事中に給仕してくれていたのが10才のサントス君でした。


赤いシャツに白い星のシャツ。下の方は色が褪せています。学校を辞めて働いているのだそうです。


「こんなに遅い時間まで家の用事を手伝って、偉い子だなぁ。」


同い年の次男と比べて感心していました。


翌朝、出発しようとするとサントス君も一緒に下りると言います。その理由を尋ねると、


「下の山小屋でも働いているから」


と答えました。この山小屋は自分の家ではなかったのです。


「両親は遠い場所にいる。学校を辞めて働きに来たんだ。月の給料は4000円。でも僕は必要ないからすべてお父さんに送っているんだ」


10歳の少年が送る過酷な生活を目の当たりにて言葉を失いました。


険しい道のりを案内するように、サントス君は私のジャケットを持ってくれてピョンピョンと下りてゆきます。お父さんにお祭りで買ってもらったという帽子を肌身離さず持って大切にしていました。


「でも僕、本当は学校に行きたいんだ」


彼のつぶやきを聞いた時、サントス君の里親になりたいと思いました。下の山小屋の女性に意向を伝え、連絡先を渡して別れました。


貧しさと、素直さ。感謝の心と慢心。


貧しくないと分からない、病気にならないと分からないこと。


pacoさんを覚えておられるでしょうか?兼子清顕師がまだ大学生の頃、妙深寺のインターネットの掲示板に書き込まれた女性です。夫の借金のために性風俗店で働かざるを得なくなり、そのお仕事で病気にもなり、何度も自殺を試みました。そんな中、このご信心と出会い、救われたというのです。ところが、ご自身の境遇をお寺の人に伝えたところバイ菌のように扱われるようになり、深く傷つき、書き込みをされました。


清顕師が丁寧にやりとりをしてくださり、彼女は元気を取り戻し、ご信心も取り戻してくれました。今でも彼女が誰か知る由もありませんが、決して忘れられない、本当にありがたいことでした。


ここに、彼女から届いた最後のメッセージがあります。この言葉、この彼女の心こそ、忘れることが出来ません。


「本当に本当に有難い。ただそれだけです。私のように汚れきった人間は幸せにはなっちゃいけないのだろうか?ただ命を費やすだけの人生を歩んで行かなければならないと思い込んでいました。しかし、ご住職が今回ホームページに載せていただいた御教歌を拝見させてもらう度に涙が止まりません。


やっと、あの仕事を辞める事が出来ました。まっとうな仕事にも就くこと出来ました。


今は少し身体を休めています。


こんなご恩を受けたら、次は誰か本当に困っている人をご信心で救ってあげる番ですね。そうしなければ罰があたりますね・・・。


妙深寺の桜は今咲きかけてますか?この数年、太陽と無縁な個室で自分を殺して仕事をしていたので春の陽気に咲く桜など見る余裕もありませんでした。本当に美しいんでしょうね。


この数日、糸の切れた蛸の様に、力が出ずふわふわしています。


でも妙深寺に咲く桜を見に行き、御参詣させて頂ければ生きる希望が湧いて来る気がします。本当にありがとうございました」


毎年、美しく咲く妙深寺の桜。妙深寺の桜に、生きる希望を見出す方もいます。しかし、いかに美しく咲いていても、当たり前に咲くと思えば感心しているように見えて心は薄く、価値も薄れるでしょう。


幸せに溺れてはいけない。幸せに迷ってはいけない。


有難さを、感謝を忘れてはいけない。


様々な人がいて、様々な人生があります。


「無病の人、掌を合すことを恥ず」


「何もなかったら人はご信心することを恥じる」「格好悪いと思って、ご信心しようとしない」と開導聖人はお示しです。


恵まれて感謝を忘れ、自己主張ばかり強くなる人。


いつしか何事も人のせいにして、奉仕も報恩も無くなる人びと。


人の性を思うと虚しくなります。


貧しさの中、病の中、トラブルの中でしか気づけない。だとしたら人はあまりにも愚かです。そんなことは誰も望んでいないはずです。


御教歌

「きはまりて かなしき時にあらざれば まことの信はおこらざりけり」


人の性がご信心を難しくします。恵まれた、普段の信行ご奉公から精進できる自分でありますように。


サントス君のように、pacoさんのように、純粋な気持ちを取り戻したいものです。

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