昨夜遅く、無事にスリランカから帰国いたしました。
本当に、今回の出張は過密でしたが、それはそれは濃密で、有意義なものとなりました。
17日にインドの清朋が一時帰国しますが、モディ首相の参加とセレモニーで行ったメッセージは、不安定なインドのご弘通にとって心強いことです。
ウェサック中、モディ首相の隣りに座っておられたのは先日来日し、本山でご講有、ミュージアムで福岡御導師に面会、夜は長松寺にお泊まりになったラージャパクサ仏教大臣。
スリランカ仏教省と深まった関係も含めて、本当に有難いことです。
また、この出張中、キアヌ・リーブスが主演した『リトル・ブッダ』の監修を担当した教授とお会いし、様々な課題、現状、未来について意見交換することも出来ました。
米国での仏教について、僧侶のトニーが言っていたことも、示唆に富んでいました。
私たちは「謗法に似たり」という行為を「相似の謗法」と呼んで戒めます。
たとえば、ポリシーなく神社や仏閣を巡ることは相似の謗法に当たりますし、他の僧侶と安易に交わることもこれに当たります。
しかし、この「戒め」と「不軽行」「菩薩行」のバランスをしっかりと取らなければご弘通になりません。
蓮の花は泥の中に咲く。
綺麗な水を求めて咲こうとしても栄養が足らず、蓮華は咲かない。
西山茂教授は「内棲宗教」と言いました。
しかし、これは佛立仏教の本質や開導聖人のご真意、佛立の真価、次の段階へと歩みを進めてきた事実を除外した初期佛立を指した解釈です。
佛立仏教は、当初から「内棲」ではなく「核心」であり、この「核心」から全世界へ伝播する実体です。
「仏教」という「イメージ」。
これが全世界の仏教を覆っている実態です。
海外では浄土教のことを総称して「Pure land」と呼びます。
しかし、その実際の現場は「浄土教」の詳細を伝えるものではなく、誰もが感じている「仏教」というもののイメージを背景として「内省」を説いたり「輪廻」を説いたり「平和」や「協調」「慈悲」を説きます。
それが「Pure land」の教義かというと首を傾げざるを得ず、しかしこうした「イメージ」や「雰囲気」に集い、手を合わせていたりします。
トニーが言っていたけれど、アメリカに仏教が渡ってからわずか200年。
世界が仏教を求め、世界中の人びとにとって仏教が普遍的な価値を持つと思われるのに、まだ「本質」に迫ることは出来ていない。
それは、誰もが抱いている「仏教」への期待、たとえば「ダライ・ラマは好きだけどチベット仏教は知らない」ということに似ています。
日蓮系の新宗教でも同じことが言えます。
「日蓮聖人」を「本仏」としてインドの釈迦を捨てる宗派の教義は、日本ではその核心であってもスリランカでは説いていなかったりします。
本門佛立宗では、こうしたことを丁寧に積み上げて、体系的に、実践的に説き、伝えています。
それは、あるようで無い、本当に希有のことで、世界的に見ても珍しい存在です。
久遠実成のシャカムニブッダ、本化上行菩薩の後身・高祖日蓮大菩薩、三祖一轍、現証の御利益をいただける下種のご信心、初期仏教に通じるシンプル極まりない、ノーコンプレックス、ノージンクス、ある意味ではノールール、ノーレギュレーションの、僧俗一体、教講一体の、ご信心。
その佛立仏教の本質を際立たせること。
本当の始まり。
「御本尊」を言葉で説明する時も、その国々や宗教文化にあわせて、「object of worship」から「ダルマカヤ」、「ダルマカヤ」から「ブッダ・マンダラ」へ。
「御題目」を分かりやすく伝えようと「マントラ」と言うこともありますが、スリランカではこれを「ガータ」と言い換えたり。
ヒンドゥー文化圏では「マントラ」が分かりやすいけれど、スリランカでは「ガータ」の方が一般の人にとって理解しやすい。
この100年、特にこの20年、劇的に変化してきた世界。
マイナスもありますが、佛立仏教がその使命を果たすべき時を迎えていると思います。
少なくとも、私はそのように思っていますし、勉強会でこうしたテーマについてしっかり議論してゆきたいと思います。
スリランカから帰国し、今夜は長松寺のお総講、明日は7時半に名古屋、午前中に長野県飯田市で御講、そしてお師匠さまと田植え(笑)、翌日は長野市内に移動して地鎮式、午後は上田市に移動して御講。
海外でも、国内でも、一つひとつのご奉公を大切に勤めさせていただきます。
ありがとうございます。
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