今年も年の瀬を迎える。出会いもあり、別れもあり、喜びも痛みもあった一年を振り返る時。
立正安国論の上奏750年目を記念した御正当年。お祖師さまの御意の一分でもご理解いただけただろうか。簡単に申し上げれば、それは正しい信仰を持たない限り、様々な問題が解決することはない、安穏で幸せな日々が訪れることはない、ということだ。
三年間、このことを繰り返して学び、肝に銘じようと呼びかけてきた。一人一人の心に、暮らしに、このお祖師さまの御意がどれだけ深く刻まれ、活かされているか、振り返っていただきたい。
古いお経文に残る御仏の教えに、「泣きながらでも善いことをせよ。悪いことをするな」とある。日々の生活に追われていても、因果の法則を忘れて生きてはいけない。「泣きながらでも」、為すべきこと、善いことをしなければならない。
仕事でも家庭生活でも、自分の努力や忍耐次第で何とかなることもある。そう思っても間違いではないだろう。
しかし、それだけでは世や人を焼き尽くす「業火」は消せない。それは、自分も、家族も、友人も、周りの人をも焼き尽くしてしまう。誰の心の中にも貪瞋癡という三毒の炎がくすぶり、燃え続けている。
残念ながら、私たちの「気持ち」「気分」は常に三毒に左右される。故に、真理の側にあることの方が少なく、それ以外のことで満足や気持ち良さを得る。自分の気持ちに任せて生きることの方が気楽で、自分のやりたいように生きた方が常に都合が良い。
怠けた方が楽。奪った方が簡単。怒った方が正直。愚痴ったら気も晴れる。断った方が面倒じゃない。しかし、そのままでは、恐ろしいことになり、恐ろしい結果になり、信心も良い生き方も出来はしない。
万物の霊長と称えられる人間が動物よりも愚かで恐ろしい存在、鬼か悪魔のような存在になるのは、実に、「気分」「気持ち」に任せて生きているからだ。気分に任せて生きる人間よりも、本能に従って生きている動物の方がよほど安全で信頼に足るということだ。
こうした人間の本性を踏まえて、
「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」
とお祖師さまは六波羅蜜経の文を引かれ、古いお経文では、
「泣きながらでも善いことをせよ。悪いことをするな」
と御仏のお言葉を伝えているのである。ご信心とは、真理に寄り添って生きることである。
ご信者とは、真理に寄り添って生きる「生き方」を身につけた人のことだ。「真理」とは「南無妙法蓮華経」の御法であり、御題目を据えた因果の法則、因果の道理そのものを指す。
私たちが教わる「冥の照覧」は、私たちには見えなくても御法さまは常に見ておられるということだ。しかし、これは何も本門佛立宗の信徒に限ったことではない。この宇宙に存在しているものは全て、宇宙に見られており、自分が見ている。すべて繋がっている真理だ。
誰にも見つからずに悪いことをしたとする。見つかったら「「運が悪かった」、バレなければ「セーフ」。因果の道理を忘れた人はそう思う。しかし、それは愚かだと教わる。それは、なぜか。
突き詰めれば「自分が見ている」から恐ろしい。その行為は、自分の魂に刻まれ、宇宙に記憶されてしまう。ありとあらゆる私たちの行為、発した言葉や書いた言葉、思ったことまで、「水に流す」ことも出来ず、この宇宙に記録されてしまう。だから恐ろしい。仏教が、時に冷酷だとか寛容だと言われるのは、ここに由来すると思われる。
あらゆる「アクション(行動)」は、ミクロのカプセルに「種」として保存され、永遠に貯蔵される。それは、現代の科学では見えないエネルギーのカプセル、種である。
種はいつか必ず萌芽する。来年、再来年、五年後、百年後、千年後かは分からない。しかし、必ずや芽を出すに違いない。
現代でも「大賀蓮」という古代の蓮の種が二千年の時を経て花咲いた。同様に、いや、それ以上の法則と可能性で、隠れて行っていようと、独り言だろうと、すべての行為が種として貯蔵され、芽を出す時を待っている。
美しい花の種ならば芽を吹く日を楽しみに待てる。しかし、毒や棘のある花ならどうだろう。狂気や殺意、怨みや嫉みの種が、自分に向けて芽吹く時が来るとしたら恐ろしい。これが宇宙普遍の真理、因果の法則だから避けがたい。
物理学の最も基本的な法則に、「エネルギー保存の法則」がある。宇宙全体にあるエネルギーの総量は変化しないことを指している。これは一体どういうことか、仏教的に考えてみると、まさに因果の法則であることに気づく。私たちが行った「行為」は、様々な形態に変換され、「エネルギー」として宇宙に記録されていることを指し示している。分かるだろうか。
私たちは、今回、この宇宙に、生まれてきた。一人一人、無限の可能性がある。それぞれの身口意を使って、何でも出来る。生命のエネルギーを使って何らかを行う。その行為は形を変えながら宇宙に広がっていく。そして、それは、永遠に宇宙の中に蓄積されている。
あなたが宇宙の一部であるから宇宙のエネルギー総量は変化せず、新たに発生もしない。ただ、一人一人の全てのアクションは宇宙に記憶され、自分からも離れない。
「泣きながらでも善いことをせよ」とは、些末な「善いこと」を指しているのではない。それならば泣かないでも出来る。「泣きながら」とは、私たちにとって最も難しいはずの、「ご信心をする」「ご奉公をさせていただく」ということに違いない。それこそ真理に寄り添って生きる道であり、因果の法則の中で最も功徳の積める生き方だからである。
気分に合わせて生きる愚かさは、動物以下の人間の顕著な特徴だ。不安定な厳しい時代だからこそ、気分に流されず、気持ちに従わず、信心をせよ、しなければならない、正さなければならない、と励む。それが立正安国論の結論である。
ご信心とは「泣きながらでも」行うべきことで、ご奉公や菩薩行は「泣きながらでも」させていただくべきものだ。それが本来の道、罪障消滅の道、功徳の道。気分に合わせて、気持ち次第で、「やる」「やらない」「行く」「行かない」としているのは最も愚かで仏教の大原則から外れていることになる。
さあ、泣きながらでも、朝参詣、朝夕のお看経、ご奉公、菩薩行を。
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