2009年6月1日月曜日

『あなたの知らない佛立信心』

「ひもにてつりたる横槌(よこづち)を向ふへおして手をはなてば我方へ来る」
「世の中は横槌を宙に吊りたるが如し。押せば此方(こなた)へ来る也。引けば向へ逃ぐる也」
 開導聖人は、幸せを求めているのにもかかわらず、いらぬ労力や無駄な時間を費やすばかりで目的から遠ざかっている人々に対して、考え方や生き方を変えてみなさい、と促されている。
 除夜の鐘で有名な京都の古刹(こさつ)。数十トンもあるその大きな梵鐘(ぼんしょう)を鳴らすためには、四メートルもの撞木(しゅもく)を操らなければならない。
 巨大な撞木には数十本の引き綱が取り付けられており、その親綱を十七名もの僧侶が揺らしてゆく。地面まで反り返り、勢いをつけてようやく梵鐘を突くことができる。
 開導聖人が「横槌」とお示しになられているのは、こうした巨大な撞木のことだろう。それを世の人が幸福を求める姿に譬えている。
 人間は、自分の方に幸せを引き寄せようと努力している。不幸を忌み嫌い、面倒なことは遠ざけ、巻き込まれないように努めている。節分に限らず「鬼は外、福は内」は人間が平生から求めるところだ。
 幸せよ、こっちに来い、こっちに来い。そう思って、よいしょ、よいしょ、と引いてこようとする。しかし、幸せは巨大な撞木や横槌のようで、此方に引き寄せるには想像を絶する力がいるし、やっとのことで引き寄せても、こちら側に引き止めておくことは難しい。手はプルプル、足腰はガクガク。少し気を抜いたら、あっという間に横槌は反対側に振れて、逃げてしまうだろう。
 だから、開導聖人は簡潔明瞭に、「押してみよ」と仰ったのである。こちらに引き寄せようとのみしているから無駄な力がいる。フッと押して出せば、彼方から此方へと戻ってくるのは天地自然の理だ。
 これこそ、佛立信者が実践する幸福を手にする生き方ではないか。真実の仏教徒とは、「押す」ことの大切さを知り、実践する人だろう。
 他人のことなど構ってられない。自分のことで精一杯。そう思って、人は小さな殻(から)の中に閉じこもる。仕事にしても、日常生活にしても、本当の慈悲や思いやりを忘れて、他人を利用するだけで利己主義に陥ってしまうのが凡夫。
 詭弁(きべん)を弄(ろう)する人も多い。狡賢(ずるがしこく)くエゴを隠しても、何事かがあれば保身を優先して他の人を切り捨て、平然と自己を弁護する人もいる。これでは少しの間は取り繕えても、末路は恐ろしく寂しくなるだろう。
 誰もが必死に生きている。ただ、こうした生き方を続けていたなら、無駄な労力と時間を費やすだけで、幸せの横槌はあなたから離れようとする。引き寄せようとする力が強ければ強いほど離れようとするから、生き方を変える必要がある。
 幸せの横槌を押すということは、「自分のために」という生き方を改めて「誰かのために」と生きることだろう。欲が深くエゴの強い私たちには実践しにくい生き方に違いないが、御題目をいただいていたら出来ると教えてくださる。財力でも能力でも難しい理論でもなく、上行所伝の御題目をもって人さまの支えになれる、と教えてくださっているのである。
 開導聖人は御教歌に、
「やみ重み 医者もすさめぬ 貧乏人 いたくなわびそ われぞたすけん」
とお詠みになられた。この御教歌には現代人に馴染みの薄い言葉が使われている。それは開導聖人が、
「山たかみ 人もすさめぬ 桜花 いたくなわびそ 我見はやさむ」
という古今和歌集の歌を引かれて詠まれたからだった。
 「山高く、近くで人に賞賛されることもない桜よ。ひどく嘆くことはない、私が褒めてあげるから」。誰も見てくれない、と嘆いて早く散ったりしないでおくれ、と作者は詠んだ。素晴らしい歌だ。
 それを開導聖人は、
 「病が重く、医者さえも遠ざかる貧しい人よ。そんなに嘆くことはない、私がいる、助けてみせる」
と、佛立教講の気概としてお詠みになられたのだった。
 残念ながら、こうした御教歌を拝見して、恥ずかしい気も起こる。いま、この上なく尊い万法具足の御題目、法華経本門の教え、真実の仏教にお出値いしながら、一人信心に甘んじている人が余りにも多過ぎはしないか。自宅に御宝前をお奉りし、お寺にお参詣もする。しかし、その願うことと言えば、自分や家族のことのみ。身体健全、災難除滅、商売繁盛、家庭円満。他の人を心から思いやり、祈り、願っていない。自分の周囲のことだけに終始している。それで真の佛立信心と言えるか。幸せになるために「押して」いると言えるか。
 「菩薩の誓い」「菩薩行の実践」と声をかけているのは、スタッフを増やすためでも、世間の倫理観を持ち込んで世直しをするためでもない。そんな些末な考えで「佛立菩薩を育てよう」などと言ってるわけではない。
 宇宙を貫く真理を体現しよう、彼も助かり我も助かる道を歩もう、幸せを手にするために横槌を押す生き方をしようと提唱している。これこそ徹頭徹尾(てっとうてつび)、佛立信心なのである。
 確かに、御題目は尊い。祈って祈りの叶わぬことはない。私たちは御法のお導きの中で、サインに溢れて生活させていただいている。
 しかし、どれだけ「お看経してます」「お参詣してます」といっても、この尊い御題目を一人占めにして、自分の願いを通すだけなら佛立信心の半分にも至っていないことを知って欲しい。本当の佛立信心はその先にある。他の人を、思いやり、世間の人が疎んじる、遠ざける人にまで手をさしのべて、「私が支えてあげる」「助けたい」と行動を起こすのが真の佛立教講なのだから。
 敷居が高いだろうか。自分には無理なことだと尻込みしてしまうだろうか。いや、そうは思わないで欲しい。能力や体力が必要だと言っているならば分かる。しかし、他の人のために祈ることからはじめて欲しい。お助行へと足を運ぶことからはじめて欲しい。それは、他の人を助けるためだけではなく、自分が幸せになる生き方の出発点となるはずだ。
 先月も書いたように、私たちの先輩は「いたくなわびそ」「われぞたすけん」という信念を抱きつつ多くの方を支え、救ってこられた。私たちはそうした方々の功績の下に生きている。今の教講が半分に満たない信心前で、佛立を知ったような顔で語るなど笑止千万(しょうしせんばん)だ。もっと速やかなる現証を感得したければ、横槌を押すことである。

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