2010年10月31日日曜日

地涌米

今回の朝市で、妙深寺のご信者さんが作られた新米60キロが初登場しました。

御題目を唱えたら、お水は御題目の入った「本法開眼功徳水」「御供水」になります。植物を育てるのにお水は欠かせません。そうした稲や野菜や果物に、毎日御題目をお唱えしながらお水をまいたら、それはスゴイことになります。

私たちは、生産者と消費者が、心と心で結ばれ、ご信心とご信心で結ばれたらいいなぁ、という気持ちでご奉公を進めています。都市圏の、消費ばかりの私たちが、地方の農業をされているご信者さんと結ばれていくこと。

素晴らしいです。ここでは語り尽くせない。

そして、今回は、世界初の、名づけて「地涌米」。久保田さん、けんちゃんさん、本当に、ありがとうございます。真心込めた脱穀、感じます(涙)。久保田さんはご病気もありましたが、秀子さんのサポートもあって、こうしてご奉公してくださいました。本当に、感謝しております。

こんな素敵な看板、いつ作ったのかなぁ(汗)。すごいわ、佛立コープチームは。ありがたい。

「地涌米」は、法華経の「地涌の菩薩」の「地涌」。地から涌き出ずる菩薩方。お米やお野菜も、大地から涌き出でて、私たちの命をつないでくれます。だから、「地涌米」「地涌野菜」ですね。有難いです。

朝市は大盛況

妙深寺の朝市が盛大に開催されていまーす。

すごい盛況で、大根は全て無くなってしまいました。そうですよね、この猛暑で市場ではお値段が45%アップとありました。「温かいお鍋で、懐は寒い」って。

妙深寺農園で育ったさつまいも。子どもたちが採ってきてくれました。美味しさも格別です。

そして、ヤマタりんご園の田中さんご夫妻からリンゴも送っていただきました。これも、全て無くなりました。

毎回、どんどん盛り上がってゆきます。ありがたーい。

記憶のなかの部屋

わたしのなかに黒い塊があります。
触れようとすると、逃げます。
わたしが知らん振りをしていると
きちんと心臓のあたりにきて、
わたしの一部始終の動作を見ています。
心臓は躰で一番大事なところだから、
そこに塊が居座っているときは、
わたしは、何をしていても安心していられます。
この塊を造りだしたのはもちろんわたしです。
だから、矛盾していますが、とても孤独でした。
皆が、口にする淋しさではありません。
でも、あなたにあってから、この塊が完全に姿をくらましたのです。
わたしは、でも探すつもりはありません。

ユリ
1953・6

小説「記憶のなかの部屋」の第一章より。ユリからポールへの手紙です。

この部分だけ読んでも、素晴らしい。

是非とも、買って、読んでいただきたいです。

2010年10月30日土曜日

長岡謙吉がいない

 NHK大河ドラマの「龍馬伝」が人気ですが、前回から残念な気持ちで見ています。
 ドラマは、いよいよ坂本龍馬や海援隊が、これまでの全てを集約し、最も輝く時期に入りました。しかし、そこに最も大切な人がいません。
 ドラマでは、船中八策を龍馬一人で書いていると描きました。そこに少し陸奥が入ってきましたが。実は、NHKの「龍馬伝」では長岡謙吉がキャスティングもされていません。本当に、これは哀れです。
 「もっと綺麗な字で書き直さないと大殿様に見せられんき」と後藤のセリフ。清書のみの役割を誰かに設定していたことを示唆したのでしょうが、哀しい。綺麗な字を書いているアップが映りますが、誰が書いているのかは分からない。何たることでしょう。

 また、藤吉を中岡の紹介のように描きましたが、これも間違い。どんどん、間違いというか、残念なシーンやシナリオが増えていきます。
 龍馬や慎太郎と共に絶命した藤吉を龍馬の従僕にしたもの長岡謙吉で中岡ではありません。謙吉が行きつけだった先斗町の魚卯で出前持ちをしていた元相撲取りの雲井龍藤吉を可愛がって取り上げたのです。
 当時の土佐の重役たちは先斗町の近喜、瓢亭、大駒、木屋町の松力、伊勢竹、祗園の万亭、下河原の噲々堂などを利用していました。また、龍馬だけが危険な下宿住まいをしていたのではありません。ほとんどの上級武士は藩邸には住まず、その近くの民家や商家に止宿していました。
 陸援隊の本部は土佐藩白川屋敷にありましたが、後藤象二郎は壺屋、福岡藤次は大和屋、真辺栄三郎は越後屋、神山佐多衛は木屋町二条。海援隊関係でも、当時は陸奥陽之助は沢屋、海援隊本部が置かれた酢屋には白峰駿馬がいました。
 いずれにしても、長岡謙吉が描かれていないのは大欠陥です。
 現在は、重要文化財となって京都国立博物館に置かれている「梅椿図」は、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された際に飛んだ血の痕が残っている掛軸です。この上部に書かれているのは急を聞いて駆けつけた長岡謙吉が涙ながらに書いた追悼の詞です。よく見ると、左側に「懐山樵史 長岡恂 謹誌」とあります。この「長岡 恂」こそ長岡謙吉です。その文章を書き出してみます。
「自然堂直柔先生、石川清之助と燈火炉を擁して閑談す。寂として人無きが若(ごと)し。忽ち三暴客有り、暗中より躍りて之を斬る。予の僕、雲井龍藤吉亦之に死す。予時に浪華に在り。変を聞きて到れば則ち満座狼藉、逬血壁幅に及ぶ。当時の状、想う可き也。実に慶応丁卯十一月十五日也 懐山樵史 長岡恂 謹誌」
 龍馬歴史館などにある船中八策を描く絵や人形の並びも、左から龍馬、長岡謙吉、後藤象二郎、土佐藩士四名を描くというのが通常なのに、これは残念でした。

2010年10月29日金曜日

最高の温泉 志賀高原・一望閣

雪国からメールをいただきました。
今回の突然の寒波到来で、一気に雪景色となりました。私の大好きな一望閣。あ~、行きたいなぁ。雪景色の一望閣は、まだ行ったことがないし。
私は「お湯」に対して鈍感です。ご奉公で温泉に泊まらせていただくことがあっても、全く分かりませんでした。
「いいお湯ですね」「この温泉は効きますね」と言われても、自分だけ分からない(汗)。そういう人間でした。
しかし、この一望閣は違うのです。お風呂場に入った瞬間、「これだー!」と叫びたくなるほどでした。決して、最新のリゾートホテルなどではないけど、だからこそ「本物の温泉」と感じました。豊富な湯量で循環などは一切せず、汲み上げた温泉に湧水をそのまま入れて温度調整をしているということで、完全100%天然だということ。

本当に、入ってみて欲しいです。とにかく。百聞は一見に如かず。なんぼ言うても入ってもらわにゃ分かりもはん。いろいろなホームページで紹介されていますが、やはり、圧倒的に「お湯」が絶賛されています。

青年会や薫化会と合同のスキー(スノーボードもスキー場を選べば出来るそうです)ツアーをしたいのですが、スキーの出来ない方やゲレンデに行けない方、朝と夜に子どもたちの面倒を見てくれるご両親やお祖母ちゃんにとっても、昼間は温泉を楽しんでいただけばいいし。すごくいい。
http://www.yukoyuko.net/1637/

もう、言うことなしです。お部屋だって、団体ならば550人は収容できるのです。すごいでしょ?全国の青年会のウィンター大会が出来そうです。なんといっても、二階には立派なご宝前さまが(涙)。
2000m級の山々が立ち並ぶ志賀高原の中でも最も雪深く、11月の下旬から5月までスキーが出来るそうです。北海道のニセコなどと比べても負けないほどの雪質だと長野の方々が言っておられます。当然です、日本の冬季オリンピックの舞台なのですから。

夏も林間学校などに利用されているそうです。先日、私も生まれて初めて垣間見た高原。大感激しました。その志賀高原の代表的なハイキングコース、池めぐり、自然探勝コースの起点となる前山リフトに近いとのこと。夏には徒歩2分の場所で「日本一標高の高いところに生息するゲンジボタル」が見られるらしいのです(涙)。子どもに見せたい。
とにかく、私としては、素晴らしいお湯を一人でも多くの人に体験していただきたいです。もちろん、妙深寺のみんなと一緒に行かせていただきたい。本当は、今すぐにでも行きたいです。資料の本を持って行かなければならないから難しいけど、本を書くには最適だと思います。
行きたーい。

2010年10月27日水曜日

贅沢

教務は毎月いくつもの御法門を説かせていただきます。

私の場合、例月15回〜20回、それぞれ御総講と教区御講、横浜と京都で御法門を説かせていただく機会があります。住職ですから、毎月4〜5の御法門を作成させていただかなければなりません。本当に、これは大変なご奉公です(汗)。

「御法門は懐石料理のように説け」とも言われますが、私は「御法門は生もののお料理」と思っています。古い御法門や誰かの御法門を読み上げる、電子レンジで「チン」をしたお料理では良くない。お料理を作られる方々が旬な食材を求めて、それを上手に、毎月、しっかりと、お客さまを思い浮かべながら、大切に献立を考えるように、「生もの」をお出しするようにしなければならないのです。

どうしても時間に追われて、そうした勉強が出来ないことがあります(汗)。そういう時は、本当に申し訳なく思います。毎回毎回、しっかりと御教歌を何度も拝見し直し、その御意を深くいただき、原典や周辺の資料に当たって、推敲を重ねて、御法門を作成できれば、ありがたい。大量生産では、限界がありますが(汗)。

でも、今日は、新聞ライブラリーや、足を伸ばして横浜市立中央図書館にまで行くことが出来ました。最高です。普段からすると本当に贅沢です。ありがとうございます。

いろいろな資料を見つけることが出来ました。もっともっと、深く、開導聖人の御意を拝見してゆきたいと思います。そういう柄ではないのですが、もともと。でも、歩く人のように考え、考える人のように歩きたい。それが、佛立教務道だから。

ご弘通の苦手な勉強家など、佛立ではインチキ。ご弘通に精進しようとすればするほど学びが深くなり、学べば学ぶほど第三下種の教相、第三の御法門が弘通である、口唱折伏の菩薩行である、外に出なければ、ご弘通するしかない、と動き出さずにはおれなくなる。

そういうことで、今日も更けてゆくのでした。

妙深寺の顔が、変わりました。

今日、大きなドアが設置され、妙深寺の玄関が全く新しくなりました。

お世話になってます。

仕分けの対象か知りませんが(汗)、日本新聞教育文化財団が運営する日本新聞博物館、新聞ライブラリーなど、素晴らしい施設が横浜情報文化センターの中にあります。

お世話になってます。

新聞ライブラリー

明治37年4月13日付の時事新報、明治37年4月17日付の土陽新聞、明治37年4月18日付の東京日日新聞を自分の目で確認するために、新聞ライブラリーに来ました。

こうした調べものに時間を使わせていただいて、有難いです。

秋の横浜の銀杏並木。

2010年10月26日火曜日

日本のお米

世界中の人たちが、日本のお米を食べたいと切望しています。これを欧米農産物メジャーの国策的な世界戦略に屈して農地や水田を減らし続けてきたのが実情ではないでしょうか。

とにかく、世界中の人たちが、日本のお米が世界一だと言っています。これも、メイド・イン・ジャパンのすごさだと思うのです。

書いておきます。農家の方々には、本当に感謝です。日本酒のように、世界と本当に勝負できるのはお米や京野菜かもしれません。

改修工事

今日の横浜は、パラパラと雨が降ったり止んだりしています。

昨日から今日にかけて必死に書きました。16ページ、15000字くらい。でも、まだまだです。あと150ページは書きたい、書かねばなりません。とにかく、頑張ります。

妙深寺では、改修工事が進んでいます。今日、私も見てビックリ。すでに玄関の外枠が組み上がりました。絨毯もすべてはがして、ベコベコ、ボコボコとしていた土台(根太)の工事も行います。

ずっと、ボコボコした床が気になっていました。こんな状態で皆さんお参詣してくださっていたのですから、有難い(涙)。昔、部分的でしたが、大工の棟梁だった竹内音麿さんや飯塚さんにお願いして、直してもらっていたのを思い出します。有難かった。でも、絨毯は継ぎ接ぎ(つぎはぎ)になりました(笑)。部分的、だから仕方がありませんでした。とにかく、ようやく綺麗にできます。

明日、ガラスが入って、明後日には大きなドアが付くとのこと。本当かな。すごいスピードです。

Indian Mission 2006, by Seijun Nagamatsu

Indian Mission 2006 
It file was onky draft of Speech in India.

Seijun Nagamatsu,

NAMATSUTE!!

Thank you very much for giving us this precious opportunity today. It is my greatest honor to speak on HBS’ main ideas and teachings at this wonderful place.

First of all, let me introduce myself. My name is Seijun Nagamatsu, head monk of the two temples in Yokohama and Kyoto, Japan. My family have been monks for many generations.  We are one of the oldest monk families in Japan. I belong to the fifth generation from the Great Master Nissen Shonin, who established our Buddhism sect HBS exactly 150 years ago in Kyoto. In other words, my great, great, great grand father was the HBS founder, Great Master Nissen Nagamatsu.  Simply put, my great grand father, my grand father and my father were also HBS monks. I was born into a traditional Buddhist family like this. However, I couldn’t tamely become a Buddhist monk.  I was not able to develop pure faith when I was in my teens.  The path that I followed to become a monk was a little rough and winding. I felt a little apathetic against the idea of becoming a monk at that time.  That is why I have a rather strange profile for a Buddhist monk. 

Today, I am going to talk about why and how I decided to become a monk, how I came to receive the meritorious benefits out of the chanting of Lotus Sutra and how I started to develop pure faith.

I was born in a Buddhist temple, which means that I knew the faith of HBS from my birth.  Since my childhood, I had seen my parents live in a way like a Bodhisattva lifestyle.  They were always saying, “For the Buddha”, “For the people”.  These words of my parents gave me some special feelings and spiritual emotions in favor of HBS.  Naturally, my dream as a child was to become a Buddhist monk, but it was only during the period of my low teens.

When I was growing up, Japan was in the high economic growth period. The growth rate was gradually diminishing, but Japan was already on a high plateau of economic development after the 15 years of frenzy growth.  Along the way,  I forgot my dream of becoming a monk while fully enjoying the life in this super-affluent, mass-consumption society.  I became crazy about and got addicted to sports and high school and university life, paying much less attention to the importance of having faith.  Even though I was a member of a traditional Buddhist family, I wasn’t able to make my mind up to be a monk.  My parents sat back and kept waiting for me to grow up.

I LOVED sports. I had participated in two Jet Ski World Championships before I became a professional jet skier.  This experience as a pro led me to an appearance in two movies as an actor. Actually, my student life was successful. But as far as faith is concerned, I think I was confused for so many years in my high teens and my early twenties. 

Soon after graduating from my university, I decided to get enrolled in the HBS post-graduate school in the head temple of the HBS. I tried my best to practice and study Buddhism there. I studied various ancient wisdoms.  Buddhism has about 84,000 sutras; there are various sects including Mahayana, Hinayana, Tibetan, Zen, Sokagakkai, Nichiren, etc.  Each sect respects a different sutra; various sects pursue different styles or modes of practice and ritual.  In the initial months of my two-year study at this graduate school, I was so confused about what the true intention of Shakyamuni Buddha is that I decided to study various points of view.  I wondered which sutra best reveals the true intention of Buddha.  I questioned myself, “Why Lotus Sutra?” “Why chanting of Lotus Sutra?”  My study at the head temple was further extended to include Judaism, Christianity and Islam. These are all ancient wisdoms that have spread all over the world.  I still strongly believe that religious people need to study and understand other religions different from their own school or sect. It was this questing mind that made me travel all the way to Jerusalem a few years ago.

In the head temple of HBS, I carried out various studies in pursuit of the true intention of Shakyamuni Buddha.  My teacher was Rev. Nisso Fukuoka.  A few years later,  I felt it.  I felt, “Oh, I have discovered Buddha’s intention!”  With this realization, I returned to my Yokohama temple.  My father was very glad to see me back. A bad son became a good monk, coming back home to work with his father in the same temple.  My family is very warm. My father loved us; we loved him more than that. 

Anyway, my faith was still only in my brains and it was mere knowledge.  A week later, my father had a serious accident, which eventually made me realize that my faith was yet immature. He fell 6 meters down a bluff in the precinct of our temple in Yokohama.  He got his skull fractured and his brains severely damaged.  He lost consciousness.  I panicked.  He is our beloved father.  His doctor blatantly declared to us, “There is no way to save his life”.  This meant that no one was able to save our father. 

As I’m not a medical doctor, there was nothing I could do for my father.  Knowing that, I still wanted to help him out; I wanted to do something for him.  Then I started chanting Lotus Sutra from the bottom of my heart and soul.  I couldn’t pray gently or quietly, but rather wanted to scream.  I prayed to Buddha, “Please help out my father”, and wholeheartedly chanted Namu Myoho Renge Kyo.  We chanted for consecutive 49 days, 24 hours a day -- literally days and nights.

Forty-nine days later, he finally came out of a coma.  Everybody here may understand the meaning of 49 days. In Buddhism, 49 days has a special meaning.  After my father got thoroughly well, the doctor confessed to us, “This is a complete miracle!”  After this incidence, my faith changed from that of mere knowledge to pure faith.

Great Master Nichiren gave us this sacred Mandara, object of worship. This is living Buddha himself. This is not mere Chinese characters inscribed on a sheet of paper. 

My family was saved by the sacred Buddha, Mandara, Mantra chanting, the force of Buddha and his mercy.  I myself was salvaged by Buddha through this accident of my father.  I now knew the true intention of Buddha and the faith in Lotus Sutra. After this experience, I came to be able to engage in Bodhisattva work.

It does not only fulfill our desire.  The title of Lotus Sutra, Namu Myoho Renge Kyo, is not only for healing people, for saving somebody’s life, or for gaining money. The person might not be saved through healing sick people or giving out money to poor people.  Many people who apparently live happily can be actually trapped in the vicious circle of suffering, too.  Even if their desires are fulfilled, they are likely to suffer more.  The faith in Lotus Sutra, and above all, the faith in the true intention of Shakyamuni Buddha saves not only suffering persons but all people.  We firmly believe that Buddha's teaching is not a mere philosophy. 

Buddha's teaching is not anything like “social life should be thrown away” or “To become a priest, special training must be carried out”, and the comprehension is open either too. Lotus Sutra explains to people how to live their lives.  It is a life led by Buddha.

We chant every morning and every evening.  Even when you are extremely busy bringing up a child or you are very busy working at a company,  please remember that your mind can be polished while you chant this Mantra.

Chanting reduces bad karma and increases good karma. Therefore, blessings visit you from the other side. We explain that the whole world can also be saved by such an individual experience of developing faith.  It is like my experience.

If everyone can chant Namu Myoho Renge Kyo in unison,  suffering will disappear from all over the world.  Buddha's true intention is exactly this.  What is necessary for the current world and our society is only this individual chanting as well as joint chanting. 

I am now convinced that all the unbelievable things of old times were something that really happened.  Therefore, for your happy life, for your suffering life and for your successful life, please try to chant the Mantra of Lotus Sutra, Namu Myoho Renge Kyo.  That is the True Intention of Eternal Shakyamuni Buddha.

Thank you very much.

Missão índia  2006  Por Seijun Nagamatsu,

Missão índia  2006  Por Seijun Nagamatsu,

NAMATSUTE!!

Muito obrigado por nos dar esta oportunidade preciosa hoje. É minha maior honra para falar em HBS. idéias principais e ensinos neste lugar maravilhoso.

Em primeiro lugar, me deixe se apresentar. Meu nome é Seijun Nagamatsu, monge de cabeça dos dois templos em Yokohama e Kyoto, o Japão. Minha família foi os monges para muitas gerações.  Nós somos um das famílias de monge mais velhas no Japão. Eu pertenço à quinta geração do Grande Mestre Nissen Shonin que estabeleceu exatamente 150 anos atrás nossa seita de Budismo HBS em Kyoto. Em outro palavra, meu grande, grande, grande pai principal era o HBS se afundam, Grande Mestre Nissen Nagamatsu.  Simplesmente ponha, meu grande pai principal, meu pai principal e meu pai também eram os monges de HBS. Eu nasci em uma família budista tradicional goste isto. Porém, eu tamely de couldn.t se tornam um monge budista.  Eu não pude desenvolver pura fé quando eu estava em minhas adolescências.  O caminho que eu segui para se tornar um monge era um pequeno áspero e arejando. Eu sentia um pequeno apático contra a idéia de se tornar um monge naquele momento.  Isso é por que eu tenho um perfil bastante estranho para um monge budista.

Hoje, eu vou falar aproximadamente por que e como eu decidi me tornar um monge, como eu vim receber os benefícios meritórios fora do cantar de Loto Sutra e como eu comecei a desenvolver pura fé.

Eu nasci em um templo budista que meios que eu soube a fé de HBS de meu nascimento.  Desde então minha infância, eu tinha visto meus pais viverem de certo modo como um estilo de vida de Bodhisattva.  Eles sempre estavam dizendo. Para o Buda.. Para as pessoas.. Estas palavras de meus pais me deram um pouco de sentimentos especiais e emoções espirituais a favor de HBS.  Naturalmente, meu sonho como uma criança era se tornar um monge budista, mas só era durante o período de minhas baixas adolescências.

Quando eu estava crescendo, o Japão estava no período de crescimento econômico alto. A taxa de crescimento estava diminuindo gradualmente, mas o Japão já vem em um planalto alto de desenvolvimento econômico depois dos 15 anos de crescimento de frenesi.  No caminho, eu esqueci de meu sonho de se tornar um monge enquanto desfrutando completamente a vida dentro este super-abundante, sociedade de massa-consumo.  Eu fiquei louco aproximadamente e foi viciado a jogo esportivos e escola secundária e vida de universidade, enquanto prestando para muito menos atenção para a importância de ter fé.  Embora eu fosse um sócio de uma família budista tradicional, eu wasn.t capaz se decidir minha é um monge.  Meus pais sentaram atrás e continuaram esperando por eu crescer.

Eu AMEI jogo esportivos. Eu tinha participado em dois Esqui de Jato Campeonatos Mundiais antes de eu me tornasse um esquiador de jato profissional.  Esta experiência como um profissional me conduziu a um aparecimento em dois filmes como um ator. De fato, minha vida de estudante tinha êxito.. Mas até onde fé está preocupada, eu penso que eu estava confuso durante tantos anos em minhas adolescências altas e meus anos vinte cedo.

Se formando em seguida de minha universidade, eu decidi ser associado no HBS poste-se forme escola no templo de cabeça do HBS. Eu tentei meu melhor praticar e estudar Budismo lá. Eu estudei várias sabedorias antigas.  Budismo tem aproximadamente 84,000 sutras;  há várias seitas inclusive Mahayana, Hinayana, Tibetan, Zen, Sokagakkai, Nichiren, etc. Cada seita respeita um sutra diferente;  várias seitas procuram estilos diferentes ou modos de prática e ritual.  Nos meses iniciais de meu dois-ano estude nesta escola diplomado, eu estava tão confuso sobre o que a verdadeira intenção de Shakyamuni Buda é que eu decidi estudar vários pontos de vista.  Eu desejei saber melhor qual sutra revela a verdadeira intenção de Buda.  Eu me questionei. Por que Loto Sutra?. Por que cantando de Loto Sutra?. Meu estudo no templo de cabeça foi estendido para incluir o Judaísmo, Cristianismo e Islã mais adiante. Estas são todas as sabedorias antigas que esparramaram no mundo inteiro.  Eu acredito ainda fortemente que as pessoas religiosas precisam estudar e entender outras religiões diferente da própria escola deles/delas ou seita. Era esta mente procurando que me fez viaje todo o modo alguns anos atrás para Jerusalém.

No templo de cabeça de HBS, eu levei a cabo vários estudos em perseguição da verdadeira intenção de Shakyamuni Buda.  Meu professor era Rotação. Nisso Fukuoka.  Alguns anos depois, eu sentia isto.  Eu sentia. Oh, eu descobri intenção de Buddha.s!. Com esta realização, eu voltei a meu templo de Yokohama.  Meu pai estava alegre de me ver atrás. Um filho ruim se tornou um monge bom, enquanto voltando trabalhar com o pai dele no mesmo templo.  Minha família está muito morna. Meu pai nos amou;  nós o amamos mais que isso.

De qualquer maneira, minha fé ainda estava só em meus cérebros e era mero conhecimento.  Uma semana depois, meu pai teve um acidente sério que eventualmente me fez perceber que minha fé ainda era imatura. Ele derrubou 6 metros abaixo um blefe no precinct de nosso templo em Yokohama.  Ele adquiriu o crânio dele fraturado e os cérebros dele severamente danificado.  Ele perdeu consciência (Ele mergulhou em um coma longo............).  Eu apavorei.  Ele é nosso pai amado.  O doutor dele declarou descaradamente a nós. há nenhum modo para economizar a vida dele.. Isto significou que ninguém pôde salvar nosso pai.

Como I.m não doutor médico, não havia nada que eu poderia fazer para meu pai.  Sabendo que, eu ainda quis o ajudar;  Eu quis fazer algo para ele.  Então eu comecei cantando Loto Sutra do fundo de meu coração e alma.  Eu couldn.t rezam suavemente ou quietamente, mas bastante quis gritar.  Eu rezei a Buda. Por favor ajuda fora meu pai., e wholeheartedly cantaram Namu Myoho Renge Kyo.  Nós cantamos durante 49 dias sucessivos, 24 horas por dia--literalmente dias e noites.

Quarenta-nove dias depois, ele saiu finalmente de um coma.  Todo o mundo aqui pode entender o significado de 49 dias. Em Budismo, 49 dias têm um significado especial.  Depois que meu pai melhorou, o doutor confessou a nós. Este é um milagre completo!. Depois desta incidência, minha fé mudou disso de mero conhecimento para pura fé.

Grande Mestre Nichiren nos deu este Mandara sagrado (objeto de adoração). Este é o próprio Buda vivo. Estes não é meros caráter chineses se inscritos em uma folha de papel.

Minha família foi salvada pelo Buda sagrado, Mandara, Mantra cantando, a força de Buda e a clemência dele.  Eu fui salvado por Buda por este acidente de meu pai.  Eu soube a verdadeira intenção de Buda e a fé agora em Loto Sutra. Atrás desta experiência, eu vim poder se ocupar do trabalho de Bodhisattva.

Não só cumpre nosso desejo.  O título de Loto Sutra, Namu Myoho Renge Kyo, não só é para pessoas curativas, para vida de somebody.s econômica, ou por ganhar dinheiro. A pessoa poderia não ser salvada por curar as pessoas doentes ou distribuir dinheiro a pessoas pobres.  Muitas pessoas que aparentemente viva felizmente pode ser apanhado de fato no círculo vicioso de sofrer, também.  Até mesmo se os desejos deles/delas são cumpridos, é provável que eles sofram mais.  A fé em Loto Sutra, e acima de tudo, a fé na verdadeira intenção de Shakyamuni Buda economiza não só sofrendo as pessoas mas todas as pessoas.  Nós acreditamos firmemente que o ensino de Buda não é uma mera filosofia.

O ensino de Buda não é nada como. vida social deveria ser desperdiçada. ou. para se tornar um padre, deve ser levado a cabo treinamento especial., e a compreensão também está aberta qualquer um. Lotus Sutra explica a pessoas como viver as vidas deles/delas.  É uma vida conduzida por Buda.

Nós cantamos todas as manhãs e todas as noites.  Até mesmo quando você é trazendo extremamente ocupados para cima uma criança ou você é funcionamento muito ocupado em uma companhia, por favor se lembre que sua mente pode ser polida enquanto você cantar este Mantra.

Cantando reduz karma ruim e aumentos karma bom. Então, bênçãos o visitam do outro lado. Nós explicamos que a lata mundial inteira também seja economizada por tal uma experiência individual de fé em desenvolvimento.  Está como minha experiência.

Se todo o mundo pode cantar em harmonia Namu Myoho Renge Kyo, enquanto sofrendo desaparecerão do mundo inteiro.  A verdadeira intenção de Buda é exatamente isto.  O que é necessário para o mundo atual e nossa sociedade é só este cantando individual como também junta cantando.

Me convencem agora que todas as coisas incríveis de tempos velhos eram algo que realmente aconteceu.  Então, para sua vida feliz, para sua vida de sofrimento e para sua vida próspera, por favor tente cantar o Mantra de Loto Sutra, Namu Myoho Renge Kyo.  Isso é a Verdadeira Intenção de Shakyamuni Buda Eterno.

Muito obrigado.

2010年10月25日月曜日

実践

菩薩の誓いの実践。とても難しいことです。しかし、いつまでも仏教徒である私たちの目標です。

あらためて、気づかされる掲示でした。

満月

土曜日の夜、満月でした。

幻想的で、感激しました。本当に。妙深寺の本堂の上に、うっすらと雲がかかった満月が輝いていて。

特別な場所に行かなくても、遠くまで行かなくても、自分の気持ち次第で、今いるその場所が世界遺産みたいに綺麗な、特別な場所になります。

そんなことに気づくことができたら、幸せです。ごく身近にあることに気づくこと。探しに出るよりも、探し続けて迷うよりも、ポケットの中や家の中、ごくごく身近に幸せのヒントがあることを。

忘れて、離れていたら、もったいないから。そう思います。

2010年10月24日日曜日

ご信心とお仕事

今日は相模原妙現寺のお会式でした。日曜日の家族参詣から相模原に向かいました。

法深寺ご住職、清水布教区長のご唱導で、本当に有難い御法門を聴聞させていただきました。

信行、ご奉公の体験談、本当に素晴らしかったです。武田さん、すごい。

一年前に班長というご奉公を受けることになり、はじめはどんなご奉公をしたらいいか分からず戸惑ったとのこと。しかし、とにかく自分なりに精一杯ご奉公させていただこうと頑張ってこられた。

武田さんは内装のお仕事をご自分でされており、お寺で出会った信友である末広さんと語り合い、励まし合いながら、コツコツとご奉公に励まれてきた。今年の三月には本山での24時間口唱会にも参加してくださいました。

分からないながらもご奉公をスタートし、素直に、前向きに実践されてきた武田さん。自分自身でご信心の大切さを感得されていました。仕事にもご信心を生かそうと決意して、仕事の打ち合わせにもお数珠を持っていき、打ち合わせの前にお数珠で手を合わせる。

取引先の人から「あら、武田さん。変な宗教はじめちゃったの」と言われることもあったけど(笑)、「いや、そんなんじゃなくて、手を合わせる気持ちで、この仕事をさせてもらいますっていう意味です」などと答えたり。

内装業大不況の中、みんなが「なんで武田のとこばっかり。裏で何かやってんの?」と言われるくらい仕事が来て、「そんなことするわけないじゃないですか」と答えています、と。今や8人の職人さんを抱えて仕事されているそうです。

本当に、有難いお話でした。忙しいからこそご信心、ご奉公。さらに、ご信心が素直正直だからこそ、お仕事に、ご信心と同じ気持ちで向き合う。お数珠を手に、仕事の打ち合わせをするほどに。そうして、本当に、不思議な現証の御利益が顕われて、さらに喜んでご奉公に励む。最高のサイクルです。

そんな素晴らしいお話をお聞きできた妙現寺のお会式でした。

ありがとうございます。

2010年10月23日土曜日

お車

今日の夕方、少しだけ時間があったので、先住のお車の洗車に行きました。

ずっと洗車できずにいて、
気になっていたのですが。
申し訳ないです。前回私が洗車に行った時には「黄砂がひどい」と記憶しているので、半年ちかく前のことかもしれません。

妙深寺の公用車は、先住が購入され、自ら運転して京都を往復したお車です。あと数週間で11年が経過して、12年目に入ります。ご遺品のようなものですから乗り替える計画もありません。

とにかく、洗車機で申し訳ありませんが、綺麗になってよかったです。

ポスターのセンス

最近、お寺の中の壁を見るのが楽しいです。

なぜかと言うと、ポスターがいいんです。ご弘通って、ポスターのセンスに表れるのではないかしら?新しい方々の参加が見えたり、情熱をもってご奉公に取り組んでくださっていることが感じられるから。

今日見たポスターも、素晴らしかったです。センスがいいなぁ。

みんなで

今朝の横浜の空は、本当に綺麗でした。
妙深寺の上に、キラキラ輝く、真綿のような、フワッとして柔らかそうな雲がかかっていました。
朝の太陽に照らされて、幻想的でした。やはり、ありがたいなぁ。妙深寺、ありがたいです。うれしい。朝から、うれしかった。
今日、妙深寺では午前中から高祖会の総打ち合わせ会議があり、会議室の席が埋まって動けないくらい、60名での会議が行われています。本当に、毎週、ありがとうございます(涙)。
細かな打ち合わせです。全員で作るのがお会式。本当に、細かな話も、全員が聞いてくださっている。「あの人が病気でトイレの係ができません」「あのご奉公にこの方はどうでしょう」「袴が足りません」「子どもたちの遊びの広場が…」「青年会の担当は…」「APECの影響で交通規制が…」。これを、会議に参加してくださった方々、全員が聞いているのです。すごいです、ありがたいです、妙深寺の伝統ですが、本当に、ありがたいです。先輩方、ありがとうございます(涙)。
高祖会での奉修御導師のご到着からご出発までの動き、団参やお参詣者の動きを想定して、ご奉公が円滑に行われるかを詰めてくださいます。司会者は総務部門長の藤村さん。藤村さん、毎朝遠くから朝参詣に励まれていて、頼りにしております。今年から総務の部門長という大役を受けてくださいました。私が補助講師だった時、酒井さんや山ちゃんや柴ちゃん、須田さんや田部ちゃんと、一緒にご奉公させていただいていた時の青年会長です。ありがたい。こうして、今もご奉公させていただけていること。
11月6、7日は、妙深寺の高祖会です。テーマを「伝えたい。生きる力、信じる心」として奉修させていただきます。
ありがとうございます。

2010年10月22日金曜日

基本

今日、時間は過ぎてしまいましたが、妙深寺からお贈りする敬老のお祝いを、奥野さんご夫妻に直接お渡しすることが出来ました。

奥野さんから一言いただきたいと司会者がお願いすると、私にはこのような素敵なものをお寺さまからいただくようなことは何一つできていません、ただただ、ひたすら続けてきたというだけで、と謙遜される。

奥野さんは、今年90才になられる。誕生日が11月で、免許の更新なのだとヤル気満々。この年になっても、スキーをする。

ご信心をしていたら大丈夫なのだ、必ず御利益をいただき、本当に有難いのです、とお話くださる。90才の大先輩の言葉は重たい。

今日の御講で照れながら立ち上がった奥野さんが言われた。次の世代の人たちに、と。

「私はスポーツをやってきました。言えることは、基本をしっかりやっておかないと、ファインプレーは生まれない、ということです。しっかり基本をやることです」

奥野さんだから、お看経、お給仕、ご弘通ご奉公の、基本を大切にされてきたことは分かる。

有難い、重たい教えでした。基本を、しっかりやりましょう。

妙深寺・秋の朝市

今月31日は、妙深寺の朝市が開催されます。

妙深寺のご信者さんが作られた新米60キロが、朝市に初登場します。久保田さんはJAから依頼されて種籾(たねもみ)を納めているほど信頼されている農家。来週に迫った妙深寺・秋の朝市のために、真心を込めて脱穀してくださり、60キロの新米をご用意くださいました。

明日、深恭師が受け取って横浜に運んでくださいます。すごい。佛立米の誕生も近い。

妙深寺農園からは1000個を超すサツマイモ。本当に楽しみです。

それにしても、今日は感動しました。ヤマタりんご園の田中さんご夫妻。たくさん学ばせていただきました。やはり、命をつなぐ日本の食、農業を見つめ直さなければ未来はありません。農薬一つ考えても、そうです。日本で30年も前に禁止された農薬が、未だに中国では使用されています。そうした食品が市場に出て、価格競争せざるを得ないなんて。日本の農業は厳しい環境に追いやられています。全員が幸せになる道があるはず。

今日は、たくさん教えていただきました。りんごの取り方も教わりました。「秋映(あきばえ)」という林檎。色が濃いのが特徴です。美味しかった。りんごは抗酸化物質がたくさん含まれた長寿をもたらす果物だと思います。りんごの季節です。

綿花

綿花の栽培にも挑戦しているとのことで驚きました。綿花は、あたたかい気候の地域が栽培に適しているそうで、長野はギリギリみたいです。

でも、新しいことに挑戦する姿勢が素敵です。

ヤマタりんご園

ヤマタりんご園。素晴らしい方にお会いできました。

御講の前に、すごい場所に連れていっていただきました(涙)。本物のりんご園。長野でご奉公させていただくようになって7年目。りんご園を通り過ぎてばかり。今日、私は初めてりんご園に入りました。

ヤマタりんご園の若いご夫婦のお世話になり、丁寧にご案内をいただいてしまいました。

本当に、本気で、りんごと向き合っておられる、本物の農家の方でした。こちらも真剣にお話をお聞きしました。

林檎林。素敵です。貴重な機会をいただいて、本当にありがとうございます。

これから御講です。

佛立事典

おはようございます。
ようやく、本の全体像を表す「序章」が書けました。また序章かなんて言わないで(汗)。途切れ途切れの思考ですが、奮闘してます。
今日は長野に向かいます。週末なので新幹線は自由席まで満タン。紅葉を見に行く人が多いのでしょうね。ダイエットのために、いっそ長野まで立って行こうかな。
スーツケースには本を満載しているから、重い(汗)。佛立事典の第二巻を持ち歩いているのは、僕くらいじゃないかしら。重い、大きい。でも、素晴らしい資料、事典です。手放せません。
素晴らしい本も事典も、スーツケースで持ち運べとは言いませんが、本棚に飾ってあるだけでは意味がありません。素晴らしい事典を編纂してくださっている方々に対しても申し訳ない。
活用させていただき、生かしてこそ、意味があります。生かすのも、宝の持ち腐れにするのも、自分自身。とにかく、佛立事典は素晴らしい。佛立教務には欠かせません。
本を書くのに、どれほど助かっているか分かりませんから。明治11年付、開導聖人の西郷隆盛についての御指南も、ご紹介したいなぁ。すごいです。
とにかく、行商の本屋さんのように、資料数十冊と共に移動中。

2010年10月21日木曜日

大改修スタート

 妙深寺の玄関ホールのリフォームが今日から始まりました。お参詣の皆さまにはご迷惑をおかけすると思いますが、今月末には完成する予定ですので楽しみにしていただければと思います。
 何度も書きますが、私はリフォーム人生を覚悟しております(汗)。ご弘通に励み、妙深寺の本堂をはじめとして建設された建物を丁寧に護持しながら、次の世代にバトンタッチしたいと思っています。そのために、今回は熟慮に熟慮を重ねまして、念願であった本堂の正面玄関スペースを、改修いたします。
 御総講になるとあふれ出す土足(私の代では下足にしません。エヘン)、申し込み用紙を書くスペースのないカウンター、新しくお参詣された方に不親切で説明不足な受付の周辺、お会式等でお参詣者の行き来が困難な狭い通路、雑然とした教区棚、収納の無さ、お年寄りなどのスロープが無いことなどを解消しようと思っております。
 お金がない分、頭を使うのが佛立宗。トンチとパンチの効いた、佛立アイデアを詰め込んで(笑)、頑張っています。
 横浜市の半額補助をいただいて耐震構造の検査をしていただきましたが、本堂をはじめ他の建物も現在の耐震基準には満たないとの診断。補強工事でも2億円、新築すれば大変な金額がかかります。まだ建築してから40年前後です。今は不可能。
 様々な会議で検討した結果、約20年後に新しい本堂を建てるタイミングが来ると設定し、ご信者の皆さまにご説明することといたしました。ちょうど、本年末で妙深寺の弘通計画(5年ごと)が更新され、同時に建財特別ご有志計画(5年ごと)が更新されます。9月末の評議委員会で新しい建財計画について素案を協議いただき、今年末に発足できることとなりました。
 とにかく、20年後に新本堂の建立があるということです(汗)。次は「千年本堂」にします(笑)。土台から資材、建材、工法、上下水道管、電気敷施設の方法まで、千年は護持できる本堂を建立したいものです。今の鉄筋コンクリートの耐用年数などで本堂を建て替えていると、ご信者さんは人生で何度も新本堂を建てないといけなくなりますから(笑)。
 妙深寺は先住の頃から5年ごとに詳細な計画を作り、法城の護持発展のためのご奉公を呼びかけてゆきます。その長期計画に基づいてご奉公が進められ、変更があった場合はそれに対して説明を重ねます。
 来年から始まる新しい計画は、「新本堂建立」という文言が初めて入ります。20年後とはいえ、少しドキドキします。確実に来ると言われている大地震にも備えて万全を期していきたいと思いますが、とにかく着実にご奉公を進めてゆきたいと思います。
  まず、この本堂正面、階段、床のリフォームがスタートしたことを報告させていただきます。本当に、ここまで長かった(汗)。この正面玄関のリフォームは、実に5年くらいかかっています。浄財を使いますから、一人でも多くの英知、経験や情熱を結集しようと試みました。本当に、ついに、実行なのですね。感慨深い。
 今日から、着々と工事は進んでいくと思います。すでに本堂玄関はガラッと広くなりました。ここから、どんどんお寺の顔が変わっていきます。本堂の外観を変えず、明るさを保ち、スペースを確保しながら、ご弘通に役立つように改修します。高祖会に間に合わせます。
 お楽しみに。

コンテナ

苦労に苦労を重ねて、昨年の「第3回 青少年の一座」に持ち寄っていただいたおもちゃが、ブラジルの日教寺に到着いたしました。1年以上、本当に、大変な時間がかかってしまいました。
この間、全国の佛立青少年のまごころを、なんとしても届けようと、配送方法や配送コスト、税金など、いろいろな問題にもあきらめることなく、海外部長をはじめ、ブラジルのコレイア教区長、来日中だったマセド師、弘通局の部長方や書記の方々など、保管から実際の送付まで、ご奉公くださいました。
嬉しい悲鳴といえばそうなのですが、第2回の時には段ボール数箱だったおもちゃが、昨年はコンテナ1台分にもなっていました。ブラジル大使館や領事館、配送業者各社、ブラジルの税関などなど、いろいろな交渉を経て、この初夏に来日中だったコレイア師に一任。コレイア師がコンテナを1台借り切って、送り出してくれました。
しかし、地球を半周、約2ヶ月を経てブラジルのサントス港に到着しましたが、税関や税金の問題で受け取ることが出来ません。ブラジル到着後も手を出すことが出来ず、そのままになってしまいました。ブラジルの御講師方もお忙しい中、ようやくそれを動かしてくださったのです。

昨日、ブラジル側から海外部長にコンテナを受け取った旨、お電話をいただいたそうで、夜にメールが届きました。本当に、ありがたい。佛立信徒の菩薩心、善意、慈悲が詰まった「おもちゃ」ではありましたが、結果として大量の「おもちゃ」は入国不可、入国させるなら莫大な税金を支払うようにとのこと。本当に頭を抱えました。が、本当に、関係各位のご協力、ご決断をいただいて、なんとかサンパウロの日教寺まで到着したのです(涙)。
ハードルがいくつもありましたが、ここまでたどり着けました。これから、どうか全国の佛立青年の思いを、ファベイラや恵まれない子どもたちに届けていただき、ご弘通に結びつけていただければと思います。ブラジルの皆さまには、ただ、ひたすら、お願いするしかありません。
同時に、本山宥清寺の巨大なガン、これもブラジルに到着。よかった。本山宥清寺の宝蔵に護持されていた立派な梵鐘を、ブラジル中央寺院・サンパウロ日教寺の本堂へお送りしました。これは、本門佛立宗の歴史に刻まれると思います。100年後、どうしてこのガンがあるのか、きっと、後輩たちが驚きながら調べることになると思います。これも、大変な出来事でした。
ありがとうございます。

2010年10月19日火曜日

ヒキオタニート

インターネット社会には、良い情報も悪い情報も溢れている。顔が見えないこと、顔を見せないでいいことから無責任な発言も生まれるが、時に感心したり、新しい社会の姿や人の在り方が学べたりする。

揶揄のようにしか思えないが、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」をもじって、下記のような歌(?)があった。ネット社会にうごめく人たちが、自らをあざ笑っているのか分からないが、少し衝撃を受けた。

どう考えればいいものか。若い教務さんや青年会の子たちと、末法のご奉公の参考にしている。こういう世相、人々、心情もあるのか、と。上から目線ではなく、彼らを、支援し、救いたいのだから。

下記、参考にしていただきたい。青春の、少しの期間、こんな気持ちや状況に陥ることもあるだろうが、早く抜け出さないと出口が見えなくなる。

この世界で大きくなっていく、子どもたちを守りたい。それは、この、今の世界では、とても難しいことのように思います。

「ヒキオタニート」

雨にも負けるし
風にも負ける
雪にも夏の暑さにも負ける
ひ弱なからだをもち
慾だらけで すぐキレるし 笑顔を忘れて久しい
一日にペヤング超大盛り5箱と
ドクターペッパーとプリングルスを食べ
あらゆることを打算的に
人の言う事は基本的に聞かず そしてすぐ忘れる
年老いた親に鞭打って働かせ
一日中暗い部屋のPCの前にいて
東に病気の子供あれば不謹慎ネタに使い
西に疲れた母あれば小遣いをせびり
南に死にそうな人あればニヤニヤ笑い
北に喧嘩や訴訟があれば全力で煽り
日照りの時はコンビニ行くだけでだらだら油汗を流し 寒さの夏は大喜び
みんなにヒキオタニート社会のゴミと呼ばれ
褒められもせず 苦にされまくり
そういうものに
わたしは
なってしまった

2010年10月18日月曜日

秋の空

空が高い。秋の空をみると飛びたくなります。

秋は、スカイダイビングの季節です。

2010年10月17日日曜日

反日

日本国内でも、最近の報道は断片的で恣意的ですらあるから、一人ひとりが、世の中の出来事を、自分の頭で、しっかりと考えなければならないと思う。
ノルウェーは覚悟ある国だ。ノーベル平和賞を劉暁波氏に決定したとは。世界が中国マネーとマーケットに配慮して政治的なコメントを控える中、極めて強い批判的メッセージを発した。自国の経済的な損失よりも、平和や生命の尊厳ためのメッセージを優先した。国家や国民の徳が高いと思う。果たして日本ならどうか。経済界やマスコミ、つまりは一般民衆から、喧々囂々の怒声が浴びせられそうだ。情けないことだと思う。
それにしても、中国はいよいよ軍閥の制御が利かなくなっている。取り引きするには覚悟がいる。反日感情を露わにした大規模なデモが報道されているが、あれも中国政府の戦略の一つでしかない。劉氏をはじめとする民主活動家を弾圧し、テレビやインターネットを国家がいとも簡単に閲覧不可にする国で発生するデモだ。政府の出した紳士的とも受け取れる談話も「マッチ&ポンプ」のような話。
人間の可能性や生命の尊さに、国も人種も、北も南も、西も東も関係ない。恐ろしいのは、政府がメディアを利用して、民衆の感情を政治的な意図の下で利用した結果だ。
人類が経験してきたのは、大衆は暴走し、過激思想を持つ政治家が台頭し、凄惨な戦争が始まるということ。ルワンダ紛争のツチ族とフツ族のような憎悪の連鎖も想定して、これを避けなければならないと思う。
いずれにしても、人々が、しっかりと、いま起きていることを見据えておかなければならないと思う。すでに、中国の意図は明確。自国の利益を追求するだろう。横浜で開催されるAPECで、日本は普遍的な義をもって自国の立場を表明し、各国の賛同を得て欲しいものだ。
平和を希求することは、勇気や覚悟が必要なのだと学びたい。

お芋掘り

お芋掘りの写真を送ってくれました。

こちらは、いま教区御講に向かっています。

2010年10月16日土曜日

横浜

横浜に到着いたしました。肩がパンパン。

明日は日曜日。一人でも多くのお参詣をお待ちしています。

錦小路

昨夜、大阪でのご挨拶、無事にさせていただいて、本当に有難く、嬉しさを噛みしめていました。

近日中に、嬉しいご報告ができると思います。ありがとうございます。

今夜は麩屋町の長松寺で夜のお総講です。明日は横浜で家族総参詣日、続いて妙深寺農園のお芋掘り。70名を越える大イベントです。子どもたちが土にふれて、食べものを自分で取る。素晴らしい食育の機会になると思います。

午後は御講です。

写真は、京都の錦です。麩屋町から百メートルくらい。

2010年10月15日金曜日

大阪に出没

午前の御講から新幹線に飛び乗りまして、大阪に参りました。

山の向こう

もう少し、もう少し。

千里の道も、この一歩から。

必ず、新しい景色が、あの山の向こうに広がっているから。

前に進もう。立ち止まらずに。

9年後のカトマンズにて

スケートボードパークのオープニングセレモニーから午後はカトマンズ市内で御本尊のご奉安のご奉公、そしてギャヌの自宅へお助行に行きました。 ビラジ・バーラ君はユブラージが教化親です。お戒壇もユブラージが護持していたものを譲りました。この日を待ちに待っていてくれました。ビラジは本当に...