誰も人に嫌われたくありません。愛されたいし、好かれたい。そう思い、考えるのが普通です。この気持ちがあるから、丁寧な言葉を選んだり、身だしなみや所作振舞に気を配ったりするものです。
自虐願望や狂気に取り憑かれていなければ、こうした感情を持つことは自然なことで悪いことではないはずです。「誰にどう思われても構わない」と考えるのは、少し単純で乱暴です。この思いが先行すると、言い方も所作振舞も粗暴になり、本人は良いと思ってしていることでも、独善的で傲慢だと批判されるかもしれません。
しかし、仏教とは究極の人間学です。「愛されたい」「好かれたい」という気持ちは、逆に真実の愛や友情を遠ざけ、自分らしく生きることや正しい行いの実践を妨げる場合があると教えていただきます。
わが子を愛する親と同じです。子どもの反発を怖れて、言うべきことを言わず、教えるべきことを教えないのは、愛していないのと変わりません。
「愛されたい」「嫌われたくない」という感情は、「自己愛」や「自己保身」に通じます。イビツな愛情で育てられた子どもは不幸になる。大人の関係でも同じです。自己愛や自己保身の強い人は、真実の愛や友情を得られません。
御教歌、
「何の為 にくまるゝをやよろこばん 人をたすけん 慈悲の余りに」
「何のために人に憎まれて喜んでいるのですか?」
「この人を助けようと思う慈悲が心に溢れているからうれしいのです」
この御教歌には、ご信心を実践する者の心境が表されています。ご信心があれば必ず助かる、良い生き方が出来るという教えや慈悲の思いは、簡単には伝わりません。
しかし、これを伝えなければ、相手も不幸になり、自分も不幸に思う。むしろ反発されても、反感を抱かれても、ご信心の有難さを伝えたい。これが法華経の信仰を実践するということであり、菩薩の誓いを立てた者の修行なのです。誰に強いられて行うわけでもなく、慈悲の心で行うのです。
西欧には、
「旅は、賢者をさらに賢くするが、馬鹿をさらに馬鹿にする」
という教訓があります。
旅好きは多くても、旅を有益にできる人は少ないということです。同じく読書やネットサーフィンも、大切なことを知らないままならばむしろ有害ということになります。いらない情報を仕入れて安心し、慢心してしまう。人々が陥り易い落とし穴を指摘しています。
旅はもちろん、経験や知識以上に大切なことがあります。それが正しい信仰を持つことです。
大切なことを伝えようとすると反発してしまうのが雑多な知識を積み上げた凡夫の性質です。悪意はなくても自然に受け容れられなくなる、それが罪障の特徴です。末法の世では、それが著しく深く、極めて激しくなると仰せです。
ですから、これらを前提として、反感を抱かれても、反発されても、本人の美しい魂や可能性を見て、信じて、大切なことを伝えようと努力するのが佛立菩薩行なのです。
本年最初の教務会で、
「今年は、難と毒を怖れてはならない」
と申し伝えました。困難な時代に、困難なご弘通ご奉公に挑むのですから、まず教務から大きな苦難や困難を前提として覚悟しなければご奉公になりません。
いま妙深寺は、「震災復興祈願・先住松風院日爽上人御十三回忌 報恩記念大会」に向けてご奉公を進めています。震災後だからこそ、この一大ご奉公を通じてご信心を改良し、本当のご弘通に踏み出したいと考えています。
今までどおりでは背伸びしても届かないような参詣目標を前に、お寺から遠ざかっていた方々にも声を掛けさせていただいています。すると、むしろ良い話ではなく、悪い話、悪い反応が返ってきます。
私たちは毒を持った生き物です。それは、「貪欲」という欲望であり、「瞋恚」という怒りや妬みであり、不幸になることは気持ちがよくて止められない、良いことは避ける、反発するという「愚癡」の「三毒」です。自然界の生き物は、危険が迫った時や獲物を捕らえるために毒を出しますが、人間は違います。正しい生き方や教え、ご信心の話に触れると、持っていた毒が暴れ出し、それを吐いてしまうのです。つまり、この「毒」を怖れていては末法の菩薩行にならないのです。
1月4日、長松寺にお参詣してくださった素晴らしい方がいます。若い女性ですが、組長(部長)のお役を受けてご奉公されているとのこと。お仕事をしながら高齢者のお宅を丁寧にお助行して廻っていると聞き、心から感激しました。
何がきっかけでこれほど素敵なご信者さまが誕生したのだろうと思い、尋ねてみました。そして、お話を聞いて理由が分かりました。
彼女は、17才で母を亡くし、19才で父を亡くしたとのこと。大好きな父のために末期の宣告を受けてから、毎朝開門参詣をした。純粋に、純粋に、必ず御法さまは助けてくださると思った。しかし、結果として父は死んでしまった。その時、プツッと糸が切れた。
それ以来、お寺に行かなくなり、ご信心も辞めようと思った。でも、五年後、全ての事情を知っている立川さんというご信者さんが訪ねてきてくれた。彼女は言いました。
「その時、私、毒を吐いたんです」
その時、彼女は立川さんに向かい、
「なんでお父さんは死んだの?」
「御利益なんてないじゃない!」
「ご信心なんて、意味がない!」
と言ったのかも知れません。
しかし、立川さんはその言葉を静かに聞き、その毒を受け止めてくれた。そして、聞き終えてから温かくお話をしてくれました。
そして、彼女は気づいてくれた。ご信心をしていても永遠の生命がもらえる訳じゃない。寿命もある。御利益もあった。いま、父や母が喜ぶことは何だろう、と。
こうして彼女は何ものにも代え難い本物のご信心を掴まれました。いま、彼女は困難も毒も怖れず、菩薩行に励んでくださっています。これは、毒を怖れず、受け止めてくれた立川さんのおかげです。
真っ直ぐで、温かい慈悲の心が大切です。誤解され、逆恨みされることもありますが、そんな時はお祖師さまに似たご奉公が出来たと喜ぶべきでありましょう。
難と毒を怖れないご奉公こそ、人を助ける本当の菩薩行です。
自虐願望や狂気に取り憑かれていなければ、こうした感情を持つことは自然なことで悪いことではないはずです。「誰にどう思われても構わない」と考えるのは、少し単純で乱暴です。この思いが先行すると、言い方も所作振舞も粗暴になり、本人は良いと思ってしていることでも、独善的で傲慢だと批判されるかもしれません。
しかし、仏教とは究極の人間学です。「愛されたい」「好かれたい」という気持ちは、逆に真実の愛や友情を遠ざけ、自分らしく生きることや正しい行いの実践を妨げる場合があると教えていただきます。
わが子を愛する親と同じです。子どもの反発を怖れて、言うべきことを言わず、教えるべきことを教えないのは、愛していないのと変わりません。
「愛されたい」「嫌われたくない」という感情は、「自己愛」や「自己保身」に通じます。イビツな愛情で育てられた子どもは不幸になる。大人の関係でも同じです。自己愛や自己保身の強い人は、真実の愛や友情を得られません。
御教歌、
「何の為 にくまるゝをやよろこばん 人をたすけん 慈悲の余りに」
「何のために人に憎まれて喜んでいるのですか?」
「この人を助けようと思う慈悲が心に溢れているからうれしいのです」
この御教歌には、ご信心を実践する者の心境が表されています。ご信心があれば必ず助かる、良い生き方が出来るという教えや慈悲の思いは、簡単には伝わりません。
しかし、これを伝えなければ、相手も不幸になり、自分も不幸に思う。むしろ反発されても、反感を抱かれても、ご信心の有難さを伝えたい。これが法華経の信仰を実践するということであり、菩薩の誓いを立てた者の修行なのです。誰に強いられて行うわけでもなく、慈悲の心で行うのです。
西欧には、
「旅は、賢者をさらに賢くするが、馬鹿をさらに馬鹿にする」
という教訓があります。
旅好きは多くても、旅を有益にできる人は少ないということです。同じく読書やネットサーフィンも、大切なことを知らないままならばむしろ有害ということになります。いらない情報を仕入れて安心し、慢心してしまう。人々が陥り易い落とし穴を指摘しています。
旅はもちろん、経験や知識以上に大切なことがあります。それが正しい信仰を持つことです。
大切なことを伝えようとすると反発してしまうのが雑多な知識を積み上げた凡夫の性質です。悪意はなくても自然に受け容れられなくなる、それが罪障の特徴です。末法の世では、それが著しく深く、極めて激しくなると仰せです。
ですから、これらを前提として、反感を抱かれても、反発されても、本人の美しい魂や可能性を見て、信じて、大切なことを伝えようと努力するのが佛立菩薩行なのです。
本年最初の教務会で、
「今年は、難と毒を怖れてはならない」
と申し伝えました。困難な時代に、困難なご弘通ご奉公に挑むのですから、まず教務から大きな苦難や困難を前提として覚悟しなければご奉公になりません。
いま妙深寺は、「震災復興祈願・先住松風院日爽上人御十三回忌 報恩記念大会」に向けてご奉公を進めています。震災後だからこそ、この一大ご奉公を通じてご信心を改良し、本当のご弘通に踏み出したいと考えています。
今までどおりでは背伸びしても届かないような参詣目標を前に、お寺から遠ざかっていた方々にも声を掛けさせていただいています。すると、むしろ良い話ではなく、悪い話、悪い反応が返ってきます。
私たちは毒を持った生き物です。それは、「貪欲」という欲望であり、「瞋恚」という怒りや妬みであり、不幸になることは気持ちがよくて止められない、良いことは避ける、反発するという「愚癡」の「三毒」です。自然界の生き物は、危険が迫った時や獲物を捕らえるために毒を出しますが、人間は違います。正しい生き方や教え、ご信心の話に触れると、持っていた毒が暴れ出し、それを吐いてしまうのです。つまり、この「毒」を怖れていては末法の菩薩行にならないのです。
1月4日、長松寺にお参詣してくださった素晴らしい方がいます。若い女性ですが、組長(部長)のお役を受けてご奉公されているとのこと。お仕事をしながら高齢者のお宅を丁寧にお助行して廻っていると聞き、心から感激しました。
何がきっかけでこれほど素敵なご信者さまが誕生したのだろうと思い、尋ねてみました。そして、お話を聞いて理由が分かりました。
彼女は、17才で母を亡くし、19才で父を亡くしたとのこと。大好きな父のために末期の宣告を受けてから、毎朝開門参詣をした。純粋に、純粋に、必ず御法さまは助けてくださると思った。しかし、結果として父は死んでしまった。その時、プツッと糸が切れた。
それ以来、お寺に行かなくなり、ご信心も辞めようと思った。でも、五年後、全ての事情を知っている立川さんというご信者さんが訪ねてきてくれた。彼女は言いました。
「その時、私、毒を吐いたんです」
その時、彼女は立川さんに向かい、
「なんでお父さんは死んだの?」
「御利益なんてないじゃない!」
「ご信心なんて、意味がない!」
と言ったのかも知れません。
しかし、立川さんはその言葉を静かに聞き、その毒を受け止めてくれた。そして、聞き終えてから温かくお話をしてくれました。
そして、彼女は気づいてくれた。ご信心をしていても永遠の生命がもらえる訳じゃない。寿命もある。御利益もあった。いま、父や母が喜ぶことは何だろう、と。
こうして彼女は何ものにも代え難い本物のご信心を掴まれました。いま、彼女は困難も毒も怖れず、菩薩行に励んでくださっています。これは、毒を怖れず、受け止めてくれた立川さんのおかげです。
真っ直ぐで、温かい慈悲の心が大切です。誤解され、逆恨みされることもありますが、そんな時はお祖師さまに似たご奉公が出来たと喜ぶべきでありましょう。
難と毒を怖れないご奉公こそ、人を助ける本当の菩薩行です。
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