今日、彼は「宗之」から佛立教務に生まれ変わる。同志の誕生を心から嬉しく思う。まだ18才。これからたくさんのことを学び、たくさんの壁に突き当たる。僕もそうだった。それでも、末法は本物になれるか選手権。御法さまから離れず、本物の佛立教務を目指して欲しい。いや、本物にならなければ容赦しない。
彼が小学校の卒業文集に寄せた文章が園美さんのブログに載っていて、小さな字だけど読んだら泣けたよ。12才から18才。いろいろなことがあった。僕は走っているだけのように思うけど、小さな瞳で、見てくれていたんだね。ありがとう、宗之くん。
末法でも、一般社会でも、「品質」が保たれているから一つの集団として成立し、そのアイデンティティを認められる。「佛立」「本門佛立宗」という看板は一つでも、「教務」の「品質」がバラバラで、そのご奉公(英語では「サービス」という)の内容も均等化されていなければ、全く社会に通用しない。
ここではこんな人がいるが、こっちに行くとこんな人がいる。個性は大切だが、その根底に流れるスピリット、佛立教務としてのご信心は一つで、そのご奉公は「ご弘通」「菩薩行」という一点で厳しく「品質管理」されなければならない。
ご弘通が低迷していたら、何が出来てもダメ。菩薩行に動けていない者は「佛立」ではない。品質検査で落ちてしまう。
僕が言うのも変だが、残念ながらお坊さんの世界は甘い。本来は最も厳しい世界のはずだが、他の宗派でも潰れるお寺は少ないように何とかやっていけるものなんだ。「佛立」では「何とかやっていける」程度のご奉公を許さないはず。しかし、
現実にはご弘通は伸びていないし、その伸びていないことを真摯に受け止めて厳しく改善を求める、というシステムが無いか、機能していない。
長松清風というお方は「ボウズ」が大嫌いだったんだよ。もちろん、「真実の出家」はこの上なく尊いものだと仰せになっている。しかし、とことん、とにかく、徹底的に、「生臭坊主」「回向坊主」は嫌いだった。
坊主の世界は、何度も何度も腐敗を繰り返してきたんだ。上座部仏教から大乗仏教、大乗仏教から密教と、教えの違いはあるけれど、衆生救済の使命を忘れて、僧侶たちが専門性と閉鎖性の中にあって、奇妙な独特の価値観や仲間意識に陥る時、その集団は存在価値を失ってきた。日蓮門下でも、同じく腐敗を繰り返してきたからこそ、門祖聖人があり、開導聖人がある。この「教訓」こそが「佛立」なんだよ。
坊主が坊主だけの価値観に陥った時、いい意味での疑問や期待を持っていた人たちは、お寺を離れていってしまう。しかし、それに気づく坊主は少ない。それで良しとしてしまう。「そうはさせるか」というスピリットが、佛立のアイデンティティだった。決して、分裂したり、独立したわけではない。「真実の出家」に最大の価値観を置いていた。
僕たちも、極めて厳しい客観性と品質管理の中に身を置いて、本物の「佛立教務」を目指そうじゃないか。
宗之くん、おめでとう。佛立教務として、真実の出家として、頑張ってください。
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