あと数時間で日本からの参詣団が台北の松山国際空港に到着します。
これまでは準備、これからが本番。
とても長く感じますー(汗)。
本年10月13日から宗門の海外部長を拝命いたしました。
いわゆる海外弘通の歴史では第三世代。バブル崩壊後の宗門、インターネットの普及によって日本人や日系人の介在しない国で英語による海外弘通が始まった世代の者がこの役職に就いたことになります。
こうした意義を踏まえて、しっかりとご奉公させていただきたいと思います。
祖父・清水日博上人は第一世代から第二世代に向かって海外弘通の第一線に立たれた方でした。
サイパンでのご奉公、そのサイパン島の玉砕、そしてブラジルへのご講有巡教の随伴。
日博上人のアルバムには戦中のサイパンの貴重な写真が残されています。
そして、宗門の海外弘通について、様々な論文も残されました。
1955年(昭和30)にブラジルから帰国した後、報告のための講演会は100ヶ所を超えたといいます。
著書『コーヒーの壺』は海外弘通について書かれた最初のブログのようです。
先日、ブラジルへ渡航した際にもこの著書を携えていきました。
この本の終盤に「斯くあるべきだ」という章があります。この部分は現代にも通じる課題について、様々な示唆を与えてくれます。現在のブラジル教区の一つの原点があります。
今から60年以上前に、ここまで細かく考え、未来を描いていたことに驚きを感じるのは私だけでしょうか。
盟友、法友としての、遠慮ない日水上人と日博上人とのやりとりがすごいです。
後に日水上人は現在の妙深寺がある三ツ沢の地鎮式、大和別院(現在の法深寺)での野外御講、私の父と母の結婚式にもわざわざ参列してくださっています。まさに盟友、法友でした。
大半の方がこうしたことを知らないので、是非とも読み返していただきたいと思います。
『コーヒーの壺』の「斯くあるべきだ」です。妙深寺の荒田さんのお父さん、なぜ妙深寺に貴重なビデオがあるのかも記されています。
「こうおいでなさい
サンパウロに新寺建立 開教庁
統監ありて指揮をとるべし
ブラジル佛立宗の中心はリンスの大宣寺である。ここが他の六ヶ寺の親寺であり、大本寺であり総帥の日水上人が常住の寺である。
ここから生まれたのが他の六ヶ寺で住職はみな日水上人の弟子である。したがって、自然に中心はリンスの大宣寺になっているわけである。
日本から郵便物が来ても荷物が届いてもサントス港からサンパウロを経て一応このリンスの大宣寺に送られ、更に改めて各地の寺院に送られるのである。
飛行機で来るものまでが、ものによると、サンパウロのコンゴニャ飛行場についてからリンスに行ってそれから一般に渡るのである。
日本で聞いていると統制がとれて理想的なように思えるが、日本の土地の二十四倍もあるブラジルは、日本の明治時代のような処で、大都市もあれば、一面では世界的水準にあるものもあるが、一歩奥地に行けば原始的な生活と不便なことの数々ある、所謂ノコギリ文化時代の国である。
その国での連絡が、これまでは現代の国際的時勢に合わない、みんな気が付いていても長い習慣でのままやっているから、いつまでたっても改まらない。これではいかんと思った。
このリンスは昔は、地味豊かで、日本人の移住で栄えた処だったが、今では皆奥地に移住して昔のような大きな町ではない。人口も長野県の松本市程もない。
この松本市から大阪位まで離れているところに大阪位の膨大な経済商業の国際都市としてのサンパウロ市がある。
人口も四百万以上で、丁度大阪市くらいで、ブラジルはもとより全南米最大の大都市である。世界第四位という国際飛行場もあり、伯国の各代表機関は必ずこのサンパウロにある。日本の大使館はリオデジャネイロ市にあるが、大使館より大きい総領事館がここにある。
そして大阪港の隣に神戸港があるように、ここにもサントス港が控えている。
日本はもとより、世界各国の船舶はリオにも寄るが、このサントスには必ず寄港してサンパウロを通じて物資の集散をしている。
アメリカのニューヨークに対してワシントンがあるように、日本に東京、大阪があるように、その位離れたところにリオデジャネイロ市がある。
これが首都で、政治の都、教育の都、軍人の都でもある。
しかし、このリオ市にも、サンパウロ市にもまだお寺は無い。それにリオは信者の数も極めて少ないのである。
これに引きかえ、サンパウロは最大の都市で且つ一番多くの信者が集ってるところである。
奥地から移住し且つ日本からの移民でもあって、正にブラジルはサンパウロよりである。
それなのに、サントス港に着いた郵便、荷物、人物を奥地リンスに日をかけて送って、しかも改めて不便な地から各地に連絡をするなんぞという現状は、ブラジル佛立宗の懈怠、怠慢である。信者の不幸である。否、明日への弘通のマイナスである。こんなわけで私はサンパウロにブラジル佛立宗の中心を置くべきであると極力説いて次のような提案をした。
嗚呼やんぬるかな
信心の風吹き払へ むら雲を
南十字のほしかげりたり
まづ、早急にサンパウロに新寺を建立してその中にブラジル開教庁を設置し、全ブラジルの名実共に備った中心とすること。
二番目には、現在モジダスクルーゼスの隆昌寺所属になっているサンパウロ在住の信者はサンパウロの新寺に所属せしめること、それから、モジ隆昌寺の僧檀は信心本意に徹して大所、高所から大乗的の見識を以て大英断により率先実行する。
というのも、現在、モジ、スザノ、サンパウロの大都市を所属に擁している隆昌寺は、日本で云えば、東京から熱海ぐらい離れたところにあるお寺で、奥地から移住したり、日本からの入植者で、この三市の繁栄と共に、信者の自然発展と増加は大変なもので、このままだと、近い将来に、他のお寺との均衡状態が何らかの形で崩れ、問題が発生する。隆昌寺僧檀はここで信心を磨き、徳を積み、三宝に尽くせば後日かえって何倍かになって幸せが帰ってくる。
四番目に、諸種の事情から、サンパウロに作る新寺の住職は日水上人が就任し、常住すること。
これは他の誰がやってもうまく納まらないと思う。
それから、リンスの大宣寺は岡村現朗師か照井清賞師を住職にするか、又は代務者にして任せる。
六番目に、サンパウロの新寺には右の内の残った一人の教務を常住せしめて開教庁の事務と日水上人の代理を行わせること。
七番目には、日水上人はこの度の梶本御講尊のお徳を頂き、此の例をそのままにこれから生まれる新寺まで入れて七ヶ寺の三大会を年間、順々に導師をして奉修する。
又、一年の間に一回は全ブラジル内の全地域の信者のお講を奉修する計画を立て実行する。
これによってリンス大宣寺の信者だけでなく、現在は末寺となってお弟子さんたちのお講しかつとめて頂けない信者も年に一回は日水上人のお講が頂ける。
更に各寺の住職もこれによって師に仕える徳を積み、且つ信者に給仕第一の信心を身に以て教示する事が出来る。つまりこのお講を通じて「志」を教えたり中央の幹部による全般への参詣と折伏が行き届き、吾が寺と吾が身が栄えて全ブラジルの信心の高揚になる。等々、
他にも二、三の日本内地の実例を引いて諸種提案したが、日水上人が、
「リンスは佛立宗の発祥の地で、私が大宣寺を離れるなぞトンデモナイことだ」
「では大宣寺は由緒寺院として貴師の兼務でもよいから、兎に角サンパウロに新寺を建て、開教庁を置いて日水上人が住職になるように」
「いや、サンパウロに開教庁を作るのはエエが私はリンスは離れられない」
というので一番困難な神保清胡師にあらかじめ話して内諾まで得ていたのに決定を見なかったのは残念だった。
これは御講尊もあまり乗り気ではなく、現在の幹部はただ目をパチクリするだけ……。
そこへもって来て、頭の良い隆昌寺幹部の或る一人が事の重大を察知して今までモタモタして承服しなかった他の件を全部承服して、
「この件だけは時期尚早と思いますので、やがて後日に」
と申し出て、会議は終わってしまった。
「ああ、やんぬるかな」
である。
仏天はブラジル佛立宗にも歴史の轍を踏ましめ給うか?
身志をして苦しましめ給うのか?
天莫々! 夜蓼々!
ブラジル佛立宗発展の地割れはいつ来るか、成長途上の脱皮は必ず起り来る。
未萠を知る貧僧
今朝も亦一皮むけて落ちんとす
筍は早や若竹となる
筍は堅い土地に生える時必ず地割れが起きる。
成長の早い筍は、最初の皮はドンドンと中から成長して来る大きな竹の皮に筍を委せて、開いて、やがて満足して落ちて行く。
始めの竹の皮が開かなかったなら、譲らなかったら、筍は竹にはならない。
地面を柔かに培って竹を生やせ。
踏みつけた地面にしたなら地割れが起る。
竹の皮は竹の皮であれ、鉄や石では出来ていない。
関東を第四世日教上人が開発せられて御遷化遊ばれた時に本所の清雄寺は「本門佛立講東京支部」であった。
その高弟の、後の第八世日歓上人は麻布乗泉寺に、第九世日声上人は同宮村町の光隆寺に住職遊ばされて一大弘通を展開されていたのがその独立を認めず、御法の御真意や一宗の将来が識見出来ず、「東京には、東京支部一つより下さん」
とか、
「あのやり方は謗法だ」
とか、種々の拘束を加えて来た時、大きな地割れが起きて遂に第三世日随上人は時の講長以下を教導して、乗泉寺日歓上人に東京第二支部、光隆寺日声上人に東京第三支部を下附して結局今日の大東京から関東一円、更に東北、北海道までご弘通となったのでものである。
これは大なり小なり生れ出る時、又発展途上には必ず起る地割れである。
驚いたり、狼狽するものではない。
又竹も、最初の皮では間に合わなくなるが当然で、進んで後から出来てくる新しい大きな皮に、譲って立派な竹にしていかなければいけない。
その皮でさえ、終いには落ちて竹だけが成長するのである。
竹の皮の上を糸でしばり、針金で巻くの不見識をしてはならない。
竹はのばせ、竹は育てよ、悲劇の主人公になってはならない。
「未萠を知るを聖人(せいじん)といい、三世を識るを聖人(しょうにん)という」と歴史はくり返す。
送別の饗宴
講演にラジオ放送座談会
来る日送る日数百余回
十七日は隆昌寺で開導聖人の総講をつとめて婦人会の教養会を開催した。
御講尊はラジオ放送においで遊ばされたが、いつも私と一緒で私が時間を頂くので申し訳なくお一人で存分に放送をして頂いた。
私は婦人会に講演をしていて、御講尊の放送を共に聞かせて頂いたが、いつもながら実にお上手なものである。
十八日いよいよお別れの日も近くなったので、一般の人とお別れ大会をサンパウロ大正学校で開催した。私には二度目の会場だった。
終わって帰る時、
「奥地から母を連れて来たが間に合わなかった、誠にすみませんが大僧正と僧正の正装をして母の為に今一度見せてあげて呉れませんか」
と頼まれて改めて法衣を着てお目にかけた。こんな一面もあるブラジルである。
十九日、この日は大型バス一台で一日サントス港の見物をさせて頂く予定であったが、見物の他にやはり石丸氏の宅でお講をすることになった。
石丸氏は食堂を経営していたが、帰国後今日まで折々ブラジルに行き行く人のお世話を願っている。
二十日、買い物と荷物の整理、古賀旅行社へ出かけて一日忙殺された。夜は揮毫をする。
二十一日、米国大使館へ行き帰国のビザや旅行の手配をする。午後より隆昌寺で役中講演会を開いたが、その出席者は約百名であった。
二十二日一時から座談会を開催、夕方からはモジ放送局から私だけの放送をさせて頂いた。
これは先の十七日、御講尊と私の放送が予告してあったのに梶本大僧正だけだったから清水僧正の放送をどうしてもせよとの声が多いので、改めて放送をさせよと云われ
「心こそ大切に候」
の題名のもとに、
「宗教信仰と医学医療はあざなえる縄の如し」
の彼の講演をさせて頂いた。
二十三日、川崎氏に御願いして午前中御講尊はサンパウロのライ療養所と不幸児収容の福祉施設六カ所へ夫々金一封の寄付をされて、ブラジルのお布施は少しでも多くブラジルに置いてくる事に心がけられたので、新聞に賞賛されるという一コマもあった。
午後からサンパウロの小笠原亀五郎氏宅のお懺悔改良と、御本尊奉安御礼御講が奉修された。
この人は大分の小林御導師の信者で、熱海の妙立寺に長くおり、後下田開進寺にうつり現在ご奉公にきばっている畑中顕栄尼の親戚にあたる人である。
この人が、一時、日水上人との間がうまくゆかなくなり、別に親会場を設け、別派をつくった型になっていた。
御弘通御本尊も別に作製するなど、相当なものだった。
しかし、ご巡教を機に、梶本御講尊のお徳を頂いて、従来のことは一切水に流して懺悔し、佛立宗とは一本になることとなり、勝手に作製していた御本尊を始め、其の他のものも皆お寺に納めて、御講尊に金丸御本尊を御染筆願い、日水上人始め関係者列席のもとに御本尊奉安御礼御講を奉修させて頂いたのである。
これも畑中顕栄尼の親戚であるなど、私とも特別な関係があるので心配して度々密かに出かけて行きこの御講をつとめる結果になったのである。
奥さんは当時八十歳で元気にご奉公中であり、子息は博君といって、青年会でも有望とされている人である。
夜は、七時からニテロイホテルでいよいよ帰国の送別会をすることになっている。
さて時間になると各地の代表百余名が集まり、会が進行するにつれ、想い出を語り、感慨を述べ、感謝と感激の内に時が経つのも知らず、涙と笑いの一大饗宴であった。
宴会が終わり、日本各地のフィルムを上映し絶賛を博した。
このフィルムは
「帰国の際は譲っていってくれ」
という商人の申し出を断ってブラジル佛立宗へ寄贈した。
「皇居の鳥居」
「首都東京」
「日本猿の生態」
「箱根、熱海の風景と富士」
の四本で、「箱根、熱海の風景と富士」は、熱海慶雲閣の岸時次郎さんの記録映画で、義兄の荒田幸三氏に特に頼んで、借りて行ったものだが、箱根、熱海、富士とみんながあこがれている風景だけに是非是非とねだられて遂にブラジルに寄付してきたが、帰ってから岸さんは、
「家内や子供との記録フィルムなので二度と撮れないものだから困りますが、でもそのような事情なら止むをえません」
と承知してくれたので漸くホットした。
日本から持ってきたテープレコーダーと、オートスライド映写機は、予算の関係があって、大蔵大臣である私が、売ることにして取引するばかりになっていた時に、
「清水上人は帰りに、映画のフィルムばかりか、テープレコーダーからスライドの映写機まで寄贈していってくれたというのと、売っていった、というのでは大変な違いです、思い切って寄贈していって下さい。今後、上映する度毎にブラジルの人がどんなに喜ぶ事か……」
といわれ、
「負けた!」
これは相当な役者でとてもカナワヌ、ときれいさっぱりと全部寄贈してしまった。
ところが、そのかわりというと変だが、現地で撮影した厖大な巡教記録映画四巻をもらって帰ってきた。
往く時の証明があるので、その点は何処の税関でも面倒はなかった。
帰国後、これを思い切ってカットして編集し、報告講演の時に上映した。
明日はいよいと二十四日、帰国の途につく。
二本のレール、二つの目
日本とブラジル国の二つなる
命むすびて世界かがやけ
二十四日、朝6時半に起き、最後のお看経をさせて頂いた。
10時半にアルモサ(朝食)を頂いて、長い間自分の家のように気儘にふるまい、お世話になった堀越真輝氏宅をあとに、自動車三台でサンパウロ、コンゴニャ飛行場へ向かった。
早や、飛行場センターの階上には、三百人からの内外人の見送りの人が集まっている。
そこで最後の御挨拶。
皆さん!
二本のレールの上を汽車が走ります。
二本の電線が一つになった時に電灯がともります。
二つの目が開いていて、一つのものを正しく視ることが出来ます。
おとこ、おんなの二つの命が結ばれて人生は輝きます。
皆さん!
日本とブラジルの二本のレールの上を世界平和の建設列車を走らせようではありませんか!
日本と、ブラジルという二本の電線を一つに結び世界を照らす”灯”を灯そうではありませんか!
北半球の日本の眼と、南半球のブラジルの眼とこの二つの眼で、今日の、そして明日の世界の正しき道、正しき信仰を識って、正しくそして幸せの道を前進しようではありませんか!
日本の命と、ブラジルの命とを正しい信仰の上で一つに結び、世界寂光土の建設をしようではありませんか!
では全ブラジルの皆さん、さようなら。伯国在住の全日本人六十万の皆さんお元気で。
佛立信徒、役中幹部の皆さん、
「異体同心あなれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なし」と日蓮聖人は仰せられております。我慢、偏執の心なく、異体同心に、勇猛精進獅子奮迅のご弘通にきばりましょう。
皆さん!
長い間お世話様でした!
ムイトオブリガード、ムイト、ムイトオブリガード!」
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