横浜ではコロナとインフルエンザがダブルで流行しています。お寺の中にも、それぞれの感染者、陽性の方が出ています。充分お気をつけください。
私も何とか予定されたご奉公は落とさず出来ましたが、声が枯れ少し咳も出てフラフラしていました。母も元気ですので僕もなんとか踏ん張りたいと思います。
昨夜は京都 長松寺のお総講を勤めさせていただきました。紅葉の京都、例年に比べて遅く、そして気持ち悪いほど温かい京都。
底が抜けた世の中。韓国も混沌、日本はフリーズ、米国はリセット、リブート状態。人間界も自然界もぐちゃぐちゃ、サイクルが乱れたというレベルを超えてます。
それもこれも人間の罪や業。
真偽不明の情報が溢れて世論が右往左往する。既存の権威は次々と失墜し、多極化、カオス化が進む。保守もリベラルもない。幕末と同様、壮絶な権力闘争、権力交代が進行する。
壊れることで新しいものが生まれるのならば仕方ないでしょうか。新世界の誕生には暗い影がつきまとい、一般庶民にまで壮絶な産みの苦しみを強いるもの。
時代の転換期では勝ち組と負け組が生まれます。新たな権力者は品格がないので露骨な身贔屓や汚職、理不尽が横行。巷には食事もろくに取れない人が溢れ、大名や旗本の妻や娘が遊郭に身をやつし、履き物もなかった家の子が高職に抜擢されたりします。
司馬遼太郎の小説「峠」や島崎藤村の「夜明け前」には強烈な時代の濁流、そこに生きる人間の悲哀が描かれています。純真無垢な人たちが純粋な故に道を誤るのは最も悲しいことです。
いつの時代も大差ありませんが、人びとは扇動されます。明治維新は宗教的エネルギーを利用して達成されました。「尊皇」と「攘夷」という2つの旗頭でしたが、「攘夷」は維新が成ると早々に見限られました。
結局、人びとは利用されただけだったし、アジテーターにとってはそんな信条どうでもよかったのです。島崎藤村のお父さんが「夜明け前」の主人公のモデルだと言われていますが、失望しすぎて変になってしまいました。
今の世の中、国内外で同じような恐ろしいことが起きていると思います。すでに社会の底が抜けていま。
正義を振りかざしているのに、どちらも正義ではない。どこにも正義がみつからな。頼っていた人が役に立たなかったり、信頼していた組織も動かないし、動けない。こんな恐ろしい世界。
オーストラリア政府が子どもたちのSNS使用を禁止したのも少し理解できます。まともにSNSの真偽不明の情報を受け止めていたら心が削られてしまいます。熱狂と失望、信用と裏切りに心が壊れてしまいます。子どもたちの前でしていいこと、してはいけないこと、見せる、見せない、聞かせる、聞かせない、聞かせたいこと、聞かせたくないこと、あるから。
ここまで世の中が狂い、社会の底が抜け落ちてしまったなら、逆に大切なことに感度のいい人はお寺の大切さや仏教の尊さに気づくと思います。お寺があって、住職がいて、お坊さんがいて、因果の道理、命の価値、菩薩行を学ぶ人の輪にいることの素晴らしさに気づけると信じます。
長々とこのようなことを考えていました。社会の底が抜けたと感じる日々に。
PS : 写真は昨日妙深寺で奉修された松風会御講の記念写真です。松風会は妙深寺のお年を召された方々の親睦会です。
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