より良い社会をつくるために、みんなで力を合わせる。映画「窓 MADO」の上映会はみんなで力を合わせて本当に素晴らしい会にしてくれました。
特に本山宥清寺、ご講有上人には並々ならぬお力添えを賜りました。京都佛立ミュージアムのスタッフの方々も連日ご披露、ご奉公くださいました。ありがとうございます。
西村まさ彦さま、麻王監督、貴重なお時間をいただいて、素晴らしい上映会にしてくださいました。化学物質過敏症、横浜副流煙裁判、このテーマの奥に、私たちにとってとても身近な問題が横たわっています。
横浜の上映会の時、西村さんがおっしゃった「エンパシー」がこの映画の発する一つのキーワードだと思います。
「シンパシー(Sympathy)」と「エンパシー(Empathy)」はどちらも「他人の気持ちを理解しようとする姿勢」のことです。
シンパシーは他人の感情や状況に対して「同情」や「思いやり」を持つこと。相手の感情を理解し、「かわいそうだな」と感じること。
エンパシーは他人の感情や状況を「自分のことのように感じ取る」能力や姿勢のこと。相手の立場に立ち、感情を共有することで深い理解を得ること。
つまり、シンパシーは相手の気持ちを「理解し、寄り添う」こと(同情・思いやり)で、ここからさらに踏み込んだエンパシーは、相手の気持ちを「感じ取り、共有する」こと(共感)だといいます。
いま必要なのはきっと「エンパシー」。自分の世界だけではなくて、隣の世界とどうするか、どんなふうに交流するか、どんな会話ができるか、どんな関係が築けるか。
同じ価値観の人だけ、その小さな輪の中で「共感」した、気持ちが通じるという「シンパシー」では不十分のように思います。上から目線で「シンパシー」と言っても分かり合えるはずもない。
この映画が取り上げているように、それぞれに真実があって、正義がある。それぞれにそれを疑いなく信じきってる。証拠もある、エビデンスも取れてる、間違いないと思ってる。そのままでは平行線。どこにも繋がらない。
考え方や価値観の違う人の立場に立って、なぜそんなふうに思うのか、なぜそういう思いに至るかなどを想像する「エンパシー」。今の世の中に決定的に欠落していると思います。
そんな生易しいことを言っていたらやられてしまうと思うけれど、そうじゃない。人間らしさを失って、生きることの方がもっと怖い。そのままでは幸せになれない。
窓。窓の外に向かってみる。窓の内側に思いを馳せてみる。窓の外には知らない世界。窓の内側にも知らない世界。窓は窓だけど、窓に考えさせられました。
ご来館いただいた皆様、ご協力をいただいた皆様、本当にありがとうございました。おかげさまです。
ありがとうございます。
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