2013年11月14日木曜日

明日は龍馬の命日

ドタバタのスケジュールですが、何とか運び屋さんとしての責任も果たすことが出来ました。よかったー。

明日は、何と言っても坂本龍馬の命日です。

坂本龍馬は、11月15日に生まれ、その誕生日11月15日に亡くなりました。太陽暦だと1836年1月3日の誕生と1867年12月10日に亡くなったことになるのですが、こうした符合には意味があると思います。

龍馬の誕生には様々な逸話が残っています。

印象的なのは彗星。『おーい竜馬!』の冒頭には、屋根の上で彗星に願いをかける乙女姉さんの姿が描かれています。
そう、その日付の近く、1835年11月16日に、公転周期は75.3年の」ハレー彗星が地球に最接近していました。だから、乙女姉さんがハレー彗星に願いをかけ、ハレー彗星と共に地球に遣わされたという逸話が生まれたのですね。

坂本龍馬の、本当の業績を考える時、私はこうした解釈もあながち妄想とは言えないと思っています。

ハレー彗星が次に地球に近づくのは、2061年の夏。60年ぶりの辛巳の年。2001年には米国同時多発テロが発生し、世界の流れが大きく変わりました。さて、2061年はどうなるか。今から48年後ですね−。

明日は11月15日。とにかく、坂本龍馬のお誕生日であり、ご命日ですね。

『仏教徒 坂本龍馬』に書いた、当時についての記述をアップしてみます。ちょうど、明治期に行われた権力者たちの葬式を列挙しながら、龍馬らの死を取り上げた箇所です。岩倉具視、岩崎弥太郎の超豪華な、派手な葬儀。そして、「神国日本」の国づくり支えた大久保利通の神葬祭。門徒としての木戸の葬儀、日蓮聖人を敬う海舟の質素な葬儀。そして、龍馬の死。

寒さ厳しい京都の町中をゆく、龍馬たちの葬送の列を思い浮かべていただければと思います。『坂本竜馬関係文書』の描写が、それを伝えています。下記、『仏教徒 坂本龍馬』の文章。

「慶応三年十一月十五日、龍馬は近江屋の階上に於いて生涯を閉じた。龍馬三十三才の誕生日のことであった。同時に、この時密談していた中岡慎太郎と下僕の藤吉が命を落とした。

龍馬らの葬儀は、諸説混乱しているが、慶応三年十一月十七日に行われた。混乱の原因は大正元年に発刊された『維新土佐勤王史』に起因すると『坂本龍馬日記』は記している。確かに『坂本竜馬関係文書』の葬儀の日付は「十八日」とされており、その他の資料と食い違う。この三人の葬儀は「十一月十七日」が正しい。

日付は間違っているものの、『坂本竜馬関係文書』の葬儀の模様の描写は、『小野淳輔書幹』『中岡慎太郎日記』『菊屋峯吉談話』『田中光顕談話』『回天実記』『中岡家文書』『海援隊日記』の記述を合わせて作られており、その一連の光景を叙述的に伝えている。

『慎太郎既に死す。即ち龍馬と共に隊の式を以てこれを葬ることゝなりければ、海陸両隊士は勿論、藩士及び在京諸藩の同志等来り会し、十八日の八ッ時(午後二時)、近江屋より三棺を出せり。第一に龍馬、次に慎太郎、最後は可憐にも偶然に両雄の死に殉ぜし、忠僕藤吉の柩なりき。(中略)薄れ行く夕暮の日影淡く、白張の提灯風に戦ぎ、葬列は、群鴉の声々頭上を掠(かす)めて、西の空には、はや星の瞬き涙を含めるものゝ如く、土佐藩邸の前より霊山指して過ぎ行くを、沿道の士女は、堵(かき)をなしてこれを送れり。中には数珠爪をまさぐりて涙ながらに、題目を唱ふるものもありき。』

万感胸に迫る名文と言っていい。京の都の人たちが、龍馬らの死を悼んで街道に人垣をつくり、誰とは知らずとも数珠を手に法華経の題目を唱えてくれていたという。「題目」とは、「法華経の御題目」の略で「南無妙法蓮華経」のことを指している。「南無阿弥陀仏」であれば「念仏」と呼び、そのように書く。長松清風が活躍していた京の街。その棺の主が誰とは分からなくても、龍馬らの非業の死を悼み、お数珠を合わせながら「涙ながらに」「南無妙法蓮華経」と唱え重ねる清風の弟子や信者たちが思い浮かぶ。」

以上、引用でした。

ここで書きたかったのは、あまりに哀しい龍馬の死と、それを見送った法華経の題目という記述、そして、皮肉な現実です。

それは、いま、東山の龍馬の墓所に行けば分かります。

『閑愁録』を出版した海援隊の隊長、仏教による国家の安寧を願っていた坂本龍馬は、神葬祭で見送られ、鳥居の中に眠っているという現実です。

「この後、この記述のとおり、三人は東山の霊山へ運ばれ埋葬された。喪主については記述がない。土佐藩邸の「命」を受け、同時に海陸両援隊による隊葬という形で早々に執り行われた。人数の比率からして陸援隊の隊士たちを中心に行われたのであろう。結論から言えば、龍馬と中岡と藤吉の葬儀は、神祭式で行われた。

十七日之夜、邸命ヲ受ケ隊士両隊長共に鷲尾山ニ葬ル。神葬ナリ。(海援隊日記)

両隊長葬式ハ昨夜相済申候。(十一月十八日付 篤助宛 宮地彦三郎書簡)

龍馬ハ夫より直ニ死し、家来ハ十六日ノ七ッ時死、慎君ハ十七日九ッ時死。然ニ慎君夫迄気分平生ノ如くニ而候趣ニ御座候。其夜五ッ時頃、霊山ト申、東山ニ神葬相成候由。
(十二月四日付 中岡源平宛 清岡半四郎書簡)

同十六日午ノ刻ニ、報書ノ一ツ浪花ニ著ク。衆是ヲ聞キ会ス。則乗船、十七日朝、入京(伏見ヨリ隊散行ス)。其夜、邸ノ命ヲ受ケ、隊の式を以て東山鷲尾ニ葬ル(神葬ナリ)。
(慶応四年一月二十三日付 坂本権平・乙女・春猪宛 高松太郎書簡)

東山にある「霊山」「鷲尾山」という名は、法華経の説かれた中インドのラージギル、古代マガダ国の首都「王舎城」の東北にあった小高い山、「グリドラ・クータ」「ギッジャ・クータ・パッバータ」、中国や日本では「耆闍崛山」「霊鷲山」と呼ぶ山の名前に由来している。その頂上付近には、鷲が天に向かって翼を広げているかのような巨石がある。この景観から「霊鷲山」と呼ばれるようになり、それを略して「霊山」「鷲尾山」と呼ぶようになった。そこに龍馬たちは眠ることになった。

この暗殺事件の探索に当たっていた鳥取藩士の記録を読むとさらに詳細がある。

本文之次第風説之儘ニ御座候処、翌日右三人の死骸、神道之式を以、埋葬いたし、依之窃ニ探索相試候処、高台寺之南隣リ国阿上人之旧跡霊山山内、村上歳太郎請持之山地ニ埋葬ニ相成。(慶応丁卯筆記)

龍馬らは神葬祭によって、この霊山へ埋葬された。その場所は村上歳太郎氏という人物の受け持つ山の一部だった。今、龍馬は慶応四年に創設された京都霊山護国神社の山腹に眠っている。慶応四年五月十日、勅に従って建てられたこの招魂社は、靖国神社の前身である「東京招魂社」よりも歴史は古い。当初の社号は「霊山官祭招魂社」とされた。
龍馬は何を思っているだろう。

いま、龍馬の墓に参ると、その前には大きな鳥居が置かれている。これには神式で葬られたことと、その後に起きた明治初期の神仏分離、廃仏毀釈の運動が影響している。埋葬直後に作られた標木から墓碑が作られたのは、慶応四年(明治元年)七月、日吉大社が襲撃されてから三ヶ月、清風が大津で捕縛された頃のことであった。

『閑愁録』の出版からちょうど一年後、龍馬は鳥居の中で眠ることになった。」

坂本龍馬の命日の前後、テレビで彼を紹介する番組が増えます。

是非、龍馬が願った、本当にすてきな国や社会の在り方、人びとの心を導く教えにも、目を向けてもらえたらと思います。

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