麩屋町のお総講が無事に終了いたしましたー。
今日はミュージアムの会議だと思っていました。妙深寺のスケジュールでは4日になっていたのですが、実は5日でした。私のミス。おっちょこちょい。我ながら、こんなことではダメです。暇なお坊さんかー(汗)。
まだ若いつもりですが、ガタが来ていてあきません。もともと海馬ないし(笑)。
でも、夕方からは、しっかりとお総講を勤めさせていただきました。夜のお総講ですが、それでも90名を超すお参詣をいただきました。ありがたいです。
今夜の御教歌。
「曲れるを直(すぐ)なりとみる目なる故
直(すぐ)なるものを曲れりといふ」
どーしよーもない凡夫の性を前提にしておかないと、すぐに怠り、すぐに慢心して、またアベコベにモノを見てしまう。
いいことはいい、悪いことは悪い。こんな当たり前の見方、見え方が、出来なくなる。
我見を怖れないと、仏教徒ではありません。
でも、難しいもんです。
そもそも、信仰や宗教的感性というのは主観だけの世界に陥りやすく、その主観は魔物と表裏一体のような部分があります。
「信心強けれども筋悪ろし。筋よけれども、信心弱し。」
信心は強いに越したことはありませんが、それがそうとは言えないのは何故でしょうか。
それは、師がいなくなり、信心に我見が入り込んでいるからです。
ここが、落とし穴なのです。
本当に、難しい。
御法門の筋を理解していて、なかなかいいことを言う人、場の空気を読んで、周りの人ともうまくお付き合いする人がいます。
一方で、でも、空気を読みすぎて、大切なことが伝えられない、お折伏できない、実践が伴わない、という人がいます。
筋が良くても、信心の弱い人。
法華経本門の教えからして、これで、いいわけ、ないです。いくら、空気読めていても、ただのいい人はむしろアカン人。
やっぱり、もったいなくも残念なのが、信心強けれども筋の悪い人です。信心は、堅固であるに越したことはない。しかし、それで筋が悪くなると、強力なパワーで我見を押し付けて、暴走してしまうことも、あるんですね。
うーん、では、どうするか。
それが、やっぱり、ご宝前のお給仕ということになります。師匠仕えということになります。
素直、正直と言いますが、みんなが我見を押し付け合うようなグループでは仕方ないです。
師弟ともに凡夫。身延山御書のように、師の失を見てどうするか、師堕つれば弟子堕ち、弟子堕つれば檀那堕つ、という怖さ。
末法には、たっくさんの障害があるんですよねー。
でも、大丈夫。
がんばりましょー。
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