この数日、CTや内視鏡をしていただいて、有難かったです。今朝も気になっていたところを含めて検査をしていただきました。ありがたいです。
ジェットスキーをしていた頃は、毎日がムチウチのようなもので、グチャグチャのグルグルでした。
特に、腰痛と右肩の脱臼が癖になってしまって、レースのたびに苦労しました。痛み止めを飲んだり、打ったり、フロイラインのテントの中で友人の関に腰のマッサージをしてもらっていたのは忘れられない思い出です。
お金もないし、チャンスもない。
繊細なスポーツというよりもこういう粗雑な感じでした。
痛みを乗り越えてする、痛みがあっても感じないようにする。
それがいいことだと思って、鍛えていたのです。
ですから、最近、「体の声を聞く」という大切さを知るようになって、僕は全然ダメだなー、逆の生き方をしてきたなー、とつくづく思うようになりました。
「少々の痛みであれば、大丈夫。」
「暑いだの寒いだのガタガタ言うな」
そんな風に教えられてきたので、大変です。
先日も、「痛いですか?」と聞かれても、何かよく分からない。
一本の指を出し、それをゆっくりと左右に動かして、
「これが見えますか?はっきり見えますか?一本に見えますか?」
と聞かれても、何だか、老眼ではっきり見えないし、ぼやけて見えるし、焦点が定まらん(笑)。
それでも、なんか、いつもそうだし、今日特別そうであるわけはないし、「はい、大丈夫!」と答える(笑)。
自分でも最悪だと思うのが味覚です。
ほんとーに、若い頃から、味覚に関して自信がない。
というのも、これも変な修行のたまものというか、先住に叩き込まれたことが原因ではないかと思います。
佛立第八世御講有となられた日歓上人が当時「貧民窟」と呼ばれた、いわゆるスラム街のようなところでご信者さまのご供養をお受けになり、それをいただかずに帰ってきたのを叱られた、その後に現証の御利益として顕れた、というものでした。
こうしたことを聞いてゆくと、いい意味で、味覚を麻痺させておかないと、何か好き好みでバクバク食べて、嫌いなものは眉をひそめてイヤイヤ食べるというような、嫌な教務になるのではないかと思ってしまった。
お坊さんの美食家って、最悪かっこ悪いと思い込んでいたし、今でもそう思っているから。
そういうことを繰り返しているうちに、なんだかよく分からなくなっているように思います。
何が好きで、何が嫌いなのかもないし、アレルギーもないし、食べられないものもない。
パクチーも嫌いだったけど、今は食べられるし、むしろ「いいね!」というくらい(笑)。
美味しいところにも連れていっていただいて、本当に美味しいと思うけれど、特別な感動があるかというと無いような気持ちもするし。
何よりも、落ち着く場所というか、落ち着くお店は好きだけど。
だから、最近は僕が「おいしー!」と言っても信用がない(汗)。
御講で「美味しいですー!」と言っても、どこか周辺が冷ややか(笑)。
そんな気がしますー。
でも、これからは、体の声も聞き、しっかり味覚も養わないとダメだと思っています。
今も、やっぱり首から肩、腰も痛いし。
心が一番痛いのだけどー。
京都に着きました。
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