今から、ちょうど20年前、妙深寺の初代ご住職、清水日博上人について、昭和初期から共にご奉公された広瀬御導師と、柏御導師が、そのお人柄やご奉公について、書き遺してくださいました。
今日も、長野にご奉公に伺うのですが、古い書物を拝見しながら、往時のご奉公をお偲び申し上げ、今日の、報恩のご奉公を思うのです。
日博上人の言葉の中に、海外弘通についても、全く的を得た、宗門の海外弘通の当初からの理念、普遍のご奉公を述べてられていたことを知ります。
妙深寺が刊行した『五十年のあゆみ』に記載された文章ですが、車の中で時間がありましたので、車酔いをしてもいいと思って、文字起こしをしてみました。
どの地域でも、門末でもあると思いますが、先輩の、佛立教務の、開拓期の、戦時中、戦後の、獅子奮迅のご奉公と、その強い絆に、心打たれます。
終戦70年。
忘れてはならない、貴重な資料として、掲載させていただきます。
長野本晨寺住職 広瀬 日謙
「この君(日博上人)は春日のごとしそばにをれば 心次第にぬくもりてくる」
石の歌は、昭和二十六年五月号の「一実」紙に載っているので、その頃に詠んだものかと思われるが、上人のお心の温かさというものは初めてお目にかかった昭和三年以来、私をはぐくみ育てて下さった温かさです。
私が佛立宗に入信させて頂いたのは、昭和二年九月二十四日で、三ヶ月余り後の昭和三年一月六日、私が住んでいた東京淀橋の高田馬場駅に近い、第八本立組を含む教区の受持、即ち責任講師として御講席にお見えになった上人に初めから心を惹かれました。それは私が二十五才で上人が二十三才という若さと、色の白い丸ばちゃの可愛い感じに似合わず、響きのある力強いご法門の話し方などにあったと思います。私は時間の許す限り、上人ご出座の御講に参詣させて頂きましたが、第一の楽しみはご法門でした。入信以来日が浅いのでご法門の内容などはあまりわかりませんが、その音声や、淀みのない滔々たる話ぶりに魅了されていたのです。お助行のお供もさせて頂きました。三月のある日、お参詣のお供で歩いている時、その魅力ある声で得度を勧められました。夢中で「諾」の返事をしました。
『それなら御導師(日晨上人)に伺ってくるから』
数日後、
『お許しが出たからいつでもいらっしゃい。だけどオッチョコチョイは駄目だよ、と仰しゃったがあんた、オッチョコチョイじゃないだろうな』
どんなのがオッチョコチョイなのかわからないが、深く考えないで得度の返事をするなど、こんなのがそれに当るんでしよう。そのまま二ヶ月がすぎ、 上人に催促されて、甲府に居る母に報告がてら浄土宗である母を当宗に入信させて、六月一日、乗泉寺に入寺。八月七日、日晨上人のお剃刀を頂いて無事得度式を挙げて頂きました。
私の立場から記しているとキリがありませんので、日博上人の方にペンを置き換えます。
日博上人の心のあたたかさは、ご弘通本位の思いから出てくるもので、私利私情の全然さし挟まれない、それは厳しさを感じさせるところがあり、それだけに強い信頼感を呼び起こす力があります。
日博上人の人日、御法門や講話を聞いて誰もが感じることは、この信頼感でしょう。上人のお話は第一に自信を持って語られることです。これはお若い時から、日蓮大士の御遺文はもとより、修養書等にいたるまでよく読んでおられ、又、それらをよく記憶していること、更に感受性が強く、判断力が素晴らしい。中でも特記して置きたことはあの膨大な日蓮大士の御遺文を全部、教務見習い中に読破しておられ、それが後に御法門の中に随時活現されていることです。ですから一面を見聞して多面を測知し、表皮に触れて骨肉を察することが速く、しかも弁舌が爽やかで、言わんとするところを淀みなく表明し得ると いうのですから、人の心を魅了する 筈でしょう。又、 上 人の特質は一つの骨子を得るとその肉付けが非常に巧みで、そ れが文章などにも現れて興味深く読ませます。その好例が『コーヒーの壺』です。私の拙い記述よりも『コーヒーの壺』を一読して貰うのが、故上人のお人柄を正しく窺い知る第一の方法かと思います。若しこの好著が絶版になっていたら、何とか復刻してほしいものと念願する次第です。
・サイパンのご弘通
渋谷か目黒かに川上某という信者がいて、その伝手でサイパン行の議が乗泉寺内に起こり、日博上人がその使命を帯びて出向されることになりました。その事に関して『コーヒーの壺』の「はじめに」九頁 の処に、
『昭和十五年七月二十二日に、内南洋の、ご弘通の調査と布教の師命を受けてゆく事になり、当時としては、最大の二十二人乗りの水上機で、パラオ、テニアン、サイバン島と、約一ヶ月半に亘って、視察、サイバン島に敷地六百余坪の払下げを当局より受けて、一寺建立の認可を得て返って来た。後に、故・世戸応眼師が乗込んで、立派に御本尊も奉安して一寺の建立を成就したが、開筵式を前にして惜しくも彼のサイバン島の玉砕で、問題を今日に残しているが…』
と記されています。玉砕前に難を察知した応眼師は、奥さん母子に御尊像をお供させて、輸送船で無事内地に還ってきましたが、応眼師は当時上等兵でしたから玉砕は免れませんでした。
・ブラジルご巡教
プラジルへは二度ご奉公に行かれていますが、第一回は第十一世講有日颯上人のご巡教の時です。
この巡教は昭和三十年七月六日羽田を発って、同十月四日羽田に帰られるまで約三ヶ月、日颯上人に随伴してご奉公なされたのですが、その帰朝報告を各地で講演、更に広く知って貰うためにまとめたのが『コーヒーの壺』で次のように述べられておられます。
『今度の南米巡教だけは、七十三才の御高齢にましまして、南米巡教の為、不惜身命、機上の人となり、バンクーハ ーで御遺言書を私に預けながら遂にこれを克服し、プラジルの天地に一大弘通の成果を挙げられ、其の上、再度一宗の与望こばみ難く、第十四世の御講有位に御晋み遊ばされた日颯上人の御高徳と、プラジル佛立宗の歴史、特に日水上人始め、創建の功労者や、事績を紹介して、明日の宗の為に、 一天四海皆帰妙法の為に貢献するものあればと、愚鈍怠惰の身に鞭打って帰朝以来、東京、大阪、京都、名古屋、横浜其他全国各地に百有余回の報告講演をさせて頂いて来たのであった。
処が、私の出向けぬ地も多く、聴けぬ人も少なくない故、「文書にて発表せよ」とのおすすめにより、機関誌『一実』紙上に南米巡教報告講演として、二年半に亘って記載させて頂いたのであった。すると、今度は「プラジル諸事情の紹介になる」「プラジル佛立宗の歴史保存の為に」「佛立宗海外巡教記として」「教化の手引になる故」是非一本に纏めて刊行する様に、との大方のすすめで、ここに一実社より発行する事になったものである。
発行に当って、題名を何とするか?と種々考えたが、結局、南米での代表的講演の題名であった『コーヒーの壷』という事にした次第である。
この巡教は、時の御講有でおわした第十二世日宥猊下の御計らいはもとより、当時の宗参議の英断であった。 そして、当時宗門は挙げて物心両面に亘って御援助下さったものである。私はここに改めて皆様に深く感謝をさせて頂くと共に、恩師日晨上人の御徳を汚した事を深く慙隗している。
又、先輩、友人、そして横浜妙深寺と小田原法正寺の幹部、役中信者に無事此の大任をはたせて貰う事が出来た陰の苦心、心労を重ねて謝するものである。
が 、それよりも、これよりも、プラジル在住の僧壇が、如何にこの巡教に苦労をし、努力をしたかを思う時、唯々、感謝の外はない。
どうか一天四海皆帰妙法を理想とする我が宗門人は、海外弘通の為に、往昔の日教上人を始め、茨木現樹師、水野竜氏の如くあって貰いたいものである。
海外弘通の為に国内の異体同心の結束がいよいよ強く、折伏教化の弘通が火と燃えて 、その 為に国内宗門が盛り上がり、盛りあがった日本国内の後援が、海外在住の僧壇をしてより一層の奮起をうながして、海外弘通の一大飛躍となる様祈ってやまないものである。
終りに、今は亡き得度親、宇都宮常照寺の日陽上人、並びに父母姉妻の霊前に、感謝の唱題と共にこの書を捧げるものである。』
以上、引用した趣意は、このプラジル巡教が故上人のご生涯において重要な意義をもつものであり、『コーヒーの壺』の内容が上人の真価を窺い知る何よりの手掛りとなることを知って貰いたい念願からであります。
・第一回ブ ラジル巡教教余録
『ノンテン小唄』
日博上人がプラジルで作詞された『ノンテン小唄』がご帰朝後「テイチクレコード」に 吹き込まれ、非売品として希望者に頒布されました。歌詞其の他は、「一実」紙昭和三十一年七月号に発表されているので、それを転載します。
清水正深 作詞。平川浪龍 作曲。宮脇春夫 編曲。菊地章子。針谷謙二 唄。テイチク管弦楽団 音楽。舞踏振付 藤間松枝。
⑴
松の葉越しの あの山あたり。朝日はのばるヨー。私しゃ淋しい、私しゃ淋しい。ノンテン ニヨ ナモラーダ。
⑵
いきな音する 水車のかなた。夕日は沈むヨー(以下囃子同じ)。
いきな音する 水車のかなた。夕日は沈むヨー(以下囃子同じ)。
⑶
暮れた牧場に あふれる牛は、仲よし子よしヨー。
⑷
若いモッサに 尋ねてみたら、いい人いるわヨー
⑸
此処はサンパウロ 見上げるビルに、降る降る雨はヨー。
⑹
⑹
リオの港に あかりはともり モッソは嘆くヨー。
⑺
みどり求めた パラナの道は、真赤なポエラーヨー。
⑻
一人来て立つ アマゾン河は、向うが見えぬヨー。
・妙深寺、法正寺、妙現寺の三ヶ寺が教化誓願達成
伯国ご巡教慶讃をこめて感謝大会
昭和三十三年十二月七日、箱根三味荘で右大会が開催された折、お祝いの気持ちをご披露させて頂いたのが、後に『コーヒーの壺』の巻頭に載せられたので、上人の御徳を別の角度からお伝えさせて頂く意味でここに転記しました。
昭和三十三年十二月七日、箱根三味荘で右大会が開催された折、お祝いの気持ちをご披露させて頂いたのが、後に『コーヒーの壺』の巻頭に載せられたので、上人の御徳を別の角度からお伝えさせて頂く意味でここに転記しました。
『伯国巡教帰朝三周年を記念して
日博上人に之を捧ぐ』
日博上人に之を捧ぐ』
歓尊余風拝此師(歓尊の余風此師に拝す)
変乾土必為澳地(乾土を変じて必ず 地と為す)
総監飛翔南米空(総監飛翔す南米の空)
帰来三年声名偉(帰来三年声名偉なり)
清光慈訓普盛都(清光の慈訓盛都に普く)
本光悲願潤奥鄙(本光の悲願奥鄙を潤す)
遠送白風払謗塵(遠く白風を送るに謗塵を払い)
近晨上下為好士(近くは晨上の下為れ好士)
簡単に意味をのべますと、歓尊とは第八世講有日歓上人で乗泉寺の先董でまします御聖であります。無欲活淡、深いご慈悲と厚いご 信心とを以って、日随上人より「日本一の弘通家」と折り紙をつけられたお方で、今日 の乗泉寺の基盤を築かれたので、乗泉寺中興開基という称号を贈られています。その無欲さと、折伏の強さと、いかなる処にもご弘通の花を咲かせる点をよく相承しているのが日博上人で「歓尊の余風此師に拝す。乾土を 変じて必ず澳地と為す」とはその意で、乾土とは乾枯びた土地、澳地とは潤っている土地です。其の特異性を認められ、挙宗一致、推されて南米布教の途に羽田空港から飛び立った。今日すでに満三年を経過していますが、其の名声はいよいよ高く、其の功績が輝いています。 「総監飛翔す南米の空、帰来三年声名偉なり」。
プラジルに於いては、リンス市、サンパウロ等の盛都もあり、数十時間ハイヤーを走らせる想像外の奥地もある。其の広範な地域に亘 って早朝から深夜まで駆け廻り、信者への折伏教導はもとより、信者以外の方面からもラジオ放送、講演会等の以来を受けるなど、其のご奉公の成果というものは実に偉大でありましたが、かかる上人の性情の起因するところは、厳格な父君と、信心厚く慈愛深い母堂との優れたご性質を併せ持たれている上に、信心本位の公正な判断に基く行動の賜と拝され、その意を「清光の慈訓盛都に普ねく、本光の悲願奥鄙を潤す」と表現しました。清光は父君の、本光は母堂のそれぞれ院号であります。
「遠く白風を送るに謗塵を払い、近くに晨上の下為好士」、遠くは地球の裏側のプラジルの意、謗塵を払うとは謗法の塵を払うことで、諸の誤解や誤りを糺すこと等、その内容は『コーヒーの壷』が詳しく語ってくれています。「白風」とは日博上人の初めが「日白」と号されたのによっています。近くというのは現在の意、恩師日晨上人門下中の一異彩として、 「これ好士」と称え、冒頭の「此師拝す」の語と対比して結んだのであります。
・第ニ回ブラジル御巡教 日晨上人に随伴して
『コーヒー の壺』の初めに次の記述があります。
『死の宣告を受けた私の青年時代は死闘の時代であった。姉のおかげで、東京小石川大塚仲町で、 斎藤古野女史の教化で佛立宗の信仰に入り、桜井謙有氏(後の宇都宮常照寺創立者日陽上人)の御導きで、漸く死線を越え て、大正十五年六月十三日の剃髪得度して、東京乗泉寺日晨上人の門に加えて頂いたのであった。
そして内南洋の、ご弘通の調査と布教の師命を受けてゆく事になったことは、すでにふれましたが、この内南洋へ飛行の時の喜びは、忘れることの出来ぬものである。当時ものした腰折れに、
「大鷹に乗りて大洋天がける 幼きころの夢路いまゆく」
というのがある。
すると、奇しくもそれから丁度十五年目、昭和三十年七月六日に、今度は南米プラジルに、今の御講有日颯猊下の随伴をして、巡教をさせて頂いて帰って来た。
二度あることは三度あるという。ほんとうであろうか。昭和四十五年七月には、月世界か?はたまた、火星か?宇宙巡教の旅に私は宇宙旅行のロケット機に乗込む事になるのであろう。
兎もあれ、 この様な夢を持っている私は、今の青年に比べて、何と幸せな身であろう。
と夢をみつづけいるお目出度い幸せものである (後略)』
と夢をみつづけいるお目出度い幸せものである (後略)』
(『コーヒーの壺』九頁)
日博上人が第三の十五年目、昭和四十五年の飛行機による飛躍を夢みておられたのがグッと早まって、昭和三十八年、第十五世講有に晋位遊ばされた日晨上人が、どうしてもプラジルに御巡教せねばならぬという、緊迫した状勢が起こり、昭和三十九年八月二十一日羽田からお発ちになりました。
しかし、ブラジルの現状は必ずしも無条件に講有巡教が行われる訳ではなく、いろいろの下準備、地ならしが必要で、それには既に巡教の経験をもつ日博上人の出馬に期待する外はな いという事になりました。しかし、当時日博上人は甚だしく健康を害しておられ、永らくの闘病生活の予後の療養中で、 一般の常識では、とてもプラジルへの出向など無理だという状態でした。ところが日博上人は、自分は十九才の時病死している筈の身、 いつ死んでも今まで生き延びているのだからと口癖に云うておられた位ですから、プラジル巡教のことを耳にすると、「死んでもこのご奉公は私がさせて貰わなくては」と、日晨上人のご了解をいただいて一人で先発し、諸問題を次ぎ次ぎと処理して、プラジルの教講が随喜の内に日晨上人の御巡教を円成することが出来ました。
この御巡教に関しては御講有が昭和四十年に『プラジルを巡教して』と題する本を出版され、御巡教の様子を窺うことが出来ます。日博上人が先発していろいろ骨折った事はご自身で何も発表していません。上人の奥床しいところです。
この御巡教の成果として特記しておきた いことは、日晨上人に、プラジルで最高の南十字星文化勲章とコメンタドールの称号が贈られたこと。これを贈られた日本人は極めて数少ない由、それに日博上人に、プラジル文化功労賞が贈られたことで、この事はプラジル在住の信者を通して、御巡教の成果の現われの証明とも云えるものです。
日博上人が夢み描いておられた、第三の十五年目 、昭和四十五年は本当に夢となって、上人は昭和四十二年五月四日、宇宙旅行ならぬ寂光浄土へ帰る旅に立たれました。
・終りに
第八世講有日歓上人が、日博上人が曽て昭和十七年頃、ある事件で誤解を受け、一部の有力な人たちから非難めいた言葉が流れた時、『誰が何と云っても、ワシは正深が好きじゃ』と仰っしやった一言で、事態が収まったことがあります。
昭和十八年、神奈川教区の受持責任講師として、乗泉寺から横浜へご奉公に通いました。そして、岡野町のガスタンクの前に川を隔てて高橋という人の家が売りに出たのを買い取って、内部を改造して仮道場として、神奈川妙証教会と称して、昭和十九年春開筵式を奉修しました。高橋という人が家を売ったのは、ガスタンクが空襲の目標になるのを恐れての処置でした。日博上人は、「どこにいても空襲を受ける時は受けるんだ」と仰っしやって、敢えて危険な場所を選んで買って出られたわけです。
話が跳びますが、昭和二十年五月二十九日、日歓上人の御一周忌の御法要が世田谷別院で営まれている最中に、横浜が大空襲を受けました。日博上人は私ども乗泉寺教務一同と共に別院に参っておりましたが、こういう情況の際の処置について、平素からその時、お寺にいる者の行動について指示を与えておられました。それによって空襲を受けている当日は、お寺にいた二、三の教務が、焼夷弾による火の手がお寺に迫ってきたのに対して、近隣の防火に力を注ぎ、お寺へは六畳ふた間の中の一室に五〇キロの焼夷弾の直撃を受けましたが、偶々、表側ローカで畳を一枚立てかけて、その陰で本棚の本の整理をしていた、金子さんという台所係の老婆が、すぐ準備してあった砂などをかけて火を消し、内外共に火を防いだので、お寺を火災から護ることが出来ました。
平素の心構えと、積功累徳のご奉公の徹底という、上人の日常の在り方かこうした処にも遺憾なく発揮されたのです。
得度已来、私の受けた恩恵は数え切れない程ですが、本晨寺としても、「本晨寺には住職が二人いるんだ」というて、ご自分のお寺のように、 あれやこれやと心を遣い、信者のご指導に力を入れて頂きました。
得度已来、私の受けた恩恵は数え切れない程ですが、本晨寺としても、「本晨寺には住職が二人いるんだ」というて、ご自分のお寺のように、 あれやこれやと心を遣い、信者のご指導に力を入れて頂きました。
上人の事績は非常に幅が広く、奥が深く、これまで述べた事はその中の一端に過ぎませんが、 一応これで擱筆させて頂きます。
ありがとうごさいました。
『日博上人の回顧』
館山広全寺住職 柏 日葉
此のたび妙深寺ご住職長松清涼師より創立五十周年記念寺史を編纂するので、先住日博上人二十七回忌に当たりますから、上人ご在世中当時妙深寺のこと等の回顧録を寄稿してほしいとの依頼がありましたので筆をとりました。
此のたび妙深寺ご住職長松清涼師より創立五十周年記念寺史を編纂するので、先住日博上人二十七回忌に当たりますから、上人ご在世中当時妙深寺のこと等の回顧録を寄稿してほしいとの依頼がありましたので筆をとりました。
清水日博上人は昭和八年館山妙證教会で、二ヶ年ご奉公後、都築正全師と交替となり、日博上人は乗泉寺へ帰山なされたと記録されてあります。
昭和十八年三月、 日博上人は横浜市西区岡野町に転任せ られ百八十戸あった信者を育成し神奈川妙証教会を創建した後、二十年五月横浜で大空襲の戦災にあったが、御利益を頂き教会は火災を免れました。当時隣家隣 接地を買収して発展したものの、信者はかなり被害を受け分散したようであります。上人はよくこの苦しみを耐えて信者を励まし、折伏強盛の信カには快傑なる上人ならではの思いがいたします。戦時下に於て弟子を養成するかたわら寺内役員を確立し、事務局を発足させ、さらに教養面にも力を注ぎ、教区体制を計り、協力一致したご奉公振りは全く手本 とするところ大であります。特に宗教と医学を研究され、御法門は信者にわかりやすく雄弁に説くので説得力がありました。
昭和二十二年十一月八日、本宗独立を記念して清光山妙深寺の寺号公称慶讃法要を厳修されました。私も館山から信者を連れてお参詣させて頂きました。終戦後のことで信者の心も平和となりお参詣多く盛況裡に奉修されました。
その後一ヶ年過ぎた頃と思いますが、館山教区大原に青年信者がおりましたので、 妙深寺入寺の話を親にしたところ是非にお願い したいとのことで、早速妙深寺へ連絡し、ご都合を伺って本人を連れて横浜に参り入寺させて頂いたのか今の鈴江正了師であります。
昭和二十五年日歓上人御十七回忌報恩ご奉公として教化誓願一千戸、教務員増加十七師、教区内改善等をスローガンに勇猛精進のご奉公で常に信者を励ましており、この頃、館山でご奉公中の野口糺(ただし)氏を折伏し日博上人の弟子となった。その後私に館山教区に得度のできそうな信者があったら是非世話してくれと話がありました。 このように頼まれると常にあの人は如何か、この人はどうかと頭から離れない、その時思ったことは教化折伏も常にロに出してご奉公しなければと反省した次第です。
その後は妙深寺、小田原法正寺の御会式には交流参詣を教えられ、できる限りの参詣をさせて頂きました。広全寺も年一回は日博上人の御導師を頂き上人との触れ合いが始まったのであります。色々な面でご指導を頂きました。上人は常に館山は第二の故郷だよと申されていました。それだけに教区の状況はよくご存じで、私としても大変弘通の面で助けられ、日博上人の御弘通の後を歩むことができたのであります。昭和三十一年六月広全寺御正当会の導師をお願いして盛大に奉修させて頂きました。次いで七月当時御講有であらせられた梶本日颯猊下の随伴として、南米プラジルの御巡教ご奉公をなされ偉大な成果を得て無事帰国なさいました。御講有 伴のご苦労を『コーヒーの壺』というタイトルの記念誌にまとめ、後世の人の為、信者の為に残された功徳は、今も生きております。早御二十七回忌を迎えるにあたり、故日博上人の喜びは如何ばかりかと申すに及ばず何と素青らしいご奉公であったことでしよう。
甚だまとまりのない回顧録ですがお許しください。
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