2015年6月29日月曜日

桂浜

飛行機、間に合いそうですー。

すごいスケジュールで駆け抜けました。

夕方の桂浜にすべり込みました。

坂本龍馬記念館にお伺いして、もったいないことに森館長直々にお出迎えいただいて、感激でした。

また、京都佛立ミュージアムの企画展でもお世話になっている亀尾学芸員さまに展示の案内をしていただき、みんな興味津々に展示を拝見しました。

本当に有難かったです。

何より、大学時代の大親友、久男くんがまきちゃんとお嬢さまと一緒に桂浜まで来てくれて、母や瓜生さんと再会することが出来ましたー。

大学時代、彼が複雑骨折をした時、瓜生さんに大変お世話になったことがありました。

まさか、土佐の高知で再会できるなんて。

ありがたいです。

龍馬さんの銅像に移動し、浜まで降りて風光明媚な桂浜を堪能しました。

そして、空港へ。

無事に帰山し、皆さまが帰宅できますように。

四万十川

ご信者の皆さまと、四国を走り回っておりますー。

松山からバスで四万十川に向かい、はじめて四万十川の川面に浮かびました。

穏やかな、大きな四万十川。

カヤックで下ったら気持ちいいでしょうね。

道中、龍馬さんの脱藩の道があったりしましたが、とにかく駆け抜けるために通過(涙)。

飛行機に間に合うように走ってます。

いいお天気で、ありがたいです。

道後温泉


徳島から愛媛、四万十川から高知を駆け抜けてゆきます。

昨夜は松山市の道後温泉に泊まらせていただきました。

実に久しぶりに、お参詣いただいた皆さまと一緒に過ごさせていただきました。

道後温泉は「日本書紀」にも書かれている日本最古の温泉といわれているのですね。

道後温泉本館は、明治32年に桃山時代の建築様式を模して建てられたそうです。

振鷺閣(しんろかく)の屋根の上には気品ある白鷺が羽を広げていました。

宿のロビーに、夏目漱石の本が並べられていました。

手に取らせていただいて、本が、宝物だった時代を感じて、嬉しくなりました。

大切に、大切に、作られた本。

大切に、大切に、されてきた本。

装丁、表装、素晴らしい。

まだ、本が宝物だった時代。

デジタル化してゆく時代、次から次へと本を買って、リサイクルしていく時代の中でも、本の大切さは忘れたくないですね。

2015年6月28日日曜日

一度の詰め助行、一生分のご奉公

快晴の徳島。

本当に有難いことに、無事、立正寺の開導会を奉修させていただきました。

妙深寺から39名の皆さまにお参詣いただきました。

立正寺は阿波おどり発祥の地に建立されている本門佛立宗のお寺です。

美しい本堂、開導聖人ご真筆御本尊、御眼の大きなお祖師さまのご尊像、金色のご内陣に、大変感動いたしました。

石井御導師とのご縁は、妙深寺でご信心されている柳澤さんご一家とのご縁からお声をお掛けいただきました。

柳澤さんは長野教区になくてはらないご信者さまですが、今から数十年前、大阪に住んでおられた時に、交通事故に遭い、瀕死の重傷を負われたのでした。

当時、まだ、ゆかりさんとかおりさんが、小学生だったとのこと、御導師も若い清風寺のお教務さんだった頃のことです。

朝、石井御導師が気になって柳澤さんの自宅まで行くと、姉妹2人が学校にも行かず玄関にいたそうです。

「お父さんとお母さんはどうした?」

と聞くと、姉妹が、

「寝てる」

と応えたと。

「寝てるじゃないよ。どうしたの?」

聞くところによると、朝お母さんが家から出て前の通りで車にひかれた、身体が痛いので家に帰ってきて、それで寝てる、と言う。

事故を起こした車には、大丈夫と言ったから行ってしまった、とか。

「そんなんじゃ絶対にダメだ。病院に行きなさい」

御導師はそう言って、すぐにお母さんを起こして病院に連れて行った。

案の定、腰の骨を折る重傷で、大変な事故であったことが分かり、

当時のことですから、もし治っても一生車椅子の生活になるとお医者さまから言われて、家族一同目の前が真っ暗になったのです。

しかし、御導師はこんな時こそご信心の出番、お助行だと言い、年の瀬のギリギリまで毎日の詰め助行、連日ご自宅に伺ってご祈願を続けられた。

そして、見事にお正月が明けると、お母さんは退院、立ってお礼のお参詣に来られるまでになったと。

この思い出、このご奉公を、柳澤さんのご家族、一族は、今日まで心の柱、ご信心の柱として、過ごしてこられたのでした。

私は、何度もこのお話をお聞きしました。

すごいご奉公です。

今まで、いろいろな辛いことがあり、ご信心を辞めようと思ってもおかしくないこともありましたが、こうしたご奉公があって、それを柱に、頑張ってこられたのです。

最大の不幸を、最高の幸せにする。

一度の詰め助行が、一生分のご奉公になること。

お助行、つくづく大切です。

今回、私のような若輩が、唐突にも徳島・立正寺のご奉公に伺ったのは、柳澤さんのご縁があって、お声をかけていただいたからでした。

ご恩返しのつもりでご奉公させていただきました。

ありがとうございました。

はるばる横浜から来た私たちのために、立正寺の皆さまが阿波おどりを見せてくださいました。

私たちも一緒に踊らせていただきました。

おもしろーい。

鈴木日樹御導師、小野山日鷲御導師、小野山淳鷲ご住職にもご出座いただき、緊張しました。

これから、随行の清従師と、妙深寺のみなさんと一緒に、四国をグルッと周らせていただきます。

超過密スケジュール(汗)。

世界はどこも堅実ではない

フランス、そしてチュニジアとクウェートで、テロによる多数の死傷者が出ました。

中東のテロについてはイスラム国(IS)が犯行声明を出したとのこと。

ISはラマダン中のテロを呼びかけていたので、これに応えたということでしょうか。

チュニジアのスースの高級リゾートホテルを襲ったのは、学生であることが分かったようです。

武装した彼らは、海からボートで乗り込み、ビーチやプールで日光浴を楽しんでいた観光客に銃弾を浴びせました。

死者39名とのこと。

現地の映像を見ていると、テロとは最も遠くにいたはずの、いかにもリッチな、お年を召した大柄の女性が、水着のまま救護されていました。

ISにいる狂信者たちにとって、ラマダン中にリゾートで楽しんでいる人などは、異教徒であり、背信者であり、テロの標的に最もふさわしいと思っていたのでしょうか。

まさに、狂信者です。

信仰には、「正法正信」「正法邪信」「邪法正信」「邪法邪信」の4つのタイプがあります。

オウム真理教をはじめとするカルト宗教の事件から、「純粋な信仰者」の不幸を見てきたはずですし、信仰の自由といいながら「邪法」の恐ろしさも痛感してきたはずです。

兵器、戦力で、彼らの誤った信仰を正すことは難しい。

やはり、正しい法で、人の心を導くしかないと思います。

しかし、それが追いつかない。

ちょうど、このISという狂信的な人びとの起こした事件の一方で、同性婚が全米で解禁という最もリベラルな法判断がなされました。

み仏の説いたことを、真理、道理、法則、教えを、もっと、もっと、世界中に伝えなければならないと思っています。

そうでなければ、戦争やテロと、最も遠くにいたはずの人でも、あっという間に巻き込まれてしまうと思うのです。

後悔したくないから、努力したい。

古い仏陀の言葉です。

935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。

936 水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。

937 世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めていたのであるが、すでに(死や苦しみに)とりつかれていないところを見つけなかった。

938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。

今日は、畏れながら、四国、徳島・立正寺さまの開導会を勤めさせていただきます。

精一杯ご奉公させていただきます。

2015年6月27日土曜日

目が泳いでる(笑)

久しぶりの羽田。

今朝、久しぶりに次男坊と会い、昨日の兄弟げんかについて、ご宝前で話を聞いていました。

目が泳いでる(笑)。

仲良くしてもらいたいな。

梅雨の朝

横浜は、霧雨の朝です。

「きりさめ」という言葉、きれいな響きの言葉ですね。

シトシトと、梅雨らしい。

朝、思い浮かべたことは、

知ってるだけ

言ってるだけ

やってるだけ

どれもダメということです。

でも、

知ってるだけ

言ってるだけ

やってるだけ

知っていても、行動がともなわなければ。

言っていても、行動がともなわなければ。

やっていても、ハートがなくては。

身体の懈怠もよくありませんが、心の懈怠が一番よくない。

「彼不軽菩薩は初随喜の人」

初心の人、喜びの人。

「日蓮は名字の凡夫なり。」

南無妙法蓮華経、私は御題目におすがりして、我も助かり、彼も助かるご奉公をさせていただく凡夫です、と。

決して曲がらない信念、やわらかい言葉、謙虚な態度。

不軽菩薩のご奉公、お祖師さまのご奉公、私たちの流儀。

初心、喜び、口唱、折伏。

流儀を、間違えてはなりませぬ。

流儀を、忘れては成り立ちませぬ。

「道」とつくものには、流儀が御座います。

「茶道」「華道」「武道」、そして「仏道」。

初心、喜び、口唱、折伏。

ついつい、慣れて、慢心して、態度が横柄になり、言葉がぞんざいになり、外に向かわず、内に閉じこもり、難解なことを知って悦に入り、心も身体も動けなくなってしまうのが、末法の私たちですって。

私たちのご流儀は、簡単そうで、難しいのです。

だから、改良を、第一義にしなければならないとお教えいただきます。

常に、改良、自分のイノベーション、初心へ、喜びへ、口唱へ、折伏、菩薩行へと。

しかし、そこでも、イノベーションを起こさない、起こさせないようでは、ご流儀違いです。

教条主義

権威主義

佛立信心にも、佛立信者にも、全くふさわしくない、最も遠いものですね。

すごく自由で、すごくシンプルで、すごく闊達で、すごく前向きで、すごく明るくて、すごくあたたかくて、すごく熱くて、思いやり、パワフルで、疲れを知らない。

そんな方々が、私たちの先輩におられました。

み仏、不軽菩薩、お祖師さま、門祖さま、開導聖人。

「あなたのように、強くなりたい。」

ブラジルのみんなが茨木日水上人に対して歌っている気持ち、痛いほど分かります。

梅雨の朝。

2015年6月26日金曜日

一陣の風

一陣の風

風のない野原に立っていると、フッと、ひとかたまりの風が吹いてくるのを感じる。

その風が通り過ぎると、あたりまえのことだけど、風が無くなる。

また、風のない野原に立っている。

そして、また違う方向から、ひとかたまりの風が吹く。

その風が通り過ぎると、また風が無くなる。

僕は、風のない草原に立っていた。

「この風は、どこから来たんだろう」

「この風は、どこに行くんだろう」

漠然と、そう考えた。

呆然と、そう感じた。

長野で、そんなことを、感じました。

今日の教区御講、95才の奥野さんが、お元気でお参詣くださっていました。

戦時中のお話を聞きました。

モンゴル近くで終戦を迎えたとのこと。

日本が負けたなら、いっそ蒋介石の軍に入って戦おうとしていたとお話くださいました。

そうしていたら、戦友と共に、共産軍に捕らえられたと。

そして、処刑されてもおかしくないその時、預けられた民家の人が軍で懇意にしていた現地の人で、今まで親切にしてくれたと、隠れるための穴を掘り、逃がしてくれたのだと教えてくれました。

ありがたいです。

95才の人生。

岡田教区長の、ご披露も、いつも情熱があって、ありがたいです。

人生も、風のようなものでしょうか。

人との出会い、交わり、かかわり、通り過ぎてゆく時の重み、はかなさ。

この世に生を受けさせていただいた以上、素晴らしい、心地いい、一陣の風でありたいものです。

長野から東京で飛び戻り、乗泉寺で会議をさせていただいています。

2015年6月24日水曜日

エチオピアナショナルデー

無事に7月を迎えられるか、ギリギリの気持ちです(汗)。

今日は急きょエチオピアのナショナルデーをお祝いするレセプションに参加させていただきました。

実は、7月6日に、広島に投下された原子力爆弾の悲惨さを伝える被曝者の方が書かれた手記の、出版記念の会を開催しようとしています。

京都佛立ミュージアムで「トランクの中の日本 〜戦争、平和、そして仏教〜」が開催できるようになったのは、『トランクの中の日本』を編集した大原哲夫さまのおかげなのですが、お願いをする中で、現在編集中だったのが、この手記だったのです。

とにかく、ご恩返しのつもりで、私の出来ることを探し、ささやかな出版記念贈呈式を開催することになり、その昼食会の発起人とならせていただきました。

外交団長であるサンマリノ大使のカデロ閣下に対し、この原爆の悲惨さを伝える手記をご遺族から手渡し、世界の恒久平和を願う、ささやかな昼食会です。

一昨日、その会に、アフリカ連合の本部があるエチオピアのマルコス大使にも来ていただきたいと思って、お電話をさせていただいたのです。

そうしたら、明後日、ナショナルデーのレセプションがあるから来ないかと言われ、ギリギリのスケジュールですが、こちらのお願いばかりでは申し訳ないと思い、ホテルニューオータニまでお祝いに駆けつけたのでした。

よかったですー。

長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」は、戦争の悲惨さを伝えるだけではなく、この少年の姿勢、姿から、70年前の日本人の凄まじい精神性、徳性、品格、魂感じて、深く考えさせられます。

終戦70年にあたり、この少年の姿から、何かを感じていただけると信じて、米国のご遺族にお願いして、小さな小さな仏教系のミュージアムで、企画展を開催することが出来るようになったのです。
 

撮影したジョー・オダネル氏は、この写真について、自分の気持ちを書き残しています。


「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。

少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で弟を見送ったのだ。

私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?」

 

涙なしでは、読めません。


オダネル氏もヒロシマとナガサキで被曝し、2007年に亡くなられるまで実に50回以上の手術を受けていたとお聞きしております。


また、やはり、何らかのお計らいだと思いますが、一年365日ある中で、オダネル氏が亡くなられたのは、長崎に原子力爆弾が落とされた8月9日だったとのことです。恐ろしいくらい、尊いことだと思います。


オダネル氏は、長崎に立たれた時の心境を書き遺しておりまして、こうしたメッセージを現代に伝えたいと思っております。

 

『爆心地が目の前に広がっていた。一瞬息が詰まった。地球に立っているとは信じられない。見渡すかぎり人々の営みの形跡はかき消され、瓦礫が地面をおおいつくしていた。私はたったひとりでここに立つ。まるで宇宙でたったひとりの生き残りであるかのように。徹底的に荒れ果てた地表には、鉄管や煉瓦が不気味な影を落としている。まわりの静けさが私を打ちのめした。私は体を失った彫像を見つめる。口はからからに乾き、眼には涙がにじむ。やっとの思いでつぶやいた。「神様、私たちはなんてひどいことをしてしまったのでしょう」』


いよいよ、7月7日から、始まります。

明日から長野、週末は徳島から高知、横浜に戻って7月となり、月始総講、教務会、夜はインシー、そして京都、福岡、東京、そして6日の昼食会、7日の京都、宗会。

生き残れるかなー。

今年はお正月から「狂気的情熱」で生きると決めて、そのとおり、狂気的な情熱で過ごしてきました。

本気でなければ、ご奉公にならないから。

昨夜、白井貴子さまと本田清巳さま、KBS京都の正木編成局長さまと会食させていただき、ゆっくりとお話できて、むちゃくちゃ楽しかったです。

ジョンのお話、ヨーコさんのお話、スーパーライブから南伊豆のお話、エアストリームのお話、キャンプのお話、龍馬さんのお話、仏教のお話、申し訳ないくらい、もったい時間で、うれしかったですー。

この後、15時から妙深寺を会場に住職会。

狂気的情熱でがんばろー。

幸の湯、常さん、北九州

帰国後、成田空港から常さんの枕経へ直接向かいました。 穏やかな、安らかなお顔でした。こんなにハンサムだったかなと思いました。御題目を唱え、手を握り、ご挨拶できて、よかったです。とにかく、よかったです。 帰国して、そのまま伺うことがいいのか悩みました。海外のウイルスを万が一ご自宅へ...