『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』新潮文庫
平和は、戦争からしか学べないとするならば、なぜ日本人は戦争へ向かったのかを丁寧に検証しなければならない。
NHKスペシャル取材班が編著した『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』新潮文庫は、先の戦争に至るまで、様々な選択肢があったことを、膨大かつ詳細な資料に基づきながら、丁寧に紐解いている。
マクロとミクロ。
歴史は繰り返す。
過去、そして現在。
彼ら、そして私たち。
凄まじい災禍をもたらした「戦争」という問題の底に、どの国、どの組織、彼らだけではなく自分にも相通じる普遍的なテーマがあることを知らなければ、歴史は繰り返す。
悪者探しはむしろ悪者を裁くためではなく、自分にも、現代にも、あらゆる国や組織にも相通じる問題、身近な悪を知るためのプロセスでなければ意味がない。
戦争を忌避し、平和を唱えるならば、責任を果たさなければならないと思う。
同著書に掲載されている学習院大学の井上寿一教授のインタビューは示唆に富んでいます。
終戦70年に、読み返すべき文章の一つだと思います。
「日本は、誰か特定の人がリーダーシップを発揮するということがありません。
これは日本の政治文化なのかと思うほどです。
政権につけば現実主義化して、誰がやっても同じように見える。
あるいは諸外国からすれば、すぐ首相がかわると。
確かにそのとおりですが、見方によっては「独裁的なリーダーシップを発揮することは日本にはふさわしくない」と時代を超えて日本人は思っているのかもしれません。
このような日本の政治文化は、大衆民主主義が独裁者を擁護するというリスクを避けられるという点ではいいのかもしれません。
しかし逆にいえば、意思決定せず問題を先送りしてやりすごすことができるのですから、それらが蓄積し、大きなツケを払わされることになる。
リーダーシップを発揮して短期間に、それぞれの段階で、決断を下していけばよかったのに、先送りしていくうちに悪いものがたまって、それを清算する役割を担ったのが日米開戦でした。
国民が日米開戦によって心理的に解放されたのは、アメリカと戦争をすればすべて解決がつくと思えるくらいに、困難な問題が積み上がってしまったということでしょう。
同じようなことは、時代を超えて起こり得ます。
いまの例でいえば財政問題がそれで、赤字国債を発行してもそれは自分の責任ではなく、「景気がよくなれば」と歴代政権で続けているうちに、とてつもない借金が積み上がってしまった。
「いつか清算を迫られるだろうが、それは自分じゃないからいい」という態度が、日本国家のリスクを膨らませている。
イギリスは思い切った財政削減を行った。
リスクを伴う選択ですが、一つの考え方だと思います。
日本は、景気を刺激するのでもなければ思い切った財政削減をするでもない。
どちらにしても、決断するべきですね。
短期間にはさらに赤字国債が膨らむが、景気を刺激し、景気がよくなれば税収も増えて、結局は回収できるとなるのか、そうではなくて、いまは痛みを伴うかもしれないけれど、財政を大幅に削減して、失業者もふえるかもしれないけれど、ここで我慢すれば赤字を減らせるんだとなるのか。
どちらかに決断すべきですが、戦前と同じで先送りする。
あるいは両論併記で、自分が責任をとらない。
それが日本政治の文化であるかのように繰り返されているのです。
話し合い民主主義は大切ですが、学級会民主主義ではだめで、集まって話せば決断ができるわけではなく、それを踏まえて誰かが自分の責任で決断を下さなければいけないのに、それをみんなが避ける。
自己利益は確保したいけれど、返り血を浴びてまで決定を下そうという人は、いつの時代もいないのですね。」学習院大学教授 井上寿一氏
0 件のコメント:
コメントを投稿